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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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2010・夏(最終回)-萩観光ホテル

「発動の機は周遊の益なり」と書き残すほど、松陰先生も旅が好きだったようです。

隣県とはいえ、広島から萩まではバスで4時間もかかる。防府や徳山をえっちらおっちら寄り道していくからです。

車中、英語の子ども音楽を聞きながら、6歳児に問うて見る。

「何か英語話してみんさい」
「sh:’z a$ pa&per’# son!」
「え?も一回いって!」
「she is a paper’s son!」
「!?」

やおら何やら流暢な英語が出て思わず驚いて、よく聞くと、幼稚園で習ったという、「Scissors, paper, stone!(じゃんけんぽん)」だった。

               ***

萩の市街地には、それぞれ「松陰先生」、「晋作くん」という二ルートの小型巡回バスが走っている。私が「自虐史観」をうえつけたせいか、6歳児は、バスが田中義一像の前を通ると、私に教えてくれる。

「akai くん、『悪いおじさんの像』、また来たよ」

               ***

観光ホテルが用意した送迎バスをあえて見送り、萩から一つ北の小さな駅「越ヶ浜」から萩観光ホテルまで、40分の道のりを一人で歩いた。

萩のローカル鉄道をにぎわす通学帰りの高校生たち、道中に道を尋ねた萩の人びと、そして何より、夏の夕暮れの40分の散策は、ビールをこの上なく美味しくする儀式となりました。

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写真は萩、越ヶ浜の駅。

               ***

越ヶ浜を見下ろす高台に、静かに鎮座する「萩観光ホテル」。

夜、6歳児とホテル内の卓球ルームに卓球をしに行く。
その途中、1階の宴会場から、おば(あ)さんたちがカラオケを合唱する声が聞こえた。

そのおば(あ)さんたちの声が実に楽しそうで、思わず、宴会場のそばに止まって歌声に耳を傾けた。繰り返される「にりんそう」の合唱に、曲名のめぼしがついた。少し現実離れしたような歌詞、それを、実に楽しそうに大合唱する、地方の小さな観光ホテルの宴会場。モーツァルトも大変結構ですが、私はこのような、どこにでもある場所での、このような歌謡曲との邂逅が好きだ。今年の夏のBGMとなりました。


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by akai1127ohi | 2010-09-27 01:55 | Comments(0)

2010・夏(4)- 加藤周一、『日本文学史序説(下)』、ちくま学芸文庫、1999年

萩小旅行を契機に、加藤周一の代表作、『日本文学史序説(下)』を読んだ。
「日本文学史」に関する、非常にバランスの取れた通史という印象でした。

同時に、本書で扱われる「文学者」は、たとえば吉田松陰など、ほぼすべて「思想家」でもある。
なぜ同書が「文学史」序説となるのか。いかなる意味で同書が「日本」「文学」史序説となりうるのか。「日本文学史」もまた、たとえば「日本政治思想史」と同様の問題を抱えている。

               ***

松陰を考える場合、佐久間象山の存在も大きい。
現在入手可能な佐久間象山の著作としては、松浦玲責任編集『佐久間象山 ; 横井小楠』((日本の名著、中央公論社)があります。

以前、下田開港記念館で佐久間象山が松陰に宛てた手紙「踏海の志」を見た。海外渡航に逡巡する松陰の背中を、佐久間象山が「踏海の志」でぐいっと押します。加藤周一も『日本文学史序説』で高く評価するように、佐久間象山の時論は、激烈な憂国の情が、きわめて冷静で現実的な提言へと結びついている。およそ、奇をてらった議論や、無意味なラディカルさとは完全に無縁で、パッションがあるからこその必然的な現実主義ともいうべき思索の経路を示しており、実に「議論の筋道は、鮮やかに立って」(p179)いる。

