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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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戦後史の関心(3)―日高六郎:ジレンマを見つける力

「私は、義務としてではなく、衝動として戦争と平和について語りたいことが、自分の内部にあることを感じる」(『戦後思想を考える』、p44)

新聞に書くのは学者の社会的「義務」?「衝動として」語りたいジャーナリストがいるのに。学問は「義務」?「衝動として」学問をしようとする人がいるのに。

               ***

昨年12月に修論を終えた後、年末年始にかけては、日高六郎「一辺倒」でした。日高の思索を深めているのは、ジレンマを見つけ出す力です。

たとえば「正しさ」と「やさしさ」のあいだに、「歴史の法則性」と、「個人の生のかけがえのなさ」のあいだに、「主観的意図」と「客観的役割」のあいだに、滅私奉公の「反人間性」と滅公奉私の「没人間性」のあいだに、「分裂におちいらない多様性」と「画一主義におちいらない統一」のあいだに……。

これらのジレンマに対し、日高は明快な「解答」を示しているわけではない。しかし、必要な「問い」を見落として何かを極端化しがちな propensity の前では、「ジレンマを見つけ出す力」それ自体に非常に建設的な意義があるだろう。そして、大切なのは「問い」を継承することであり、「解答」を継承することではないはずです。

日高のジレンマが深い「問い」を呼びおこすのは、それが、ジレンマ探しを「目的化」した相対主義者のそれではなく、何か「絶対的な理念」への到達を希求しつつも、その過程で不可避的にぶちあたるジレンマだからでしょう。

それがゆえに、いかなる人間的な逡巡もなく、一つの信条なりイデオロギーなりに固定的に自己同定できる「幸福」な人が、日高の逡巡を「日和見」と決めつけることには、率直にいって極めて強い不満を感じます。

               ***

1917年に中国、青島に生まれた日高は、1934年に東京の旧制高等学校に入学し、初めて東京を訪れる。その際に日高は、ドイツが築いた西洋都市である青島から、初めて木造、汲み取り便所の東京の家屋を経験する。高校入学後は、毎夏、青島へ「帰省」します。植民者の子どもとして、植民地に「日本人」として生まれたことが、日高のアジア認識を鋭くさせたことに疑いはないだろう。

               ***

日高は、戦後25年が経過した1970年のとある集会で、「二十歳前後の青年」から受けた次のような質問を紹介している。

「敗戦後、教科書に隅をぬって授業をしたという話を聞きました。私は、なぜ先生も生徒も、教科書を墨でぬりつぶさずに、批判すべき点を自分で発見して、それを批判しながら授業をしなかったのかと思います。そうすべきだったのではないでしょうか」。(『戦後思想と歴史の体験』、p249)

日高が紹介するこの質問は、戦後日本の民主主義の問題を明瞭に示しているように思う。日本人は、体制批判の論文をはさみで切り取る軍国主義から、軍国主義賞揚を問答無用に墨でぬりつぶす「民主主義」へと、見事に変貌した。

日高によれば、1945年8月15日に安田行動で玉音放送を聞いた一群は、「不気味なほど行儀よく」解散したという(『私の平和論』、p88)。同日、中国の人民がその勝利に歓喜の声をあげ、朝鮮の民衆が解放を祝った反面、日本人が示したのは、「8月15日はちょっと泣き、16日は一日ポカンとしており、17日ぐらいになると、食料探しに行かなくちゃ」(『討論・戦後日本の政治思想』、p32)というような、驚くべき体制順応主義だったのではないでしょうか。ほとんどの日本の民衆には、「この敗戦の意味をつかむ能力」が欠けていた。

押しつけられた天皇制と軍国主義から自らを解放する力量を持ちえず、押しつけられた「民主主義」を理解することなく、何であれ受動的に受け入れる「日本人」に、その思想的主体性は一体どこに見出されるのでしょうか。

「その(8月15日という)出発点に立ったとき、GHQの命令に従って教科書に墨をぬるようなことをせず、その教科書を子どもたちとともに徹底して批判しようとする教師たちがいなかったという事実が、いまなによりも問題にされなければならないことなのであろう。」(『戦後思想と歴史の体験』、p251)

