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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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夫婦別姓訴訟をめぐる最高裁判決を読んで

些細なきっかけで夫婦別姓訴訟をめぐる最高裁判決を散読してみる。

読みながらなぜか、窃盗罪は一見倫理的に正しいが、財産を所有するものの利益のみを擁護しているとして法の階級的恣意性を指摘したマルクスの批判を思い出した。(財産を持たない者は窃盗罪の恩恵にそもそも与れない)。

法律は、その理論だけを追うと理論的に完結しているものの、経済関係やジェンダー関係など「法律外」との権力関係で見ると、法律がある種の現状維持の機能、すなわち「現状から利益を得ている人たちの立場」を正当化する機能を果たしていることがしばしばあるだろう。(法が「イデオロギー」として機能している、とも)。

最高裁は、その辺、もちろんプロなので、話を「法律の内部」にだけ限定して論理の一貫性を築いている。同時に、自分たちの論理の一貫性が法律の「内部」だけのものであるということも自覚しているようである。

でありながら、「法律外の権力関係」に口を挟むのは法曹家として「越権行為」であるとする職業的矜持か、法律外の権力関係は務めて捨象するという、良くいえば謙虚な、悪くいえば退嬰的で野心を欠いた保身も行間から感じる。

最高裁判決を読みながら、形式的権利における男女平等が実際の社会的承認における男女間の公平に必ずしもつながらないという、第二波フェミニズムが提起してきた長年の課題を強く感じた。

20世紀フェミニズムの教科書的理解では、第一波フェミニズムが両性の法的政治的権利(とりわけ参政権)を主張して登場するも、20世紀前半でおおむねその目的を達成した後、そのような形式的な権利が実現しても様々な社会構造上の不利な構造(いわゆる「ガラスの天井」)が存在することを自覚し、それゆえ第二波フェミニズムが出てきた(1960年代以降)。

現行の民法750条でもまさに、「女性は男性の姓に改姓すべし」とは書いていないし、夫婦が「協議」して決定できることになっていて、法律の上では差別はない。だが、現実的には96%の女性が男性の姓を名乗ることになっている。それには、ミクロな権力、「常識」、社会的体面、風習などいろいろな「法律外」の構造があろう。

現実には民法750条は、夫妻どちらかの氏を「協議」によって選択できるとしながら、同条文は実質的には「男性の氏による夫婦同姓」として機能している。しかし、法律にしたがえば、きちんとしっかり、なんともPC的に、結婚に伴う氏の変更は両性の「協議」によるのである。罵詈雑言の名手マルクスだったら、「なんとありがたき『協議』による決定!」と毒づいただろう。

「夫婦が『協議』によって氏を決めれば96%が男性の氏となる」という現実的なミクロな構造/社会的な磁場が歴然と存在するなかで、「協議による夫婦同姓」を法律が定め、「改姓の不利益は存在するが通称使用で緩和される」と述べることは、どのような機能を果たし、誰の利益を代弁しているか。民法750条が、「両性のうちどちらの側の既得権」を擁護する機能を果たしているかは、明瞭のように思える。

判決では、改姓に伴う不利益の度合いが社会通念上許容範囲かどうか、というところが焦点になったようで、判決が投げたように国会が議論するべきなのだろうが、とはいえ、国会の現状は司法よりもさらに「救いなし」のような感覚なのだから、これまたなんとも・・・という感覚が残る。
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by akai1127ohi | 2015-12-24 02:24 | 政治時評 | Comments(0)

2015年安保がもたらした変化:③「リベラルな政治価値」の擁護と「ネオリベラルな経済原理」への対抗

2015年安保がもたらした第三の変化は、運動の思想的性格をめぐるものであり、極めて図式的だが、さしあたり、「リベラルな政治価値」の擁護と「ネオリベラルな経済原理」への拒否との共振の萌芽と形容しておきたい。

SEALDsを媒介とした国会前デモの思想は、立憲主義の擁護にしても、国民主権の再確認にしても、またそれらを支える、それぞれが自律的に思考して自分で判断し行動する個人の形成にしても、端的に「リベラルな政治価値」の再確認であった。中野晃一は、国会前デモの特徴を「いわゆるマルキストとか、左派、革新の運動ではなくて、個人主義、自由主義のマスムーブメントだということ 」に見いだしているが、2015年安保のクラシカルな性格を言い当てるものであろう。