               ***

加藤周一、『吉田松陰と現代』(かもがわブックレット、2005年)も読み返した。

「私は時代が違いますから松下村塾に入ったことはないけれども、もし入っていたらやられた〔感化された〕と思いますよ。みなさんもそうかもしれません。ただ理論をしゃべっているだけじゃない。まして自分の利益のために何か言ってるんじゃない。そうではなくて、いま言った思想、どうしても改革するのはいまだ、われわれがやるほかはないという信念、それは燃えるような信念だったのでしょう。」(加藤、『吉田松陰と現代』、p15。挿入引用者)

しかし、2004年に萩で行われた講演を基にしたこのブックレットは、『日本文学史序説』での松陰記述を超えるものではない。紙幅の制限などあるだろうが、加藤がいう松陰の現代的翻訳の必要性に共感しつつも、松陰に対する加藤自身の評価とその現代的意義の抽出には消極的で、全体として物足りない。たしかに加藤に間違いはない。しかしその分、加藤には、吉田松陰のような「狂愚」の魅力もありません。

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佐高信の加藤周一「くさし」に同意するわけではないが、瀬戸内海を「地中海」と言い違え、モーツァルトを聞かない人は不幸だという加藤が、真に「同時代の日本人の苦しみ」を共有しえていたか、それを表現しえていたか、を問うて見ることくらいは、許されてもいいでしょう。モーツァルトを愛した加藤が、日本の小さな地方都市の観光ホテルの宴会場からもれ聞こえる演歌の大合唱に耳を傾ける幸せをもったか、私は知りません。

しかし同時に、『日本文学史序説』(下)を読んでのつくづく感じることは、やはり、「日本文化」への加藤の愛着です。自分たちの文化史、思想史、表現史への強い愛着、引きつけられ方、知り方、そして伝え方。これが、加藤の外国文化への造詣との反射・往復関係にあったことは明瞭だろう。

外国の文化を知り、それに通じることによって日本の文化を理解すること。
外国の文化を理解し、それに思いを寄せて愛着を持ち、だからこそ日本の文化を知ろうとし、自分たちの文化をも愛さずにはいられなくなること。日本の文化の良いものと伝え、残そうとする強い意志を持つこと。日本と世界の文化に対するそのような理想的なあり方が、口惜しい哉、加藤周一でもあります。
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by akai1127ohi | 2010-09-24 07:14 | Comments(0)

「終わらぬイラク-“元人質”高遠菜穂子の6年間」を見て

9月のとある朝、といっても10時近くだが、歯磨きしながらテレビのチャンネルを回していると、たまたま、NHK「終わらぬイラク-“元人質”高遠菜穂子の6年間」を見た。

大変印象深い番組でした。早速、amazon の古本で、高遠菜穂子、『愛してるって、どういうの?』(2002年)、『戦争と平和―それでもイラク人を嫌いになれない』(2004年)を注文した。(また、同番組はYou Tubeでも見ることが出来る)。

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番組のなかで高遠さんは、イラク人と話すときも、イラク戦争から帰還したアメリカ兵と話すときも、これまで見てきた多くの人の姿を思い出してか、背中を突き上げるように押し寄せる感情の渦の中で、身悶えながら言葉を紡ぎ出します。

目の前の一人の不幸を自分のものとし、その結果、際限なく他人の人生を背負い込むかのような高遠さんの姿には、正直、「割り切って、割り切って」とさえ言いたくなる。(人間の具体的な不幸に直面する仕事をする人びとにとって、「割り切る」思考や、「さじを投げる」習慣も――活動の持続性のために、あるいは自己防衛のために――必要だろうし、それは責められるべきことではないだろう)。

しかし他方で強く感じさせられたのは、高遠さんは、他人の感情に対する類稀な共感力、他人の苦しみをわが物とする非常に鋭敏なcompassion(苦しみを共有すること) の能力を備えた人だとうことです。その compassion の力は、見る者に強い訴求力をもって迫り、人に、少なくとも私に、強いインパクトを残しました。

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高遠さんは、帰国後の「自己批判」バッシングの後も、イラク支援を再開し、自分が人質となったファルージャの街の再建を支援しているそうです。