戦後の「日本人」は、植民地支配がなぜ否定されなければならないかを理解したから植民地を手放したのではない。なぜ軍国主義がいけないのかを理解しえたからそれを放棄したのではない。いずれも、アメリカの武力によって強制的にそうされたにすぎない。物理的にも思想的に「自己解放」しえなかった日本人が、身を切る思いで自力の「自己解放」をなしとげる戦後の中国、韓国の政治変動を理解しえなかったのも、当然です。

               ***

私が今考えている問題群のなかで、日高は、「自力解放」しえなかった日本人という事実を最も明晰に指摘している貴重な論者です。

「日本はいい国だ」と言う「日本人」に対し、私はかねてから、さんざん海外旅行に行ってきて、一体何を見て来たの?と問いたい気持に駆られてきました。「日本は諸外国から10年遅れている」という人がいますが、私は同意しません。30年遅れているからです。

戦後の「日本人」にあるのは、自力で自らを軍国主義から解放しえなかったひ弱さ、自力で植民地解放の道理を理解しえなかったひ弱さ、自力で「戦犯」を裁くだけの達成がなかった(自力で「東京裁判」を行えなかった)思想的ひ弱さです。自画自賛史観はもういい。「日本人」のひ弱さという事実を厳粛に受け、そこから、「日本人」が普遍的な理念に向けてどのような貢献が出来るかを考えるべきだと思います。
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by akai1127ohi | 2010-02-27 12:47 | Comments(0)

「小説 吉田学校」(1983年・日本)

第二次大戦直後のアメリカのアジア政策は、日本を徹底して非軍事化して「小国化」させると同時に、中国に新米反共の蒋介石政権をつくり、国民党政権にアジアの反共を担わせる計画だった。日本がアジアにおける「反共防壁」としてアメリカに重宝されたのは、1949年を境に、中国本土での蒋介石政権が潰れたからにすぎない。アメリカ政府による憲法9条の押しつけと、その後の再軍備の押しつけという矛盾したご都合主義は、中国革命と朝鮮戦争を契機とした、このようなアジア戦略の方針転換の都合によるものといえる。

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1950年前後の吉田と鳩山との抗争は、イデオロギー対立というより人間関係の対立、保守政党内の出身母体、すなわち「官僚派」と「党人派」の対立という色合いが強い。あえての政策上の最大の対立は、朝鮮戦争以降、日本の再軍備をめぐる対立だといえよう。しかしここでも、英米派の吉田がアメリカによる再軍備の強制を巧妙に拒絶し、対米ナショナリストの鳩山が日本再軍備を主張して結論的にGHQの要請と共振するというねじれがある。

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「小説 吉田学校」(1983年・日本)は緊張感にあふれる映画で、大変楽しめた同時に、勉強にもなった。

森繁久弥がはまり役の「吉田学校」に焦点が当っているがゆえ、鳩山一派は、悪者ではないにせよ日陰者として描かれている。芦田伸介の鳩山一郎も激似ながら、若山富三郎の三木武吉、梅宮辰夫の河野一郎など、政権奪還に燃える鳩山グループは政治劇というより完全に任侠劇です。

また、「バカヤロー解散」の発端となった吉田の「バカヤロー」は、映画によれば、怒鳴るというよりつぶやくような発声だったのも小さな発見でした(ちなみにそれを誘発した右派社会党の西村栄一は小林捻侍)。

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この映画を期に、今度煮詰まった時は気分転換をかねて大磯まで足を延ばしてみたい。大磯の海は、意外と波が荒いようです。かえすがえすも、大磯の吉田私邸の全焼が惜しまれる。
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by akai1127ohi | 2010-02-26 11:53 | Comments(0)

