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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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Chim↑Pom新作展「 REAL TIMES 」2011/5/20-25

無人島プロジェクトでのChim↑Pom新作展(江東区三好、5月25日まで)を見てきた(朝日5/25日に紹介記事あり)。感想を述べる前に、「ヒロシマ」をめぐる昨今の三つの「爆発」について述べておきたい。

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2008~9年にかけて、ヒロシマをめぐる三つの「爆発」があった。
第一に、上述Chim↑Pomによる、広島上空で飛行機雲で「ピカッ」と書いた「スカイ・ライティング」(2009年10月21日)。二つ目に、その数日後に行われた、第7回ヒロシマ賞受賞者の蔡国強氏による、原爆ドーム背景に黒い花火を打ち上げる火薬パフォーマンス。第三に、30年ぶりに発見された、岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」である。

「東京の芸術家集団」Chim↑Pomによる「ピカッ」という表現行為は、その芸術的価値や表現の自由、被爆者の心情などをめぐり、芸術家、市役所、被爆者団体、現代美術館、美術評論家を巻き込んだ議論となったが、最終的に、Chim↑Pom側が「謝罪」するということで収束することになった。

他方、その数日後に行われた蔡国強氏の火薬パフォーマンスに対しては、主として事前の周知広報をもって、地元紙などではおしなべて好意的に報道されたといえよう。

「原爆の炸裂する瞬間を描いた」とされる岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」は、元来は、1968年に、メキシコの実業家の依頼を受けて岡本太郎が制作したものであったが、長らく所在不明になっていたところ、2003年にメキシコ・シティ郊外の資材置き場で発見されたものである。日本での設置場所をめぐり、東京・渋谷と吹田市、広島市が競合したが、人・カネ・モノを併呑する東京がその吸引力を見せつけ、2008年より渋谷、井の頭線改札前に設置されている。

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Chim↑Pomの「ピカッ」は内容的に脆弱であったことは自明だ。が、芸術行動としては、蔡国強氏の火薬パフォーマンスも、私には根本的な違いがわからないままでいる。人々が「水をください」と言って川に飛び込んだその場所で、あえて「火薬」を使う必然性があるのか、私は説得されていません。

岡本太郎「明日の神話」は、何かの「爆発」のエネルギーは劇的に表現されているものの、その方向性をめぐっては無軌道的であり、むしろ渋谷の消費社会の無軌道的なエネルギー放出と親和的と、私には感じられます。

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その岡本太郎「明日の神話」の右下欠損部分に、原発事故を描いた一片が「追加」された。このパフォーマンスを興味深く感じていただけに、Chim↑Pomが「犯行声明」を発表した時は驚いた。

2009年の広島上空「ピカッ」と2011の渋谷ゲリラ行為は、以下の三点の違いが感じられる。

①2011渋谷襲撃では、Chim↑Pomは岡本太郎の原画を尊重(「リスペクト」)していること(Chim↑Pomが自分たちの絵を張りつけたのは、元来、岡本太郎の原画が欠損している右下エスカレーター部分である)。
②それなりに技巧的に優れていること。
③原発問題を想起させることは、社会的意義があること。

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他方で、Chim↑Pom『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』(河出書房新社、2009年)を読むと、Chim↑Pomは、あまり活字を読まないのではないかと推測します。たとえば、果敢に「ヒロシマ」をテーマにしたChim↑Pomですが、「原爆一号」吉川清のことや、毒ガスの大久野島などは知りません(p109、p121)。前衛パフォーマンスに教養や活字文化などいらない、という意見もあるかもしれないが、広島上空「ピカッ」の背景にある危うさは、このような方面でのアンテナ不足も一因のようにも感じられる。

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ただ、Chim↑Pomの肯定点をあえて挙げるとすれば、そのような挑発行為を「続けている」点だろう。

Chim↑Pomは、私と同世代であり、同時代の閉塞に対して何か「異議申し立て」をしたいというパッションは、共鳴しないわけでもない。そのパッションと、それを突き動かす思想性が、いかにして連動しうるか――それは、私自身の課題でもある。同時代の一人として、Chim↑Pomの次の一手を、ヒヤヒヤしながら鑑賞/並走していきたい。
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by akai1127ohi | 2011-05-31 00:09 | 散文 | Comments(2)

山田洋次監督、『愛の賛歌』(日・1967年)

山田洋次監督、「愛の賛歌」(1967・倍賞千恵子、中山仁)を見た。
舞台は山口県上関の、瀬戸内海に浮かぶ小さな島。山田監督の同時代劇の「型」が如実に示されているような映画で、強く人に勧めるに足りる映画だと思います。