しかし同時に、そのような若者の運動の背景に、「生活の不安感が増している現実」もまた広く指摘されてきた。交通費が捻出できずミーティングにも参加できない学生や、奨学金で多額の借金を背負う大学院生などの声は、安保法案反対の訴えの背後に、陰に陽に垣間見られた現実であった。その意味で、2015年安保も新自由主義的統治という経済的文脈から離れては存在しえず、したがって、「リベラルな政治価値」を擁護する運動が「ネオリベラルな経済原理」に対してどのような態度を決定しえるかは、今後の焦点の一つとなろう。

他方、元来このような「ネオリベラルな経済原理」に原則的な立場で対抗してきたマルクス主義出自の革新政党はどうだったか。たとえば共産党は、民主党政権時代からTPPや法人税減税、雇用の流動化といった課題で最も原理的な基軸を体現してきたといえる。

しかしながら、2011年の東日本大震災以降、これまでの動員型運動とは別の回路で生じた脱原発デモを受けつつ、旧来の革新政党もまた、独善性や教条主義を過去のものとしながら、新しい運動文化と順応、並存するようになった。また、民族差別やLGBTなど伝統的には「階級闘争」に従属するとされてきたマイノリティの課題に対し、その闘争の主翼を担うようにもなった。2015年安保もまた、このようなマルクス主義出自の左派政党の変化を掉さすものであったといえよう。

安倍政権という「クラシカルな反動」に直面して、デモによって可視化された世論の突き上げを受けながら、複数の勢力が一体となって「クラシカルな応答」を突きつけた2015年安保の力学は、いわば、「リベラルな政治価値」の擁護と「ネオリベラルな経済原理」の拒絶とを結びつける可能性を秘めている。そのような力学の最も政局的な現れが、来たる2016年参院選に向けた民主党と共産党による選挙協力の試みであり、安倍政権に代わる「次の政権」の枠組をめぐる模索であろう。

民主党政権が民衆的基盤を欠いたがゆえに挫折したというのであれば、それは民衆的基盤を作りえなかった民主党の責任であると同時に、民主党を自分たちの政権へと鋳り直すことのできなかった、われわれ民衆自身の責任でもあるだろう。「アベ政治を許さない」という流行語は、それが本気であればあるほど、アベ政治に代わる「次の政権」を作り出して支える民衆の力に転化するはずである。

では、そのような民衆との力とは何か?

それは、9月18日から19日の未明にかけて、議会での採決直前におよんで今なお、この国の主権者として自分たちの意志を反映させようと、デモの人波から自然と湧き起こった、あの「野党がんばれ」というコールの、その先にあるものであろう。

                    ***

2015年の夏を彩ったSEALDsの言葉を追っていると、時折、重要な局面で「賭け」という言葉に遭遇し、2015年安保の高揚がそのような「賭け」を契機としていたことを想起させられる。未来は常に不確定であり、その帰趨は誰にもわからない。しかし、未来が不確定であるということは、われわれがその帰趨を作りえるということでもあり、それは常に一種の「賭け」であろう。

そのような小さな「賭け」が大きな政治変動の巨波を生み出し、今なおその政治変動の帰趨が未来に向けて開かれている時、デモクラシーを「永久革命」と喝破した戦後政治学の言葉を、再び翻訳して見たくなる誘惑に駆られることは、おそらく自然であろう。すなわち、安倍政治が体現する「大日本帝国の虚妄」よりも、2015年安保が示した「戦後民主主義の実在」に賭けると。

2015年安保によって切り拓かれた水路を信じ、何とも見えない未来に向かって、その奔流に連なろうとする「賭け」に、私自身も参画していきたいと考えている。
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by akai1127ohi | 2015-12-09 16:00 | 政治時評 | Comments(0)

2015年安保がもたらした変化:②「政治エリート」と社会運動との結合

第二に、自民党政権に代わるオルタナティブな政治勢力を作り出す道筋をめぐって、安倍政治に対抗する側の内部においても、これまで大きく二つの立場が存在していたが、2015年安保で可視化された世論の突き上げは、この二つの立場の接近と収斂をもたらしたといえる。

