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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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新しい変化と「自由民主主義の伝統」ーSEALDs の声明を読んで

昨日(6月26日)、あいにくの雨でしたが久しぶりに官邸前デモに参加し、終了後、スタッフの大学生が配っていたSealdsの青いパンフレット「No War, Just Peace」を受け取り、帰路の車内で拝読。「自由と民主主義の伝統を守る」と宣言した、大変優れた内容で、私のSealds理解、「トイレをきれに使ってありがとう」レトリック論にさらに自信を深めました。

現実政治のなかで何か新しい変革を起こす時は、その運動がまさに「新しい」がゆえに、少なからぬ人が不安に思う。だからこそ、その不安を取り除くために、新しい運動はいろいろ知恵を出し工夫しなければならない。

「新しい運動」を、あえて、その政治社会の「伝統」に依拠させるのも、その大切な工夫の一つと感じる。「新しい運動」を、少なくともレトリックとして、「伝統」の継承あるいは復活だと説得的に示す必要がある。それによって「新しい運動」への人々の不安を和らげ、包摂し、もってその「伝統」を強化する。シールズの声明は、そのような言葉の力を現実に発揮していると感じる。

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たとえば、オバマが米国で初の黒人大統領になった時、世論には、今まで前例のない「黒人大統領」という現実に、一抹の不安が漂っていた。また、医療保険改革の際は、「リベラルすぎる」「社会主義者」という批判が保守派メディアや共和党から激しく浴びせられた。

しかし、それを覆い返すオバマの言葉は実に戦略的かつ説得的で、終始、イデオロギー闘争を自分有利な方向に引っ張っていった。たとえば医療保険改革が「社会主義」、「反アメリカ的」と批判される度に、ニューディールや公民権運動などアメリカの歴史的遺産を言葉豊かに想起させつつ、自身の改革をその延長上に位置づけて、自分の主張こそ「アメリカの伝統」であるとして、世論に承服させるものだった。

「初の女性大統領」とされるヒラリーのレトリックも同様です。アメリカの世論が、どこかまだ「女性大統領」という観念に馴至化しておらず、少し不安げな視線を向ける世論に向けて、NYのルーズヴェルト島で初の大規模演説を行い、自身をFDRといった伝統、ビルやオバマの流れの延長に位置づけている。

何か新しい変化を起こす時は、それがまさに「新しい」がゆえに、その「新しい変化」を、あえてその政治社会の「伝統」に依拠させる。それは、その変化を成功裡に進めるための重要な知恵と思います。

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では、日本はそのような「伝統」はあるか?

アメリカほど優れた「もう一つの日本」があるとは残念ながら思えないが、とはいえ無いいわけではない。たとえばですが、植民地支配を合理化する政治家の暴言があれば、必ずをそれを批判し是正させんとする運動がずっと起こってきた。ネットは「ヘイトスピーチ」に溢れながら、路上はカウンターデモの人波が溢れてきた。2009年には、どんなに稚拙とはいえ、初めての本格的政権交代もあった。2011年の3・11以降は、自民党がどんなに強引に右翼政策を進めようとも、もはや、国会を包囲するデモ文化がもはや常態化している。

そういう意味では、か細いながら確実に、保守陣営とは違う、もう一つの伝統」が確実にある。否、むしろ、たとえ一方的にであれ、それが「ある」と宣言して前提化することによって、「新しい運動の」の政治的資産にする。

Sealdsの声明は、そのイデオロギー闘争にひとまず成功していると思います。
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by akai1127ohi | 2015-06-27 13:02 | Comments(3)

大田さんへの応答(その2):批判的知性のあり方をめぐって

20世紀には「知識人」といわれる思想家が、自身の思想的原理を持ちながら、様々に現実にアンガジュマンしたが、そのような20世紀の知識人が示した「批判的知性」とは何か。

先日、目下の論文作業のため、グラムシからサルトル、サイードなどの「知識人論」を概観することがあったが、あらためて、知識人が個々の状況で「同時代的態度決定」をする際の基準の複雑さと適切さに舌を巻く思いがした。

