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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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【詩】 許してやれ

許してやれ
「主観的には善意」なのだから
他人からどう見られるかという認識に
まだ到達できていないだけさ

許してやれ
まだそこまで「成長」してないのだから
彼の「成長」のために
適切な役割を用意しないとナ

許してやれ
「自己批判」まで待とうじゃないか
あいつと違って、コロンだわけじゃない
彼は「仲間」だ

それよりも君、ロールズなんか読んでると
君も足元すくわれるヨ
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by akai1127ohi | 2010-12-28 17:11 | | Comments(1)

Woody Allen is safe

オックスフォードのモードレン・カレッジに Magdalen college film society という学生クラブがあって、二週間に一度程度の割合でナイト・ショーを上映していた。私と何かと気がおうたドイツ人学生の D が、私をしばしば誘ってくれた。

Magdalen college film society は、上映するネタに困るとウッディ・アレンを流していた。何かの折、D と私がウッディ・アレンについて話し合った時、私は語彙の選択に逡巡し、いささか投げやりに Woody Allen is safe と言って、反応を相手にゆだねた。

すると D は私の顔を見て、一瞬だまってから、「実にその通り。ウッディ・アレンは safe だ」と深くに同意した。あの時ほど、自分の選択した語彙の、いくつかの意味のうちの限定された一つを、瞬時に相手が理解してくれた経験はなかったと思う。(またそのことは、この手の文化領域の指向における D と私との共通性を悟らせる経験でもあった)。

               ***

ニュー・ヨークの都会的生活、ウイットに飛んだ男女の会話、洗練されたセクシーさ、ハリウッドの民主党シンパが「ちら見」させる一定の「社会性」・・・・・・。ウッディ・アレンの映画は、難なく2時間楽しめて、safe です。

かつて見たアメリカ映画に出てきた登場人物で、「君は普通だね。実に普通だね(you are ordinary, ordinary!)」といって女の子を泣かしてしまう男の子がいた。例えばそのような意味で、ウッディアレンは safe です。

               ***

BSでウッディ・アレン「マッチ・ポイント(Match Point)」(2005年)を見てしまった。アレン監督の30何作目かの映画で、アレン本人が出演しない10作目で、ロンドンを舞台にした初めての作品だそうです。

repartee(当意即妙の応酬)あり。かと思えば、えもいわれぬ官能的な沈黙あり。曇天のロンドンにも南欧のような開放性があるかと思えば、「太陽がいっぱい」のようなスリリングもあり。二時間、実に楽しんで見れた。寝正月に何か safe な映画を探しているなら薦めます。


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by akai1127ohi | 2010-12-28 02:03 | Comments(0)

2010年ノーベル平和賞(劉暁波氏)授賞式を見て

劉暁波氏のノーベル平和賞授賞式を BBC のライブ放映で目にした。

客席にカメラが移ると、映るのは主として欧米人です。くり返される Democracy という言葉で、中国はその政治体制を詰問されている。わざわざ厚手のコートとネック・ウォーマーの欠かせないスウェーデンまで出かけなければ、隣国中国の民主化さえ語れないのか、という複雑な思いもする。(「反共」で「ヒューマニスト」という屈折した基準でノーベル平和賞を与えてきたかのような選考委員会に対しても、私は完全な信頼をおいていません)。

現在の中国共産党がなぜこれほど意固地になるのか、少し理解ができません。しかしそれは、根本的には、中国の人々の内発的な力によって打開されるべき事柄だろう。私としては、むしろあらためて、反中の「冷戦思考」にとらわれている日本保守メディアに問いたいです。Tokyo は北京から最も至近距離の「西側」ではなかったのか、と。

               ***

20世紀アジアの偉大な政治家といえば、孫文と金大中だろう。

残念ながら、日本の20世紀には、孫文や金大中のような偉大な政治家はいませんでした。しかし、孫文や金大中のようなアジアの偉大な政治家を、陰に陽に支援してきた民間人や経済人のかすかな伝統があった。内発的な民主化に呻吟するアジアの人々を支援してきたそのような日本の歴史は、日本がこれから東アジアの国々と主体的な関係を築いていく上で、大きな遺産だと思います。

               ***

対中 xenophobia から中国の反体制派を支援できず、北朝鮮に必ずいるだろう当地の「T・K生」を見つけられないまま、当然、それと連帯もしえない現在の日本の言論……。孫文と金大中を支援してきた日本の過去の遺産が、今、試されているように思います。
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by akai1127ohi | 2010-12-10 23:45 | Concerned Citizen | Comments(0)

上野・「たきおか」にて

11月は Abbé Sieyès に関する英語論文の翻訳で、意外に時間をとられてしまった。本郷の図書館で専門用語の最後の確認。Abbé Sieyès を読んで感じたことについて、後日書きたいと思います。

               ***

本郷、総合図書館から東大医学部病院横の小道を通り、上野・不忍池まで降りる。不忍池を横切って、上野の山を登り、西洋美術館、「デューラー展」を鑑賞。その後、上野アメ横まで下りて、御徒町の立ち飲み屋「たきおか」に寄る。