安倍政治に対抗する一つめの立場は、政治家や官僚などの「政治エリート」に着目し、それらへの浸透と説得を通じて内側から政治変化を導き出そうとする立場であり、これは政治学者の山口二郎に代表されよう。もう一つの立場は、政治変革の規定因を社会運動に求め、世論や運動の圧力が「政治エリート」を突き上げることによって政治変化をもたらそうとする立場であり、2015年安保においては、「総がかり行動」の中心を担った高田健がそれを代表する位置にいたといえよう。

山口はかねてより政治家や官僚を相手に政権交代の必要性を説き、2000年代以降は民主党のブレーンとしてリベラル路線の明示による安倍政権との対決を提言してきた。しかしその山口にとって、2015年安保は「政治エリートを相手に民主主義を説くことの限界」を感じさせるものであったという。民主党政権の失敗の原因は、民主党が「社会における根を持たない点」にあり、換言すれば、「永田町しか見ていなかったから」であった(山口二郎「“不断の努力”がデモクラシーを進化させる」『世界』、2015年11月号、p59)。

そこにおいて、2015年安保の巨波は民主党の姿勢を変化させ、「少数の学者が政策や路線を献策するよりも、数万人のデモで憲法守れと叫ぶ方が、遥かに強力に政党を動かすことができた」。山口は、2015年安保を通じて、「社会が主で政治は客」という言葉の真意を痛感し、「自分の政治学者としての活動について反省を加え、今後の課題を設定しなおす契機となった 」という。

人間が変ることは容易ではなく、まして山口のようなベテラン政治学者が率直な自己変革の姿を曝すことは(いかに繰り返されているとはいえ)勇気のいる行動であり、筆者としては、そのような山口の率直な態度に高い倫理性を感じるとともに、その鮮烈な精神を学びたいと考えている。

しかしながら、2015年安保の凄味は、政治家や官僚など「政治エリート」に着目してきた山口とは対照的に、これまでもっぱら社会運動に従事してきた運動側にもまた地殻変動をもたらし、その自己変革を誘発したといえる。

「総がかり行動」の事務局を担った高田健は、2015年安保の中間総括のなかで、「今回、市民運動が、政党との関係を一貫して追求したことも大きかった」と述べている。高田によれば、「私たちの世代の市民運動は、政党との関係は非常に苦手で、少し引いて見るところがあった」が、今回の安保法案反対運動は「政党との連携を大事にする形で」進められており、そこが2015年安保の新しさであった。高田は、「これからの戦争法廃止に向けての取り組みにしても、安倍政権に代わる政治という問題にしても、市民運動と政党との共闘はさらに重要になる 」だろうと展望している(高田健、「連帯を拡げ、共闘を次のステージへ-『総がかり』で戦争法廃止に取り組んでいく」、『世界』、岩波書店、2015年11月号、pp104-5)。

2015年安保は、「政治エリート」の変化を重視してきた山口のような論者を変えただけでなく、世論による政治変革を追求してきた運動側にもまた、運動と政党とが連携し、議会を包囲するデモと議会内の「よりまともな勢力」とが繋がる回路の重要性を認識させたといえる。そして、運動側が新たに連携を模索した「よりまともな勢力」こそ、山口などの政治学者がこれまで肩入れしてきた民主党リベラル派などであり、その意味で、政治変革をめぐる二つの立場は、2015年安保の過程でそれぞれの自己変化を通し、互いに収斂していったといえよう。

9月18日深夜から19日未明にかけて、国会正門前のデモの渦から、ほぼ自然発生的に「野党がんばれ」の応援コールが生じた。それに応えるように、議会内では民主党、共産党が踏ん張り、投票が締め切られる直前、山本太郎は「外の声が聞こえないか!?」と議場で咆哮した。「運動による野党への応援」は、運動側にとっても「初めての経験」であり、それはまさに、多数の有権者の総意を背景に、議会内の「よりまともな勢力」と社会運動の奔流とが繋がる、わずかな、しかし確実な水路が切り拓かれた瞬間でもあっただろう。
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by akai1127ohi | 2015-12-09 02:08 | 政治時評 | Comments(0)

2015年安保がもたらした変化:①知性と感情との新しい関係

今年の夏を彩った「2015年安保」の性格は、私なりに表現すれば、「クラシカルな問題に対する、クラシカルな応答」であった。すなわちそれは、安倍政権が時代錯誤的に突きつけた極めて「クラシカルな反動」に対し、いささかの奇を衒うこともなく、極めて「クラシカルな応答」を正面から対峙させた運動であったといえよう。