他人の苦しみを自ら背負い込む人は、それが駆動力となって、決して歩き続けることをやめない。自分の野心や功名心から何かを始めた人は、自分がつらくなれば止める。しかし、自らを表象しえない他者の怨念を背負う人は、そんな理由で走ることを止めはしないし、止めることができない。他者が、自分を走り続けさせます。そんなことを感じさせる番組でした。

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率直にいって、私はこれほどの他者への感受性や共感力を備えていない。私が無理して高遠さんのような人になろうとしても、それは無理だし、嘘です。私は私のスタイルで他人と、社会と関わっていくしかありません。

しかし、たとえば「自分探しの旅」という言葉が社会学の論文テーマにまで成り下/上がった時代は、同時に、高遠さんのような、他者への本物の感受性と共感の力をそなえた人が、とても生きにくくなった時代でもあるのではないでしょうか。私自身がこうした人になることは無理でも、たとえばこういう人を嘲笑する風潮とは、しっかりと対峙していきたいと思わさせるものがありました。
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by akai1127ohi | 2010-09-18 05:34 | 散文 | Comments(0)

2010・夏(3)-萩・松下村塾にて

萩は、一日で歩ける小さな町です。なぜこの小さな城下町で、これほど痛烈な「国家」意識が体得されたのか。松下村塾という小屋で、なぜこれほど自らと「日本」という単位とを同一化する人材が育ったのか。実に不思議です。

               ***

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写真は藩校明倫館の入口。

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写真は藩校明倫館の正面玄関。

築120年の建物で、驚くべきことに萩市立明倫小学校として現役で使われている。


               ***

結局、一泊二日の萩小旅行の、私にとってのクライマックスは、やはり松下村塾でした。

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写真は松下村塾

吉田松陰の入手しやすい著作としては、『吉田松陰』(中公「日本の名著」、1973年)、『吉田松陰全集』(全10巻、岩波書店、1986年)、『講孟余話ほか』(中公クラシックス、2002年)、『吉田松陰留魂録』(講談社学術文庫、2002年)など。

今、われわれは吉田松陰のような人物をどう評価すべきなのでしょうか?
これは自分でも考えたいし、いろんな人の意見を聞きたいことです。

松下村塾、松陰神社、そして「松陰神社宝物殿・至誠館」を訪れた。「至誠館」の至誠は、松陰の言葉、「至誠而不動物未之有也(志が誠であるのに未だ動かないのは志がないに等しい)」から来ている。松陰の愛用品、手紙、短歌などが展示されている。

松陰はかなりの「ナルシスト」で、自己と「日本」との「同一化」たるやすさまじいものがある。誰に頼まれたのでも、「強制」されたのでもない、自発的で自己陶酔的な日本との同一化は、半狂の域です「狂愚誠可愛」)。そして、狂うまでに何かと自己同一化できる人間が、人を動かし、歴史を動かすのだと、痛感させられます。

そのような吉田松陰を、20世紀を通じて「国民国家」が引き起こす愚とその本質における虚構性が繰り返し暴露された現在、われわれはいかに位置づけるべきなのでしょうか。

               ***

吉田松陰は、「空想的ナショナリスト」だろう。
松陰は使命感とそれに相応しい教養を備えた稀有な人物だったが、その時代の条件は、「自覚的な国民形成」が現実のものとなるには若干尚早だったように感じる。松陰は「国民国家・日本」の予言者にすぎず、その実行は松陰の弟子にあたる administrator の時代になされる。

ある思想が、一定の時代的文脈のなかでは歴史を進める機能を担うのに、その同じ思想が、次の時代の文脈の中では、保守反動的な機能を担う。マルクスは、「空想的社会主義者」の歴史的意義を十二分に認めながら、彼らの言説を「そのまま」継承する「忠実な弟子」たちの保守反動化が必至であることも指摘している。