戦後史の関心(2)―池明観:「T・K生」のネットワーク

池明観が日本に来たのは1972年で、ソウルに「まだ江南がなかった時代」。丸山真男、石田雄の下で中江兆民についての思想史研究をする予定だったという。

1973年の初め、安江は銀座の料理屋「浜作」で金大中と池を仲介し、金大中は池に運動の事務局長的役割を要請したという。(安江はこの他に宇都宮徳馬、伊藤正義などにも金大中を紹介している)。池は思想史研究との間で逡巡するものの、直後に金大中拉致事件が起り、「韓国からの通信」に従事することになる。金大中は「寝ても醒めても政治を考えている方」だったという。

以後16年にわたる「韓国からの通信」の背後には、送る人、運ぶ人、受けとる人、出版する人からなる、かなり大きなネットワークがあったものと思われる。そのネットワークを描出することは、日韓関係史にとって意義のあることではないでしょうか。

               ***

いずれもT・K生による岩波新書、『韓国からの通信』(1974年)、『続 韓国からの通信』(1975年)、『第三・韓国からの通信』(1977年)、『軍政と受難―第四・韓国からの通信』(1980年)、および池明観名での『韓国 民主化への道』(1995年)などを通読。運動の渦中の記録なので、感情的で美化的な表現もあるものの、(日本語での)歴史的な記録としての意義が深いだろう。

朴正煕には、民主化を徹底的に抑圧した独裁者、経済成長をもたらした指導者という二つの評価があるが、私の韓国現代史は、いわば「池明観史観」によって「ひとまず」形成されたといえる。印象深かった個所を二つだけ言及したい。

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「いつか私は野人になった尹大統領(尹潽善)とゆっくり話しあったことがある。ふと私は河合栄治郎さんの随筆集―『書斎の窓』だったかどうかはっきりしないが―で読んだことを思い出した。オックスフォードでのことであったと思うが、河合さんがある韓国人学生と討論をした。その韓国人学生は日本の植民地統治を非難した。河合さんは植民地支配の不可避性みたいなことをいって、多少の弁明をした。イギリスも植民地を持っていたので、イギリスの学生たちが河合さんの立場を理解してくれた。韓国人の学生は気の毒であった。とうとうこの学生は北の方エジンバラに向って去っていったが、その後姿のさびしさが忘れられないというような内容であった。それは日本帝国主義に同調しているとはみられない一文であった。それは韓国人にたいする憐れみに満ちた、そしていつかは独立するであろうと激励するようなエッセイと思われた。私はその一文が忘れられなかった。尹さんにお会いしたときふとこれを思い出して、先生はエジンバラで勉強されたのだから、ひょっとしたらなにかご存じではないかと思っておたずねした。そのとき先生は、「それは私だよ、そんなこともあったね」と言葉少なに語られた。」(『続 韓国からの通信』、p12)

               ***

「黄寅成君のお母さんを憐れんでください。彼女は田舎でアカの家だと誤解され絶望して自殺をしようとしたのでした。金景南君のお母さんを憐れんでください。日雇い労働をしながら息子のあと押しをしていますから力になってください。金永俊君のお母さんはとうとう息子に会えず亡くなられました。……この国、この民族を憐れんでください。過ぎ去った日々、自分の子どもたちのことのみを思い、彼らのみをよく食べさせ、よく着せようとした罪を許してください。……今や私たちは愛する子どもたちを通じて神が私たち母に何を欲していられるかを知ることができました。ひとの子どもを自分の子どものように愛しなさいということです。」(『続 韓国からの通信』、pp65-66)

               ***

1960年の4・19闘争以来、韓国の民主化闘争の実働部隊は学生です。1986年の6月抗争を受けて最終的に韓国の民主化が達成された後、「世界」は「特集 韓国民衆革命」(1987年10月号)を組んでいるが、そこで高崎宗司は、無私かつ勇敢に戦う学生たちへの、市民の支持と共感の声を紹介している。