               ***

「たきおか」の店に敷設されたテレビは、饒舌なベテラン芸人と女たちとのトーク番組を流している。軽薄この上ないその芸人が、ピコピコ・ハンマーで女たちをたたく。女たちは、自分の尊厳が傷つけられていることに全く無自覚なまま、こちらも軽薄な笑い声を挙げている。軽薄と軽薄のもたれあいの上になるこの番組に、思わず顔を背ける。

               ***

カウンターで瓶ビールに「野菜のてんぷら」で時を過ごしていると、隣に40代くらいのサラリーマンがやってきた。40代サラリーマンの男は、いささか横柄な口調で、店員に注文します。

男:「にんにくねぎ塩」

店員:「250円です」

男:「え?(壁のお品書きを見ながら)200円じゃないの?」

店員:「ねぎ塩ににんにくをつけると50円増しです」

男:「うわっ。……。(店員に渡した200円を指して)じゃ、それ返して。(自らの財布を除いて500円を取り出しながら)じゃあ、これで。」

店員:「はい」

男:「(周りに聞こえるような一人ごとで)なんだ。騙された」

               ***

店員は絶対に騙してはいません。

繁忙きわまる立ち飲みやのカウンターで、たった5秒のあいだに、店員は「ねぎ塩」に「にんにく」を足すと50円増しになること実に簡潔に説明しました。それのどこかが、「騙された」のでしょうか。

そもそも、良心的な値段でやっている立ち飲み屋で、「にんにく」に50円増しで何の文句がありましょう。場末の酒場で見かけるこのような人は、実に「小さな男」と映ります。私なら500円でも5千円でも払って構いません。他山の石としたいと思います。
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by akai1127ohi | 2010-12-09 00:42 | Comments(0)

「60年安保を問いなおす―50年後の今・私たち」集会報告集・【編集後記】

 本集会は、安保改定と安保闘争から50年をむかえ、その歴史性と現代性を問い直したいという大学院生の呼びかけを契機に、4人の大学院生を中心とした実行委員会によって実現されたものである。実行委員会では、今年4月以降、駒場キャンパス「イタトマ」にて定期的な集まりを持ち、集会のコンセプト、発言者の人選などを話しあってきた。当初、会場や財政については不安だらけであったが、幸い、7名の賛同教員の協力やカンパを得ることができた。結果として、集会は200人超の参加者のもと成功裡に終わったといえよう。その後、本集会の一部は、NHK・ETV特集「60年安保 市民たちの一か月」(9月5日)にて取り上げられもした。基調講演を引き受けてくださった石田雄先生、パネリストの方々、NHK取材班の方々、そして本集会を支えてくれたボランティアの大学院生、賛同教官の方々に、まずは何より深く感謝を申し上げたい。

 集会準備の過程で、安保をめぐる論点として安保「闘争」と安保「条約」の二面があることが浮かんできた。集会をふり返ると、核密約や沖縄の基地問題など安保「条約」に関する充実した報告がなされ、報告集でもその力強さを再確認できる。同時に、安保「闘争」の面については比較的言及が少なかったように思われる。実行委員会の内部でも安保「闘争」の意義や「国民主権」についてはいくつかの対立や違和感の表明、意見留保があったが、ここでは、「編集後記」という機会を利用して、私見として、安保「闘争」が示した三つの意義を掬いあげておきたい。安保「闘争」の肯定的側面をいかに継承するか、という思いが、この集会の初発の個人的動機だったからである。

 1960年の安保「闘争」の背景にあったのは、第一に、「戦争はもう嫌だ」という経験的な厭戦意識であり、それは日本の内側から表明された平和主義要求、「与えられた9条」の自発的な再選択であったともいえよう。第二に、岸首相に代表される「戦前的なもの」の拒否反応であり、それは当時の人々による「戦前政治」への自力拒否表明であったといえる。第三に、「国民主権」の自力再確認であり、既成政党の枠を超えた、大衆の自発的な「政治化」は、政治社会の担い手、主権者としての実践を示すものであったといえよう。総じて安保「闘争」は、1945年に押しつけられた――少なくとも自力で獲得することのできなかった――平和主義や「国民主権」といった価値を、まがいなりにも当時の人びとが自力で再確認する手続きだったといえるだろう。くしくも1960年は韓国やトルコでも民主化闘争が生じているが、「民主主義擁護の試験問題」に応えるべく格闘した歴史と、日本も無縁ではなかったことの意味を、この国のデモクラシーを担おうとする者として、強く受けとめておきたい。

 他方、本集会での一連の報告でもつとに指摘されたとおり、それから半世紀にわたる時間の経過は、1960年の「限界」というよりも、2010年のわれわれ自身の克服すべき課題として、多くの問題を浮き彫りにしている。安保「闘争」において生じた民衆の「主権者意識」がその後も持続されたとは言いがたく、そもそも、闘争における「国民的連帯」から在日や沖縄への視点が欠けていたことは、現在のわれわれに新たな取り組みの必要性を示している。また、安保「闘争」の盛り上がりによって安保「条約」の負の面が「不可視化」、「聖域化」され、それが現在に至るまで沖縄の基地として残っていることは、基調講演が明らかにするところである。それらはいずれも未決の課題として残っている。本集会が、それら現代的課題に対する態度決定のための一助となれば、幸いである。