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「島一番の色男」だが同時にそのまっすぐな姿勢と裏腹の視野狭窄もある竜太(中山仁)、その許婚のはる子(倍賞千恵子)、キリスト教徒で島唯一のインテリ、分別と中庸をかねた医師の伊作(有島一郎)という三者の人間関係を、相互に紐帯の強い島のコミニユティの人間関係を織り交ぜながら巧みに表現している。

開栓と同時に泡の吹き出すビンに口をやる倍賞千恵子のラムネの飲み方、差出人に無関心を装いながら配達物を放り投げる小沢昭一の郵便の配り方など、何気ないシーンにリアリティがあり、これだけでも私にとっては見る価値があった。

しかし何より目を奪われるのは、そのような島の人々の生活が繰り広げられる、上関の風景です。島の瓦屋根の街並み、漁船と連絡船が泳ぐ濃紺の海と白いさざ波、その背後に並ぶ深い緑の山々……。窓辺から見える上関の海は、ナポリをはるかに凌駕している。

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島の頑固おやじ(伴淳三郎)が、息子が神戸から持ち帰ったラジオに怒る。

「やかましいのう、まったく!アホなもの発明しおって!」

かつて、ラジオやスピーカーといった未知なる「文明の機器」に島の頑固おやじが激怒したこの島の近くに、原子力発電所が作られようとしている。中国電力が建設建設中の、上関原子力発電所です。(福島原発の事故を受けて一時中断。しかし、地質調査のための発破作業は継続中)。

つい最近、上関原発への反対署名に寄せた山田洋次が、かつて田ノ浦の地でこの映画をとったことに言及しており、それを契機にして私も見てみた。結果的に、上関原発に対する自分の考えをさらに強めました。
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by akai1127ohi | 2011-05-19 13:59 | Comments(0)

杉田敦編、『「国家」は、いま』、岩波書店、2011年

杉田敦編、『連続討論「国家」は、いま』(岩波書店、2011年)。専門の異なる研究者による、福祉、市場、教育、暴力をめぐって、国家の機能と役割を見定めようとする連続討論。後期高齢者医療制度や「戦争の民営化」など、国家をめぐる現代的テーマを糸口に、現代における国家の機能の変容やあり方を位置づけるもので、大変興味深く読んだ。

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国家をめぐる20世紀の「大転換」は、「国家がしてはならないこと」と「国家しかできないこと=国家がしなければならないこと」の双方を示してきたように思われる。また現代は、「これまでは国家してきたが、今後は必ずしも国家がする必要のないもの/他のアクターがすべきもの」をめぐる政治的議論の渦中にあるともいえる。

ナチズムやスターリニズムなどの実践は「国家が絶対にしてはいけないこと」を明らかにした。これについては、比較的合意が取れやすいといえるかもしれない。

他方、市場原理主義に対する信奉、イデオロギー化した自己調整型市場への傾倒は、逆説的に、国家しかその供給源がないもの、国家にしかできないこと、転じて、「国家がしなければならないこと」を浮き彫りにさせることにもなったといえる。

また現在は、「これまでは国家してきたが、今後は必ずしも国家がする必要のないもの/他のアクターがすべきもの」の認識と峻別をめぐって、政治と学問の双方で複雑な磁場が渦巻いている状況と思える。

NGOや市民グループなど「市民社会」の幅広いアクターの興隆を受け、国家や行政の肥大化や国家施策の官僚的・画一的な性格に対する厳しい目が向けられつつある。

しかしそのような国家批判/行政批判の背後には、「市民社会」の自発性や住民/市民/「国民」の「参加」を主張するものから、国家や行政への批判を「民営化促進」へとつなげることを意図するものまで、多様な議論/意図が渦巻いている。その意味で、この点における「国家批判」の帰趨、およびその政治的帰結は、いまだ流動的だといえよう。

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いずれにしても、学問によって極めて現実的テーマを論じることで、ある意味で、学問が理論や観念の中に安住するのではなく、現実によって試される、というような読後感も感じた(たとえば「アナルコ・キャピタリズム」の論理が「現実」と直面した時に受ける「洗礼」のようなもの)。

国家機能に対する過度の信奉/過度の不信という両極端から解放され、人間本位の視点から、「国家がしてはいけないこと/しなければいけないこと」の二面性を冷静に再認識する必要、その上で、後者を確実に遂行するような国家像を定位していくことの重要さを感じる。
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by akai1127ohi | 2011-05-18 01:20 | 政治理論 | Comments(0)

松井・広島市長への提言―(終)平和行政と「脱原発」

松井・広島市長は当選後のインタビューで、核廃絶について「廃絶は全力で訴えるが、達成させる立場にはない。廃絶を目指すといっても実質的にはお願いするということ。権限を持っている人には訴え続ける」(中国新聞4月12日)と述べている。また、海外出張の多かった秋葉前市長への意趣返しか、平和行政のコンセプトとして「出かける平和から迎える平和」を掲げた。