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知識人の定義は複雑多岐ですが、たとえばその一つとして、人権や平和といった「普遍的な原理」に忠実で、常にそこから思考を出発させる人、というのが当座挙げられよう。

しかし同時に、知識人の同時代的関与は、その「普遍的な原理」をアプリオリに固定化させ、それによってすべての同時代的判断を導き出す人たちではない。批判的知性と言うのは、「普遍的な原理」に反することをなんでもかんでも批判するということではない。批判的知性とは、一方で普遍的な原則を確固として把持しながら、他方で、眼前の個別具体的な政治の力関係をしっかりと見据えて、普遍的原則から発した思考をそこに「チューニング」させる、そういう鋭い能力をもった意識のことだと思います。

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大田さんの重視される、「日本がその侵略行為に対して歴史的道徳的清算をすべきこと」という主張は、その限りでは常に正しく、いわば「普遍的な原則」であり、それが重要な課題であると考えるにあたって私も人後に落ちません。

しかし、そのような批判や注文を、安倍政権や右派メディアに対して行うのと、隆盛してきたばかりの学生主体のデモ運動に対して行うのとでは、現実の行為の意味としては、同じではないだろう。端的にいえば、前者は建設的な意味を持つのに対して、後者は必ずしもそうでない。

批判する側にその意図は全くなくても、「植民地支配清算を宣言せよ」との立場からのシールズ批判は、自分自身を現在の安倍氏の立場に置き換えてみればわかることですが、安保法制も植民地支配反省もいずれも度外視する政権にとって、好都合な政治的現実を作り出す可能性が高いだろう。また、シールズは、いわば萌芽期の運動であり、それを本当に「強化」しようとするなら、その欠点や弱点を批判することによってそうするよりも、今はまだ支持、応援して可能ならその一部になろうとすることによって強化するべき、そういう段階である。

20世紀を代表する批判的知性たちは、一方で「普遍的な原理」を把持しながら、他方で、政治の現実におけるそのような差異をしっかりと認識して、その上で態度決定を行う能力を持った人達だったように思います。状況や文脈を無視して、ただただ「普遍的原理」に忠実に、それを杓子定規に掲げた人たちではないだろう。むしろ逆で、そのような「普遍的原理」を把持しながら、複雑で流動する現実の力関係を極めて鋭敏に見極め、政治的に間違いのない態度決定を必ず選択、実践してきた人たち、と思います。

すなわち、批判的知性とは、一方で「普遍的な原則」を確固として把持しながら、他方、それを2015年6月の日本の政治状況にしっかりと「チューニング」させる、そういう鋭い方法の意識を持っていることだと思います。

もちろん、上記のように述べることは、「植民地支配の道徳的歴史的清算」という課題を軽視することではありません。また、「侵略戦争の道徳的歴史的清算」を求めてのシールズ批判を止めろと言っているわけでもありません。ただ、そういう『批判』は、「批判的知性の仕事」とはいえないのではないか、ということです。

もちろん、「現在」の状況での、「安倍政権」にむけた、「植民地主義清算を求める批判」には、私は満腔の同意でイイネボタンを押します。

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たとえば、今この状況における「批判的知性」のあり方とは何か。あくまでたとえばですが、たとえばサルトルや加藤周一などが、今生きていたらどうしたか――。

彼らは20世紀において「植民地主義の歴史的道徳的清算の必要性」に真摯に取り組んだ批判的知性ですが、彼らが今生きていたら、自らが把持するその普遍的原理を何ら損することのないまま、国会前に行ってデモの一部になり、自らシールズのデモに駆け寄り、求めてマイクを握り、連帯と共鳴の挨拶をしただろうと思います。
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by akai1127ohi | 2015-06-27 13:00 | 政治時評 | Comments(1)

大田さんへの応答(その1):金芝河と大江健三郎との講演を思い出して

Sealdsの声明をめぐり、大田英昭さんと一定の議論が生じました。これまでの議論の経緯は以下です。

・大田さんの意見と私のコメント(https://www.facebook.com/hideaki.ota.54/posts/425087257670895?hc_location=ufi)
・私のコメントへの大田さんの応答(http://datyz.blog.so-net.ne.jp/)