         2010年11月17日  「60年安保を問いなおす」実行委員会 大井赤亥
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by akai1127ohi | 2010-12-06 01:50 | 散文 | Comments(0)

「日本の夜と霧」(大島渚監督、1960年・日本)

1955年のいわゆる「55年体制」とは、通常、①自民党と社会党の1と1/2体制、②族議員、官僚、公益法人とによる「鉄の三角形」の利害構造の確立が指摘される。しかし、この年の生じたもう一つの出来事として、③日本共産党の再統一と「新左翼」の形成がある。

1950年に分裂した共産党は、山村工作隊などその間の一部の冒険主義を自己批判し1955年に統一を回復する。政党としては穏健議会主義、日常闘争主義を採用し、学生組織としては自治会のサービス機関化を進める。学生運動の現場では、「歌ってマルクス、踊ってレーニン」ともいわれる、レクと交流を通した学生の組織化を進めることになる。(この時代の日本共産党は、現在の日本共産党とは分けて捉える必要があることも付記しておく。)

それまで党の武装路線に忠実であり、またその実働部隊であった学生党員にとって、この急激な路線変換が与えた衝撃は大きく、それは「六全協ショック」として少なからぬトラウマとなる。1945年の終戦で軍国主義から「民主主義」への価値転換を他律的に経験してた当時の学生世代にとって、この共産党の急激な路線転換は「二度目の大転換」であり、「敗戦による挫折に匹敵する大転換」(『60年安保―6人の証言』、同時代社、p76)だったという。(共産党がある意味で「国民」政党化し、在日コリアンの「日本」共産党への入党ができなくなったのも「六全協」以降だと思います)。

この結果、「六全協」によって党を離脱した島成郎、森田実などの学生たちが、60年安保「全学連」を結成し、これが日本における「新左翼」の端緒となる。日本における「新左翼」とはつまり、少なくともその初期においては、それまでの共産党の冒険主義路線を「六全協」以降も忠実に継承した人々だといえよう。二階に上がって梯子をはずされた学生たちの一部はその後も過激化を続ける。そのなれの果てである浅間山荘(1972年)は、その意味で、かつての山村工作隊の時宜はずれの実践だったと思います。

1955年は、共産党の穏健化、議会政党化、「国民」政党化と、それに反発してそこから乖離した「新左翼」の形成という意味でも、戦後日本の一つの構図ができた年だと思える。

               ***

大島渚「日本の夜と霧」(1960年)を見た。

背景知識がなければ、基本的に退屈で、しかし何ともいえないインパクトだけは与える映画としてのみ印象づけられるだろう。おそらくそのような理由から、インターネットでいくつか映画評を見ても、肯綮を外した映画評が多いと思う。

「現場でテンション高めて一気にしゃべり倒したような具合」、「もう噛もうが詰まろうが言いたいことを喋ればそれでOKとばかりに異様なまでの集中力」、「出来上がった作品のあまりにも娯楽性無視の内容」など。そのなかで、「大島作品には『参加すること』が求められているのである。当事者意識無しに画面を眺めるだけではアラ以外の何者も見えてこないのである」という意見に同意したい。

               ***

この映画では、当時の学生運動内部における多層的対立の諸相が、まったく整理されないアトランダムな調子で、実に明瞭に描き出されている。対立の諸相を紐解けば、たとえば以下です。

①55年(「六全協ショック」)を経験した世代と60年世代との対立。
60年安保世代の大田(津川雅彦)がいきり立つ相手は、親ではなく兄貴(55年世代)です。5年程度の年齢の差異が、抜きがたい兄弟的/姉妹的世代間対立をもたらしている。

②党員活動家と非党員活動家との対立(前衛vs「大衆」)。
これはこの映画で浮き彫りにされる対立の最も主要なものです。党員は理論的には強いが自己の自律的判断を組織に委ねている。非党員は理論的には弱く弁舌も立たないが、その非断定的な思考態度は結果的に流動的状況におけるある種の一貫性を示している。一長一短。

③親が裕福な党員とそうでない党員の状況差異(家庭階層格差)。
知的素養をもったインテリ主義から党に接近した学生党員(中山)と、実感的なプロレタリア意識から社会主義に接近した学生党員(野沢)の微妙な差異。

④女をめぐる男たちの対立(運動的マッチョイズム)。
同一イデオロギー内における、女をめぐる男同士の本能的/生物的競合。ここでモノをいうのは知識でも学習指定文献の読破量でもなく、純粋に男の魅力です。

⑤女と男の対立(フェミニズム)。
運動における女の位置(の複雑さ)。「革命」を一見共通の理念とした上で隠蔽される男女性的関係における手段視。

これらの複雑な対立構図を解きほぐしていけば、それらしい映画評はいくらでも書けそうである。私はこの映画を、多くのものを考えさせる、優れた芸術作品だと思いました。
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by akai1127ohi | 2010-12-04 00:30 | Comments(0)
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