全体として、平和行政に対する新市長の萎縮的で受動的な姿勢だけが印象づけられている。

秋葉前市長のような前面に出るパフォーマンスは苦手と自覚しているのならば、無理にしなくていい。なるほど広島市長の権限など、アメリカ大統領と比べればはるかに小さいだろう。しかし、就任早々、「ヒロシマ」の発信力を自ら過小評価しようとする市長がどこにいる?核廃絶という目的を、「権限を持つ人にお願いする立場」に貶めるのがヒロシマの市長の任務なのかと、私は率直に諫言したいと思います。

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核兵器廃絶という問題を人類が解決しえていないのに、3・11以後の日本列島の住民は、それに加えて原子力発電の問題も課せられることになった。私が今回の広島市長選で不満なのは、上関原発のことが争点化しなかったことです。

4月の選挙で当選した世田谷区長は、人口90万の東京特別区から「脱原発」を訴えている。他方、人口120万の広島市長は、核廃絶に対する「権限の欠如」を口にしている。

身の程を知らない世田谷区長の大言壮語か、己の分を知る広島市長の大人の賢慮か、判断は差し控えよう。しかし、およそ偉大な政治家の伝記は、権限の欠如を口実に「義務以上の努力」を行わない政治家が決して時代を切り開く政治家とはなりえないことを、何にもまして明確に示している。

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ここまで書いて、本来ならこれでも飽きたらずに、平和行政で新市長にガツンと批判的直言してやろうと決意していましたが、同市長の「脱原発」発言で、さしあたりの闘争心を挫かれてしまいました(朝日新聞5月11日)。

松井市長は「脱原発」への言及において長崎の田上市長よりも踏み込んでおり、その点を肯定的に受け止めている。

そして、「脱原発」の大きな流れを勇気づけるならば、堂々と、山口の上関原発の建設中止にも手を添えてほしい。

上関原発を建設する中国電力の本社は広島にあり、上関原発で発電される電力の主たる供給先の一つは広島でもある。そして何より、原発事故の影響は、県境はもとより、国境さえない。広島市長が回答保留にするには、あまりに重要すぎるテーマだろうと思います。

広島市長が「脱原発」の立場から、上関原発の建設反対の態度を堂々と示すこと、そして日本列島の新しいあり方に貢献すること、その「君子豹変」を要求/主張/期待したい。
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by akai1127ohi | 2011-05-11 01:09 | Comments(0)

【詩】 1000分の1回のために

夜の吉祥寺の雑踏を抜けて
静かな住宅街の角を曲がると
驚くほどまっすぐな一本道がある

整然と並ぶ街灯が
まるで夜の空港の滑走路のように
一本道の両側を照らし出している

自転車でその一本道に入ると
両手を翼のようにまっすぐ横に広げてみる
このまま、自転車が夜空に飛び立ちはしないかと期待しながら

「飛ぶわけないよ、飛行機とは違うんだから」
たしかに自転車は飛行機とは違う
しかし、自転車が飛行機と「違う」のは、自転車が飛ばない理由にならない
飛行機と「違う」なら、自転車は飛行機以上に飛ぶかもしれない

「自転車は飛行機と構造が違う」
そんなことは百も承知だ
自転車が空を飛ばないことぐらい、誰よりも自分がよくわかっている
常識で考えれば、自転車が飛ぶわけがない
そんなこと、勉強せんでもわかる

でも、1000回やったら、もしかしたら1回くらい
飛ぶかもしれない
そして今晩が、その1回かもしれない

だから私は今晩も
その1回の奇跡を試すように
滑走路のような一本道を
月に向かって自転車を疾走させながら
両手をいっぱいに広げてみる
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by akai1127ohi | 2011-05-06 00:59 | | Comments(2)

【詩】 目が覚めると夜だった

目が覚めると夜だった
夜の向こう側から
かつて上海の昼さがりに出会った
小銭をせがむ子どもたちが駆け寄ってきた

目が覚めると夜だった
西日に沈むソウルの大学路を
汗をかいた学校帰りの女学生たちが
腕を組みながら通り過ぎていった

目が覚めると夜だった
曇天の冬のワルシャワで
ボヘミア風の前衛壁画の描かれた部屋に
クレープとコーヒーを勧める夫婦の姿があった

目が覚めると夜だった
その年はじめてマフラーをぬぎ去った春の朝
私を乗せてダブリン湾を疾走する電車が
ホウスの海辺を走り抜けていった

目が覚めると、いつも夜だった
静かな夜の向こう側から
私がかつて日中に出会った人たちが
夜の中に佇む私の横を
通り抜けていった
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by akai1127ohi | 2011-05-04 00:06 | | Comments(0)
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