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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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湯浅誠「社会運動への立ち位置」(『世界』3月号)と二つの「社会運動」

湯浅誠「社会運動への立ち位置」(『世界』3月号)は、ネットや社会運動において多くの議論を喚起するものであった。これに対して、私の考えを一つだけ書いておきたい。

これまで、湯浅論文の社会運動論に対する批判の一つの型は、デモや直接行動がかつてなく興隆した昨年の大衆運動、とりわけ米国での占拠運動に依拠したものであった。たとえばブログ「世に倦む日日」は、湯浅氏の「変節」を批判しつつ、「米国のOWSは[湯浅氏を]どう見るだろうか」(2/14)と結び、数日後にもあらためて湯浅氏のデモクラシー論に言及した上で、「私自身は、湯浅誠が言う『強いリーダーシップ』でもなく、『議会制民主主義』でもなく、第三の道の可能性があると考えていて、それがOWSや辺野古の政治だと思っているけれども」(2/17)と結論づけている。

米国での占拠運動の事例を引証基準としながら湯浅氏の「調整」重視を批判する意見は、たしかに妥当な部分もあろう。しかし以下では、アメリカの占拠運動に加え、昨年の同時期に並行して生じていた、韓国ソウルの市長選挙の展開も意識するかたちで、湯浅論文の意味を再考してみたい。

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元来、近代の民主政治は常に一国代議的な営みであり、それはナショナルな領域と構成員の画定を前提とし、領域の広さを代議制によって「克服」してきた。しかし、経済とそれに伴う不平等のグローバル化という現代の趨勢を前に、米国の占拠運動は、既存の一国代議民主制に対する人々の疎外感を示したものであったといえよう。「我々は99%だ」という主張は、その99%が政治の過程に表象されない現状への告発であり、米国占拠運動の求めているものは、「リベラル/左の政治家」ではなく、「政治家一般」に示される一国代議民主制それ自体の克服であったと思える。

もっとも、占拠運動が掲げた銀行課税や社会保障といった要求は、現実的には既存の政治制度のなかに回収され、オバマ政権のリベラル回帰を意識させた。しかし、占拠運動に示された、一国代議民主制にすでに「当事者意識」を持てないという告発は、先進国に共有された意思表示であろう。その意味で、既存の一国代議民主制そのものを根本的に問い直した点にこそ、占拠運動の固有の意義があると思える。換言すれば占拠運動とは、既存一国代議制とその下での「調整」そのものを問い直し、まさに既存デモクラシーの「枠組」それ自体を問うた社会運動の真骨頂であったと思える。

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他方、昨年秋には米国の占拠運動に並行して、韓国ソウルでもソウル市長選挙をめぐり市民運動と既成政党を巻き込んだ広範な運動が生じていた。

市長選挙に際して野党圏からは、金大中の流れをくむ民主党、労働運動とつながりの深い最左派の民主労働党、そして市民社会勢力の支援を受ける形で市民運動家の朴元淳氏の三氏が立候補の意思を示し、テレビ討論での陪審や市民3万人が参加した予備投票によって、朴氏が進歩系野党陣営の統一候補に選出されたのだ(KBSニュース)。

昨年9月に三週間ソウルに滞在した折、私はちょうど、進歩陣営統一候補に朴氏が選出される時期に立ち会うことができた。地下鉄のキオスクでは毎日朴氏の顔を見たといってよい。帰国後、米国占拠運動とソウル市長選の双方をフォローするようになった。

朴氏を押し上げたのは20代から40代の若年層であり、その背景には失業、教育、不安定な雇用、非正規職問題などが指摘され、彼らは「IMF経済危機から本格化した新自由主義政策の弊害が呼んだ不安定労働の最大の被害者」(レイバー・ネット)とされる。