「ソウルを去る日に乗ったタクシーの運転手は『学生は勇敢だった』と言い、飛行機で隣の席に座った大学教授も『学生には敬意を払っている』と言っていた」

毎年恒例「荒れる成人式」で見せつけられる、単に甘えた若者層と、単に保守化した老年層との「いがみ合い」は、現代日本の不幸です。隣の芝生は、実に青く見えます。

                ***

しかし、民主化達成後の韓国社会に対して、池の視点は悲観的である。

「軍部独裁政権が退陣を約束すると、その後はまったく散文的な大衆消費社会。清冽な抒情、自己犠牲の理想主義は消えていった。それが伝統的な抒情詩の運命であり、民主化運動の知識人の運命であった。金芝河が考えたような『大衆を教育し大衆の尊敬をうける』知識人など、もう大衆は必要としない。韓国知識人の退場、またはその退廃が始まるのである。」(『韓国 民主化への道』、p210)

最近の著作『T・K生の時代と「いま」』(一葉社、2004年)でも、かなり厳しい盧武鉉政権批判を重ねている。

軍事政権を打倒した民主化闘争のエネルギーを、体制をめぐる根本的な価値観対立が消滅した今、いかにして持続させ、いかに建設的な権力批判へと変容させていくか。民主化闘争は、その課題を今に残している。もとより、この課題は、韓国の政治を担う当地の国民一人ひとりにその解決が委ねられていることはいうまでもない。
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by akai1127ohi | 2010-02-20 21:28 | Comments(0)

冷戦構造の思想的克服ー日本と韓国

映画「チング」によれば、既述のように、1970年代の韓国の高校には、「反共」の文字が教室の壁に懸かっている。一昨年渡韓の折、ソウルから板門店に近づくにつれ、「反共」への功績を顕彰する記念碑がいくつも建立されていた。戦後の朝鮮半島は、アジアで最も冷戦構造が先鋭化し、それが政治と言論を規定していたといえる。民主的な正当性を持たず、また自民党との癒着により原則的な「反日」も掲げられない朴正煕政権にとって、「反共」はほぼ唯一の統合原理であり、日本以上に思考と言論への拘束要因となっていたのではないでしょうか。

               ***

そして、このような「反共」によって支えられた朴政権への、1960、70年代の抵抗運動は、民族主義によって支えられています。韓国の民主化運動は、この「反共」という冷戦イデオロギーを、「ナショナリズム」によって切り崩し、克服していく過程とも言えると思います。

朴政権に対する「反政府」の運動は、「反日」「反米」という民族自決の論理と糾合していた。と同時に、政権周囲の買弁資本家への糾弾という側面から、ある種の「反資本」もあったようです。韓国の民主化運動は、反政府(デモクラシー)、反日・反米(ナショナリズム)、反資本家(ある種の北朝鮮への共鳴)が、幾重にも交錯した思想状況だったと思える。

日本においても、福田歓一、日高六郎、安江良介などは韓国のこの動きを理解している。たとえば安江は、「韓国社会に内部化された冷戦構造を自分たちの手で切り崩して」いく韓国民主化運動の達成を繰り返し指摘している。

               ***

冷戦構造は、日韓双方のいずれに対しても、超大国の都合によって「押し付けられた」ものです。そこにおいて、韓国の民主化闘争は、「国是」としての「反共」を自力で切り崩し、そのようなイデオロギーの磁場を克服していった。

金大中は象徴的な政治家ですが、下からの「ナショナリズム」による「反共」意識の克服は、誰か思想的な指導者がいたというよりも、闘争の過程で民衆の中から形成されてきたものではないでしょうか。そこに、池明観がトーマス・マンの言葉を通じて表現する、「感情になりきりうる思想、そういう脈打つような思想」、「思想になりきる感情、そういう精密な感情」を感じます。

日本にも、そのような契機がいくつかあり、日高六郎が『戦後思想を考える』で紹介している、韓国の女子学生の遺書と樺美智子の言葉の相似は、実に驚かされる。いささか図式的ですが、そこにおいて、「反米」(ナショナリズム)が議会制民主主義を破壊する岸内閣への抗議(デモクラシー)へと結合しているがゆえに、「日本」という政治単位と自己の同化が、現状変革へ向けた激烈な活動力へと昇華されています。