しかしながら、そのようなクラシカルな応答は、それがクラシカルであるがゆえ、法案成立をへてなお、日本社会に極めて根本的な、すなわちラディカルな政治変動を招きよせている。2015年安保は、その広汎な運動の過程で、私自身を含め多くの人を変え、異なるものを結びつけてきた。以下では、2015年安保がもたらした三つの政治変動を指摘したい。

                    ***

第一に、主としてSEALDsの運動スタイルに見られた、知性と情念との、あるいは理性と情念との新しい結びつきとでも呼べるものである。SEALDsの運動を契機として広く認知されたのは、感情が持つ価値を再確認し、絶叫や罵倒、熱唱や感極まった感涙を含めてその放出を肯定するスタイルであり、SEALDsの牛田悦正の次の言葉は象徴的である。「『感情的にならずに云々』って、俺もすごいわかるんだ。いまになって告白すると、反原発デモの頃とか、デモ自体が嫌いだった。感情的で、ものを考えてないように思えて。でも、いまになって反省している。『感情』の価値を低く見積もりすぎてた 」(『SEALDs 民主主義ってこれだ!』大月書店、2015年、p83)。

しかしながら、このような直接的な感情表出の肯定は、同時に、反知性主義をしぶとく斥ける意識に支えられている。「安倍晋三がめっちゃムカつく!」という剥き出しの感情放出と、そのような方法によって表現される主張内容の規範性とが共棲する点に、SEALDsの戦略性を感じることができる。SEALDsが「自由と民主主義」を自らの基軸価値に据えたのは、「何と言っても規範的なものは必要だよねってことは言いたかったから 」(奥田)であり、芦部信喜や樋口陽一などの著作を村上龍でカモフラしたSEALDsの「推薦図書(Books Selection)」 は、「それと、学問をバカにしませんよ、ってこと 」(奥田)という姿勢を如実に表すものであろう。

このようなSEALDsによる学問の尊重は、しかしながら同時に、知性の偶像化を斥ける姿勢も含んでおり、そこには常に、学者の判断放棄に対するまっとうな注文や研究者の衒学的な態度に対する健全な茶化しの要素が把持されている。筆者も、SEALDsと「学者の会」との共催集会(10月25日@法政大学)に参加した際、観念的な法理論を展開する長谷部憲法学の「難解さ」を褒め殺し、小熊英二の著作の「長さ」に皮肉を入れる奥田愛基の発言が印象的であった。

また同じくSEALDsの大澤茉実が、「ファッションにしか興味のなかった学生が政治について語り出した」のと同列に、「本とパソコンの前を動かなかった学者が、路上に出てきて雨に打たれた」ことを評価して会場を沸かせた。学生や市民と大学教授とのこのような関係性は、一定の「知識人」が「オピニオン・リーダー」として世論を牽引した60年安保闘争には見られなかった現象といえるだろう。

反知性主義に陥らない情念の解放と、知性の偶像化を拒否した学問の尊重――。2015年安保を牽引したSEALDsのスタイルには、そのような絶妙なバランスを窺うことができ、運動における理性と感情との、知性と情念との新しい関係も、そのような感覚を研ぎ澄ませていく先に導かれるように思われる。
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by akai1127ohi | 2015-12-09 02:07 | 政治時評 | Comments(0)

【詩】 絵描きは絵だけ

絵描きは絵だけ
絵だけを描いて下さい
仲間喧嘩をしないでください

絵描きは絵だけを修練し
早く国際水準に到達して下さい

絵描きにあるのは
画業への廉直と禁欲
形の習得と沈潜すべき精神世界です

同時代の行末に首をつっこみ
恥をかく必要はないのです
集中を乱すオルグの訪問に
いちいち反論する必要はないのです

絵描きは絵だけに忠実に
画業に専念すればいいのです

芸術
それは世俗の利害を超越した
普遍性と永遠性への貢献

一知半解なまま同時代に口を挟み
新聞の受け売りを繰り返す必要はないのです
永遠の価値に貢献するため
「社会意識」は不要です

絵描きは絵だけ
画業に専念するのです

抵抗意識がないのなら
あるふりしなくてもいいのです
探し回らなくたってもいいのです

絵描きは画業に忠実に
絵だけ描いてりゃよいのです
絵描きは画業に禁欲し
絵だけ描いてりゃよいのです
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by akai1127ohi | 2015-12-06 22:00 | | Comments(0)
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