しかし、朴氏はそもそも運動圏の支援を受ける形で立候補したので、行政権力に入ることに対して社会運動や市民運動からの朴氏批判はほぼ皆無であった。その朴氏は民主党からの再三の入党要請を断るも、「精神は民主党員」として、新村にある金大中図書館に向い、李姫鎬氏に支持を要請している。野党第一党の民主党は結果的に統一候補を譲るかたちになったが、党利党略ではなく全体の公算を優先させ、一介の市民活動家を全力で支援した度量も特筆に値しよう。これら市民運動と組織の糾合団結は、「反MB=反ハンナラ」によって野党圏と運動圏が確実に統一した成果であった。繋がるべきものが繋がり、一体となって支えるべきものを支える、そんな政治的な力をつとに感じた。

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米国占拠運動とソウル市長選は、ともに2011年の市民運動、社会運動の成果であるが、それらの達成は大きく性質を異にしている。

米国占拠運動は、前述のように、既成の一国代議的政治制度の限界を告発し、その枠組自体の克服を志向する社会運動の真骨頂であった。他方、ソウル市長選にいたる韓国の運動圏と野党圏のダイナミズムは、社会運動や市民運動が既存の代議的政治制度における選挙や「調整」を最大限に活用し、その枠内において大きな政治的成果を勝ちとった社会運動の真骨頂であった。それはまた、「社会」が「政治」に抵抗するだけでなく、「社会」を守るために「社会」がそれ自体で「政治」に参与し、行政権力そのものを獲得する動きであったともいえよう。

もちろん、韓国における新自由主義政策は金大中政権になって本格化したという側面もある。しかし、朴元淳市長が掲げる福祉政治は、ソウルにおいてそれを修正しようとしている。その成果はまだ未定であり、判断は時期尚早であるが、少なくともそこには、「政治」が導入した新自由主義を、「政治」の力で修正しようとする回路がある。すなわち、そのような歴然たる「社会」の政治性と、それによる「政治」の自己修正能力がある。

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湯浅氏は、毎日新聞(2011年12月16日)に、「興味深い新市長あいさつ」として、朴元淳氏の新市長宣誓を紹介している。弁護士の中村和雄氏が自身のHPで同コラムを全文掲載している野で紹介する(中村氏HP)。また、以下は、同コラムでとりあげられた、朴元淳ソウル市長の就任宣誓である。



私は朴元淳氏の市長宣誓は、大変すばらしいものだと思う。限りある財源において率直であり、「政治の役割」において進歩的な理念があり、それらの兼ね合わせの上でなすべきこと判断する実行力が感じられる。その実行力とは、われわれの国で現在巷の流行語たる「強いリーダシップ」などとは、およそ似て非なるものであろう。

湯浅氏が「調整」への参加を呼びかける時、念頭にあるのはおそらくこのような達成ではないかと推測する。私は、われわれ自身の政治単位においてわれわれもまた、このような理念を現実の政治的力とし、自分たちの力で大きな達成を実現することを、心の底から願っている。

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ソウル市長選に関する日本語での報道は、2012年から在外選挙権が認められる在日韓国人に向けた事前広報を除き、少なかった。「世に倦む日日」や社会運動の側も、米国OWS運動を引証した上での湯浅氏批判が主であった。もちろん、ソウル市長選に言及していないから悪いと言いたいのではない。ただ、米国OWS運動だけを基準に湯浅氏の「変節」を論難するのでは、抜け落ちるものがあるのではないか、ということだ。

米国OWS運動は、一国代議民主制を超克する萌芽を示した。その可能性は確実に汲み上げられなければならない。同時に、それは既存の一国代議民主制やその枠内での行政への参与を放棄することではない。隣国において社会がその内から政治を担う力を輩出し、その政治が社会を守ろうとするデモクラシーの地力が示されてもいるなかで、その経験に注視することなく、われわれがただ既存の政治制度への参加や「当事者性」を禁忌していては、端的にマクロ権力を全面的に新自由主義に委ねることを意味するだろう。

米国OWS運動はたしかな指針だ。しかし、既存の政治制度においてなお、政治の力で経済を統御し、社会を守ろうとする力強い可能性が残されてもいないか。そのような視点を欠いたままでの湯浅論文批判は、湯浅氏の論文が孕む建設的な可能性の一つを、掬い損ねたままにならざるえないのではないかと思える。
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by akai1127ohi | 2012-02-19 19:36 | Concerned Citizen | Comments(1)