               ***

しかし、そのような契機を、戦後の日本は活かすことに失敗した。
1955年以後の日本の政治と言論は、基本的に、冷戦構造を国内化した左右対立によって規定された。そこにおいて、保守陣営はナショナリズムをデモクラシーに基礎づけることができず、革新陣営のデモクラシーは「新しいナショナリズム」へと突き抜けることがなかった。

その結果、1955年以後の日本政治を規定したのは、非常に矮小化された冷戦思考だったように思えます。革新勢力を「北朝鮮の代弁者」だとか「コミンテルン日本支部」としてきた戦後の保守陣営は、結局、彼ら自身、「アメリカ共和党の日本支部」にすぎず、普遍的な理念への日本独自の貢献をしえませんでした。

韓国の民主化闘争は冷戦構造を打破する思想的な力を獲得しえたのに対し、日本の戦後は、米ソが作った「冷戦構造」というイデオロギー磁場のなかで、借り物の左右イデオロギー対立に思考を規定されたまま、日本独自の普遍的理念への探求に突き抜ける右翼も、激烈なナショナリズムへと突き抜ける左翼も生じませんでした。

外側から規制された冷戦構造という思考図式ではなく、自分たちが独自に抱える価値、日本という特殊な状況に芽生えつつも、普遍的な訴求力を持って提示しえる理念を、自らの「ナショナル」・アイデンティティとして鍛え上げ、それによって冷戦思考を打破していく思想的努力が、果たして十分なされたのか、実に疑問です。

               ***

そのことは、左右双方における、「日本」という自分たちの政治単位を死ぬ気で変革するという精神的なアタッチメントと宿命のような使命感の欠如に現れているのではないかと思います。デモクラシーがないから、当然ながら、ナショナリズムもない。

1970年のソウル平和市場での全泰壱の焼身自殺を契機に、1990年代にかけて、民主化運動の中でのべ60人の学生が抗議の象徴的自殺を行っています。韓国の民主化は、「他者を殺すことによってではなく、自らを殺すことによって勝ち取る勝利であった」(池)。それが倫理的に良いかどうかは別として、知れば知るほど、少なくともこれらが「若気の至り」や「運動のヒロイズム」というような言葉で片づけられるものではないことだけは理解されます。

他方、韓国の学生運動を見聞した四方田犬彦が、1969年の全共闘の安田講堂攻防戦において、誰も屋上から抗議の投身自殺を遂げなかったことを指摘し、韓国では必ずそのような行為がとられていただろうと指摘していた。それがいいかどうかは別にして(本当は、これは絶対に「別に」できないことなのですが)、さしあたり、なぜこのような違いが日本と韓国で生じたのかを考える必要はあると思います。

なるほど韓国の民主化闘争と日本の学生運動を同列には論じられない。しかし、自発的に命を賭してまで変革しようとする、強い心情的なアタッチメントを、戦後の日本人は自分たちの政治単位に持ちえた瞬間はあったのか、という自問は必要でしょう。「身捨てる程の祖国はありや」とは、左右問わず、デモクラシーの担い手としての戦後の「日本人」が、自省すべきことではないでしょうか。
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by akai1127ohi | 2010-02-17 19:30 | Comments(0)

「友へ チング」(2001年、韓国映画)

1970年代から80年代の釜山が舞台の青春任侠物。衝突や暴力も、どこか猪木の闘魂ビンタ風に爽やかで、良くできた映画だと思った。「恋風恋歌」からの変わり具合に、私は途中までチャン・ドンゴンに気づかなかった。釜山の景色もきれいでした。

               ***

「チング」は、漢字では「親旧」と書くそうです。
将来へ向けた、未発の可能性を抱えた青年時代の友人関係の特徴は、何よりも「平等」です。平等に(象徴的には特に性的に)無知で、平等に好奇心があふれ、平等に未成熟で、平等に社会的地位はありません。

30代をすぎて知り合う人間とは、社会的な立場ですでに微妙な差異があり、同じ年の人間でも「タメ語」で話したり、「おいおいお前も飲めや歌えや」と肩を組む関係を築くことは稀ではないのでしょうか。