以下、あらためて、大田さんに応答します。

大田さんのご意見だと、Sealdsの声明のように、旧日本帝国のアジア侵略の責任に一言も触れないまま日本で平和運動を行なったり、日本が東アジアの軍縮や民主化をリードする責任があると主張することは日本人の傲慢な独善性である。また、戦後の沖縄の現状を度外視したまま、日本における「戦後70年の自由と民主主義の伝統」をいうことは欺瞞にすぎない、とのご趣旨です。(要約はそれ自体「暴力」ですので、原文は上記から各自確認してください汗)。

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「アジア侵略の責任の清算」なるものは現在まで未解決で、また極めて重要な課題であり、その点では太田さんに満腔の同意です。この点に何の異論もありません。

とはいえ、だからといって、「それがなされないならば日本の平和運動は空念仏だ」とはならないだろうし、「戦後70年の自由と民主主義の伝統」など欺瞞で独善だ、ともならないだろう。また、日本には「東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルが」ない、ともならないだろうと思います。

               ***

大田さんの意見を拝読して、すぐ思い出したのは、1995年の『世界』臨時増刊号「敗戦50年と解放50年」の収録された、韓国ソウルで行われた、金芝河と大江健三郎の講演です。

ここにおいて、「日本が過去の侵略責任を清算し、道徳的な純潔性が保障されなければ、アジアの未来に参加する資格はありません」と述べる金芝河に対し、大江は、それを真摯に受け止め、「立派な姿勢で正座しつつ語る金芝河さんの前で、憐れにうなだれ背をかがめて耳をかたむけ」ながら、次のように述べている。

               ***

「私は〔歴史的な過ちを〕記憶しつづけたいと思います。そして日本自身の道徳的な清算、歴史的な清算のために努力したいと考えます。しかし、その清算が完了することは、私自身が生きてる間には来ないのではないか、と考えています。それゆえにこそ、記憶しつづよけよう、とするのでもあります。

私がねがうのはこういうことです。日本人は、過ぎ去った時代の歴史的過ちを清算しえていない今も、それを自覚しながら、新しいアジアに対して構想を持つことをつとめねばならぬ、ということです。日本人が、道徳的な純潔性を保障しえない今も、それを自覚しながら、アジアの未来に参加する資格はあたえられねばならぬ、ということです。

それは私たち日本人が過ぎ去った時代の歴史的な過ちを忘却して、というのではありません。その逆に、私たちはその痛苦にみちた記憶を更新しつづけながら、その重荷を担って未来に向かおうとしている、ということなのです。まだ償いをすませていない者と、まだ本当には相手を許していない者との、しかし未来の共同に向けての協力はありうる、と私は信じます」(大江健三郎、『世界』「敗戦50年と解放50年」、pp63-4)。

               ***

金芝河と大江は、いわば、太田さんとSealdsとの立場(?)とそれぞれアナロジカルになっているように思います。

しかし、大江と金芝河は、この局面で対立しているわけではない。金芝河の批判はいわば日本の良識派に対する外からのエールだし、大江はそれを受けて改めて決意表明し、その上で「まだ償いをすませていない者と、まだ本当には相手を許していない者との、しかし未来の共同に向けての協力」を求めている。

そしてこれはもはや、認識といより態度決定ですが、やはり私としては、大江の態度は実に建設的だと思います。

「植民地支配の歴史的清算」は必須の課題であり、それは未解決である。しかし、それが未解決であるにもかかわらず、韓国の民主化などでは、日本の民衆が、分をわきまえながらも声をあげたり、あるいは向こうの民衆と提携したりと、そういう課題は否応なく生じてきた。それは、中国をめぐっても、今後生じてくるだろう。

その意味では、現在のわれわれは、いわば、「植民地支配の歴史的清算」を求めることと、それは未解決であるにもかかわらずアジアに対して積極的な構想を示していくことの、二つの課題があるように思います。
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by akai1127ohi | 2015-06-27 12:57 | 政治時評 | Comments(2)
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