湯浅誠「社会運動の立ち位置」(『世界』三月号)をめぐって

昨年2011年は、日本においては震災と原発事故を契機に「脱原発デモ」が大いに盛り上がり、中東では民主化運動、米国では9月以降、オキュパイ・ウォール・ストリート運動が生じた。(私としては、ソウル市長選をめぐる韓国の民主運動もこれに付け加えたい)。総じて、デモや社会運動の高まりを見せつけた一年であった。

その一方で、日本では2009年の政権交代以後、政権は鳩山から菅へ、昨年は菅から野田へと変わり、現在は、自民にも民主にも失望したと「大阪維新」が不気味な台頭を見せている。大衆運動という視点からしても、日本のマクロな政治はおよそ状況悪化の一途をひた走っているといえよう。

現在の状況とは、このようなものと思える。

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SNSなどを中心に、湯浅誠「社会運動の立ち位置」(『世界』3月号)に対して一定の議論が生じており、やはり湯浅さんの発言の影響力の強さを感じる。ブログ「世に倦む日日」の意見(http://critic5.exblog.jp/17801323/)は、湯浅論文に対する社会運動の活動家や運動家からの批判をよく象徴・整理するものといえよう。

ただ問題は、そのような(現場/前線?)の社会運動の理論家の思いと、湯浅氏のように政権や行政の会議などの「調整」に「も」参加する人々の思いが、分極化の様相を呈していることではないだろうか。

その背景には、消費税や「税と社会保障の一体改革」をめぐる理論上の問題と、社会運動のあり方をめぐる考え方や感情の問題が、おそらく部分的にリンクした形であると思える。前者については、理論上の差異が明確になることは、建設的であり、また必要であろう。後者については、それぞれの社会運動についての考え方に対する理解が深まるにつれ、自己の認識の展開と、他者への共感が生む余地があると思える。

もとより私は、調整役ぶったりするつもりもないし、そんな力量もないし、そんな「できた人間」でもないと自覚している。ただ、湯浅論文に対する批判が、湯浅氏や「湯浅的傾向」なるものに対して賛成か反対か、今の政治状況のにおいて「どちらかの側につくのか」、というような選択を強いるような方向性に向けてられてはならない。

そのようなスタンスから、湯浅さんとそれを批判する議論を前に、主として湯浅さんの意図を汲むような気持も含めて、私自身のI thinkをいくつかだけ書いておきたい。
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by akai1127ohi | 2012-02-15 00:56 | Concerned Citizen | Comments(0)

「栽培漁業」と海への信頼

NHKで、山口県の漁港での「栽培漁業」を紹介する「日本とことん見聞録」というテレビ番組に遭遇し、それを見ていると、養殖漁業と栽培漁業の違いを学び、興味深く感じた。

養殖漁業は、稚魚から成魚にいたる全行程を生簀設備で行う。他方、栽培漁業とは、外敵に脆弱な産卵直後から稚魚までの時期のみを生簀設備で生育させ、稚魚が3センチ程度にまで成長すると海に放流し、成魚となるのを待つという漁業だ。ヒラメやスズキ、カサゴなど主として高級魚で行われているようだ。

一匹25円だという、小さな木の葉のようなヒラメを、数千匹だろうか、漁師がバケツで海に放していく。せっかくの稚魚を、一旦、人為の及ばぬ海中に手放すようで、もったいないという気もする。成長後の雄姿とはおよそ似つかない、何とも心もとない、吹けば飛ぶようなヒラメの稚魚だ。

このうち、成長して再び漁師の網にかかるのは二割程度だという。残りの八割は、大魚に食べられたり、釣り人に釣られたり、そのまま海で生涯を終えたりするのだろう。だが、その八割も、自然の大きな食物連鎖の中で、海を豊かにするという諦念と希望ゆえであろう。

栽培漁業とは、海を信頼し、海に祈りをかけるような、そんな人間の営みと感じた。
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by akai1127ohi | 2012-02-04 19:46 | 散文 | Comments(0)
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