その意味で、人生で時限的にその形成期間が限られた、「チング」の重要性を認識します。

               ***

ちなみにですが、映画に出てきた、1970年代韓国の高校の壁には「反共」の文字が掛けられていました。他方、北朝鮮の学校に掲げられた金日成の写真はよく目にするものです。半島自体が冷戦構造を体現している地場のなかで、人々がいかにしてその冷戦構造を切り崩し、それを克服する思想を築いてきたのかは、日本の戦後思想を批判的に考える上で、私にとって大変興味深い問題です。
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by akai1127ohi | 2010-02-15 21:03 | Comments(2)

「KT」(日本・韓国、2002年)

「日蔭者」の自衛隊にあきたらず、三島由紀夫に密かな共感を寄せる元自衛隊員の富田(佐藤浩一)が、KCIAと共に金大中拉致(1973)に関わるというもの。

大変興味深い内容ではあるのですが、映画としては焦点を定め損ねており、途中でやや退屈観も感じました。印象に残ったことだけ書きます。

               ***

第一に、飯田橋で拉致された金大中は、移送される際に、意識朦朧の中で「あっちに行けば大津、こっちに行けば京都」という言葉を耳にしたことになっているが、映画によれば、これは高速道路の料金所での道案内だったようです。

第二に、舞鶴あたりでしょうか、韓国の工作船に金大中を乗せるシーンで、佐藤とKCIAの連中はお別れです。佐藤が一人一人に別れのあいさつをいって、金車雲(駐日大使、拉致事件の指揮者)と、猿ぐつわをされて監禁された車内の金大中に、最後のあいさつをします。それが以下。

「金さん、さようなら。そしてもう一人の金さん、さようなら」

               ***

船内で金大中の手足を縛りつけながら、「サメに食われて証拠隠滅だ」というようなことを話すKCIAの工作員を無視して、「私には韓国民のための仕事が残っています、サメに食われても、体半分だけ残して、その仕事をやらせてください」と、キリスト教徒でもある金大中が神に救命を祈るシーンは、さすがと感じます。その声に、KCIAの手も一瞬止まり、次の瞬間、アメリカ政府の意向を受けた自衛隊機の威嚇により、とりあえず海にドボンは免れます。

支持者からもその権力志向を指摘されつつ、「私は政治家で、政治家はの仕事は権力を追求することです」という金大中の言葉も、ある意味でその通りと思わせます。

               ***

それはそうと、金大中のボディガード役で、筒井道隆。日本の俳優は、運命に翻弄される純真な青年(筒井、吉岡秀隆など)はいるももの、運命に逞しく反逆しそ」れを切り拓こうとする肉食男子を好演できる人物が少ないのではないでしょうか。チャン・ドンゴンの「アラソ!アラソ!」がまだ耳に残っている。
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by akai1127ohi | 2010-02-15 20:48 | Comments(0)

「中国新聞」への投稿(没原稿)

 大学進学に伴い広島から上京して10年になる。トップ・ダウンで進められた昨年の東京オリンピック誘致には心踊らなかったが、俄然、広島オリンピックを応援したい気持ちが高まっている。しかし危惧することもある。ここ数年続いている、大規模な都市再開発である。

 地上から人が消えた紙屋町交差点、高層ビル建設が進む広島駅周辺、仁保から宇品にかけての海辺の景観を一変させている高速3号線の建設……。帰省の度に、愛着のあった広島の風景が変化していくのを見て、街開発が車中心、コンクリート中心になっていないかと危惧している。

 都市の利便性の向上は望まれるが、車ではなく人を、コンクリートではなく豊かな自然景観を最大限に守る努力をしてほしい。オリンピックが実現して世界中の人々に広島にきてほしいが、それを契機に、味のある路地裏や街の方々にある小さなお好み焼き屋さんが無くなるとしたら残念だ。私の好きな広島は、オリンピックのために着飾った広島の街ではなく、背伸びをしない、普段通りの広島の街である。広島は、「平和」の理念を再確認するだけでなく、商業主義や都市開発と一体になったオリンピックの根本的転換をも迫ってほしい。
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by akai1127ohi | 2010-02-12 13:12 | Comments(0)