「階級闘争が発展し、形成されるにつれて、それだけ階級闘争に対するこの空想的超越、階級闘争のこの空想的克服は、いっさいの実際的価値を、いっさいの理論的正当さを失う。だから、これらの体系〔空想的社会主義〕の始祖たちが、たとえ多くの点で革命的であったとしても、その門弟たちはいつも反動的セクトを形成する。かれらは、プロレタリア革命のその後の歴史的発展に面しても、師の古い見解に固執する。」(マルクス、『共産党宣言』、岩波文庫、pp92-3)

これにならえば、一定の歴史的状況における「空想的ナショナリスト」の意義が大きいこと、そして、それが歴史を前に進める力のに反比例して、その言葉を「そのまま」継承するその弟子たちが保守反動化は必至だといえよう。

なぜなら、師によって大きく歴史が進められ、その結果、師とは大きく条件が異なった文脈の中で、「忠実な弟子」は師の言説をそのままオウム返しにするからです。その結果、「忠実な弟子」の言論は、単なる「体制合理化」、「現状肯定」の機能しか果たさなくなる。さらにいえば、師匠の「語彙」をそのまま継承する「忠実な弟子」は、師匠の「精神」を、実のところ、最も根本的=ラディカルに裏切っている弟子だともいえよう。

               ***

吉田松陰が偉いのは、150年前の「海図なき時代」に、一生懸命に外国の知識を吸収し、自分の頭で考えたからだろう。今、吉田松陰を継承するとは、松陰が彼の文脈でそうしたように、今、われわれの文脈で、自分の頭で考えることでしょう。たとえそれが、松陰が先駆的に示した、「国民国家・日本」を溶解させることであっても。
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by akai1127ohi | 2010-09-14 23:04 | Comments(0)

無題

本郷通りから裏道に入った一角、喧騒から離れたところに、DS会というキリスト教系の東大学生寮がある。非キリスト教徒でも入寮可能で、もう6年ほど前、学部生だった私はその寮の入寮選考を申し込んだ。

               ***

入寮希望者は、一度、日曜日に寮生ともに礼拝を体験し、その後、食事をしながら入寮選考のようなものを受ける算段になっていた。

入寮者とOB、牧師などが参加する礼拝は厳粛な雰囲気で、私も深く黙祷し、牧師の話に耳を傾けた。そこで牧師は、「世界に巨悪がはびこっている」として、その「巨悪」を批判した。当時はイラク戦争後の余韻がまだ大きく尾を引いていたので、私は、「巨悪」とは当然アメリカのことだろうと思った。

しかしそれは、折檻によって子どもを死なせた母親のことだった。牧師は、強い言葉で執拗にその母親を攻め続けた。私は、言いたいこともあったが、礼拝の流儀もよく分からず、結局何もいえなかった。

               ***

その後、食堂に移り、厳粛さの緩和された雰囲気のなかで寮生やOBらとの夕食会となった。食後は、依然として私の入寮選考を兼ねながらも、OBや牧師が10名ほどの寮生と一緒に世間話をするような歓談の時間になった。

先の牧師はそこで、つい先日新聞をににぎわせた、3人のイラク人質の解放事件に関して、彼らが解放された際にテレビカメラの前でとった「不遜な態度」--差し出された握手に立ち上がって応えなかった、等--に立腹し、次のように言った。

               ***

疲れているのは分かるが、あの態度は何だ。
どれだけの人が救助に奔走したと思っているのだ。
日本人の代表として世界に放映されたのに、恥ずかしい!