戦後史の関心(1)―安江良介:「かすがい」としての出版人

ノーベル賞理系学者の達成が実のところその研究を可能にする精密な実験器具の製造者 machine builder によって支えられているように、人文系知識人による研究や言論の発表や影響力も、それを可能にする出版人や編集者によって支えられている。

知識人と大衆という認識区分が健在だった時代、出版人・編集者は両者を媒介する不可欠な「かすがい」となっていたといえる。知識人や研究者の側にとって、その研究や言論を広く公表するためには、それを可能にする出版人、編集者を必要とする。一般読者の潜在的な知的渇望は、出版人による開拓と組織化によって知的な市場とされる。

そのような出版人がいなければ、研究者は専門に閉じこもりがちになるし、一般読者の知的関心も発見されたり、組織化されない。両者をつなぐ重要な「かすがい」としての出版人の存在が、両者の結合による大きな可能性を引き出すか否かのカギを握っているといえるかもしれない。

               ***

池明観の自伝、『境界線を越える旅』(岩波書店、2005年)を読むと、韓国の民主化運動と日本との関わりの象徴として、安江良介の志向と活動が回顧されている。

70年代、朴正煕の「十月維新」をへて東京に留学した池明観を受け入れたのは、隅谷三喜男、斉藤真で、後に隅谷は池の活動を深く支援する「後ろ盾」となる。しかし、「石田雄の日本近代思想史講義に出席しながら、韓国思想史の構想を練るという夢は日本滞在数カ月で消えて行ったといえるかもしれない」(p126)。池は、安江と出会うことによって、東京を拠点とした韓国民主化運動へと全面的に関わることになる。

安江にとって『世界』の誌面を韓国民主化に大胆に捧げたのは安江なりの「贖罪意識」だった(日本人による戦後のアジア研究はある種の「知識社会学的」考察が必要だろう)。筆名T・K生も安江の提案で、池によれば、『韓国からの通信』は安江との「共作」というべきものだという。

安江の民主化運動への視点もある種象徴的で、「冷戦構造の最もきびしい最前線」である韓国に、なおも冷戦構造を自分たちで切り崩し、それを克服していく視点を見出そうとしている。安江は1997年にクモ膜下出血で倒れますが、池は病床の安江を訪ね、「大きな声で彼の耳に金大中当選の知らせを伝えた」(p208)とのことである。
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by akai1127ohi | 2010-02-04 02:11 | Comments(0)

「方向」と「程度」

小泉改革以降、その峻別の重要性をひどく認識させられるのが、思想や政策の「方向」と「程度」の峻別のように思える。政治的言語の操作は、思想や政策の「方向性」の表現と、それを実現させるための「程度」の表現との混合だろう。

「改革断行」、「リーダーシップ」、「政治主導」、「ノーといえる日本」、「はっきりYes、はっきりNo」……。これらの標語は、思想や政策の内実には何も触れていない、「程度」の表明である。はっきりファシズムにYesなのか、はっきり反ファシズムにYesなのかは不明なまま、とにかく「はっきり」しています、という主張である。そして、radicalな表現ではっきりと「程度」が示されていることとが、その「程度」でもって向かうべき「ベクトル」の考慮を欠如したところに、危険性があるように思える。「とにかくはっきりしています」主義からの決別と、多少もごもごしていても、「ベクトル」を示している主張の吟味が必要だろう。

               ***

一方の「はっきり」は他方の「はっきり」を誘発する。
思想の内実を無視した、「程度」の激しさの徹底のたどり着く先は、いかなる思想であっても、radicalizationあるいはextremismだろう。radicalization/extremismが一概にいけない訳ではないが、問題は、radicalizationがおしなべて他者への不寛容と暴力へ帰結しやすい点だろう。

そのようなradicalizationには、フーリガンであれ反グローバリゼーションであれ、キリスト教であれイスラム教であれ、政治的営為を「再活性化」させる肯定的な意義は見出しがたいのではないだろうか。
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by akai1127ohi | 2010-02-03 01:56 | Comments(0)
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