               ***

座はすでにインフォーマルな歓談の席になっていたので、入寮審査の被選考者でありながら、私はこれには反論した。

では、自衛隊が「日本人」を代表しているのか?
イラクの人々に対して、日本国憲法を持つ国が、自衛隊で「日本」を代表させたのか?
むしろ、高遠さんのような人が、暴力と怨嗟の渦中に呻吟するイラクの武装組織の人間に対して、「日本人」を代表したこと、暴力とは別の方法があることの可能性を彼らに示したこと、それを、日本人は感謝すべきではないか?
(それなのに、何もしないあなたが、何だ。)、と。

               ***

数日後、DS会の入寮選考担当の学生から私の携帯に留守電が入っていた。

「選考の結果、ohi さんは、『不合格』です。」
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by akai1127ohi | 2010-09-07 20:12 | Comments(0)

Concerned Citizen:「小康」の積極的意味(2010年9月4日)

(1) 民主党政権の一年
自民党のその政権末期に示した一連のタカ派的、排外主義的思潮は、展望を失った政治権力に固有のものであり、それは私にとって、清朝末期の時代錯誤な「中華思想」を想起させるものでした。権力は、最も弱体して展望を失ったとき、最もやかましく「自尊」や「誇り」を口にする。それを地で証明した一時期でした。

それに対して、政権交代以後のこの一年は、いわば、「同治中興」だろう。全体的には衰退に向かうなかでの、消極的な小康状態です。

(2) 消極的な小康状態の意味
旧権力の残滓がメディア産業を少なからず占め、新政権が未熟かつ流動的で、なおかつ「民主党以左」の現実的政治勢力が未形成の今、ひとまずは、この消極的な小康状態をなるべく長引かせることが大切だろう。長引かせながら、「平和」と「平等」の価値に向けた、新たな社会モデルを確立し、そのための国民世論を形成し、その現実的な担い手となる政治勢力を構築することが、重要だったはずです。私は今もこれが重要だと思います。

たった1年で、さっそくその「消極的な小康状態」の担い手は、あわよくば自壊していかんとする有様です。今回の民主党代表戦は、「消極的な小康状態」の一つの岐路でしょう。
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by akai1127ohi | 2010-09-04 14:01 | Concerned Citizen | Comments(0)

Concerned Citizen Reconsidered

ジャーナルな対象について発言するということは、「間違いをおかす」ということです。
では、黄昏時に起きだすという「ミネルヴァのふくろう」は、日中は何をしていたのでしょうか?
惰眠をむさぼっていたのでしょうか?

               ***

時事的な政治の動きを「生もの」、「軽薄」、「野次馬根性」として禁忌する思潮が日本にはある。私にとってそれは、結果として、「政治的無関心」の一類型となるように思われます。また、現実の政治について発言することを禁忌・軽蔑する日本の政治文化は、結果的に、日本の政治の質の低さの一因となっているように思う。

かりに、「天下国家は政治家の職分なのだから、学者なんぞ象牙の塔に引っ込んでろ!」という野卑な政治家の声に対して、自称「価値中立」の研究者はどう答えるのだろうか。「はいわかりました」と、言われた通りにするのでしょうか。

               ***

日本語に訳しにくい英語の一つに concerned citizen がある。適語がないのはおそらく、日本にconcerned citizenがいないからだろう。

自分が生活する領域で、まじめに、政党や権威を頼むのではなしに、自己の生活と教養に根ざした自律的な判断で、公共的事柄に率直に意見を表明する有権者のスタイルを、われわれは自分たちのものに出来ていないように思う。その結果、「生もの」を敬遠する高踏主義と、ずばり下品な政局論をやる野次馬のみで、その中間がありません。すなわち、concerned citizen がいません。

               ***

関連して言えば、「どこに投票した」を、言わないことが賢い/大物だ、言う奴は軽率だ、というような、共通了解がありますが、これは、現在の日本においては、合理的な理由もなくなぜか無批判的に流通している、政治についての誤まった考えだと私は思います。どこに投票したか、言う義務は明らかにないものの、言う権利もある。その上で、なぜそうしたか、堂々と議論すればいいのです。

               ***

自嘲気味に「床屋政談」として、時おり恥らいながら述べていた時事論を、臆することなく、Concerned Citizen Reconsiderd として定期化することにしました。
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by akai1127ohi | 2010-09-01 00:56 | Concerned Citizen | Comments(0)
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