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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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手塚治虫、『きりひと賛歌(上・下)』、大都社、1986年

明日、もし私の顔が犬のような様相になったとしたら、あなたは私を差別しないで今まで通り付きあってくれるだろうか。明日、もし私の顔が犬になっていたら、それでもなお人間としての尊厳を失っていなかったとしたら、どうするだろうか。自分の最愛の人が、明日、もし犬の顔になっていたら、私は差別をしないで済むだろうか……。

                ***

真夏の炎天下、私が家庭教師をしている浪人生は、二人とも実にまじめだ。いずれも医学部志望。医学部入試は本当に大変なようだ。彼らに、『きりひと賛歌』を薦めたので、薦めた手前、自分も再読。

学術書に並んでマンガを書評するなんて、という向きもあるかもしれないが、『きりひと賛歌』は手塚のなかの実に名作だと思う。人間の尊厳、差別、偽善、そして差別を超越しうる何か……、実に様々な問題群が織り交ぜられている。ぎりぎりのところで、自分の態度決定を迫られる、稀有な作品だと思う。

前途有望な医者である「きりひと」が、人間としての資格を奪われるように、犬の顔の人間になってこそ、人間の顔をした人間の、実に様々な偽善が否応なく浮き彫りにされる。
たとえば、犬の顔になって、しかし医学の向上のためと説得されて、犬の顔をした女性が数百人の観衆の前で自分の顔を晒すとき、その時、当人の尊厳をぎりぎりのところで保たせるところのものとしては、いったい何が残るだろうか。

犬の顔をした男、人間天ぷらの奇芸の女、殺された母親の太股に凝結する夜露で生き延びる新生児……、偽善を引っ剥がした人間の業が、いく重にも連鎖している。

                ***

今回再読して考えたことは、犬の顔になって差別されている人に、自分が本当に連帯するためには、自分も犬の顔になるしかないのだろうか、どうか、ということ。人間の顔をした人間でいながら、犬の顔になった人間に連帯することは、可能なのだろうか。人間の顔をした人間という多数派に、すぐに引き戻れるままでの連帯というのは、本当のcompassionなのだろうか。

貧乏人を治療するために医者になりたい、社会的弱者を救うために弁護士になりたい、戦争を止めるために政治家になりたい……、それぞれ立派だし、そのような人たちの善意を否定する気はないのだけど、弱い人と本当に連帯するためには、自分も、いかなる逃げ場もなく弱い人の立場に身を固定しなければならないのではないか、という思いもする。とにかく、抜き差しならない問題提起と、読者の態度決定を迫る、名作だと思う。
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by akai1127ohi | 2008-07-29 03:21 | Comments(0)

On Obama’s Berlin Speech

Berlin had been a front between two superpowers at the time of Cold War, and that’s why it was a symbolic place for American presidents, as Kennedy made speech "Ich Bin Ein Berliner" in 1963, and Reagan also left a famous “tear down the wall” speech at the height of the Cold War. (Both are available in listening material:『リーダーの英語』、鶴田知佳子編著)

Being orator seems to be an essential condition in Anglo Saxon politics.
Having listened several famous speeches, I’ve been keenly realized the symbolic and political impact that these good speeches had in the crucial political scene.

The great thing about those orators, is their skill to find a similarity between them and the audience very soon. Wherever they talk, at first they points out a similarity which a speaker and an audience share, and even exaggerate it. This kind of similarity was sometimes made up by emphasizing their common “enemy” such as former Soviet Union. (Somehow unfortunately, so called “good speeches” have been offered by a bit hawkish politicians.)

Another skill is that, when orator speaks in foreign public, they never fail to use some phrases of host country in his/her speech, which no doubt gives the audiences a certain affinity to U.S. president. (Nakasone surely sung a Korean song when he visited Seoul, but he should have done it, not in front of the leader of the junta, but in the face of Korean people.)

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In terms of speech skills or impressive phrases, I found few stuff in Obama’s Berlin speech. It was in a sense like a history lecture in the first half, looking back mainly the trust between U.S and Germany at the time of Soviet blockage and U.S. Air lift to Berlin. But at least I could confirm how liberal and international his diplomatic policy is. He surely acknowledges that there is a limitation about which the U.S. can do in a one country, no matter how powerful and influential it is. Unilateralism that Bush administration has adopted will be obviously modified, and the relationship between the U.S. and Europe will be undoubtedly restored.

In any case, obviously it’s quite rare for a mere president candidate to make speech in Berlin with huge audience. So far, probably Obama is quite likely to be the next president, and at that time, I’m afraid that Japan will have to pay the price of having been one of the most uncritical follower of Bush administration.
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by akai1127ohi | 2008-07-27 01:28 | Comments(0)

「自決死」と難死

小田実、『「難死」の思想』、岩波現代文庫、2008年

小熊英二の解説によって復刊されたので、これを機に再読。
病床から死去までの小田を記録したNHKの番組、「小田実・遺す言葉」もよかった。病床の小田が、アメリカのイラク政策を論じて、「やらないかんことが多すぎで死生観なんて考えてられんよ!」と喝破する言葉など、印象に残っている。

『蟹工船』は労働者が集団として瞬間的に立ち上がるまでを描いている。小田の思想は、個人が個人として持続的に立ち上がり続けることを主張している。『蟹工船』だけでは手落ちで、これと合わせて読まれるべきだろうと思う。

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小熊英二の『<民主>と<愛国>』によると、大江健三郎、小田実、三島由紀夫、石原慎太郎、江藤淳らの世代は、直接の戦争体験や従軍体験を持たない、いわば「遅れてきた青年」であり、戦場での友人たちの死を経験していない。したがって戦死者の意味づけにおいて個人の解釈の余地が生まれる。その解釈次第によって、民主と愛国の共存関係が崩れ、両者へ分岐していくのもこの世代だ。

大江健三郎の「沖縄ノート裁判」で論点となった、曽野綾子『ある神話の背景』における沖縄集団「自決」の位置づけは、「愛国」の方向への分岐をある意味で極端に表しているように思う。

曽野は、沖縄の「集団自決死」を「国に殉じるという美しい心で死んだ人たち」とし、「何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません」として、大江を批判する。

曽野の解釈は、死者の沈黙を良いことに、その死の意味づけに自らのイデオロギーを持ち込んだ、最も独善的な例の一つだろう。むしろ、死者の沈黙の前に、その死の「無意味さ」を、しっかり受け止めるべきなのではないか。「無意味さ」の意味を、執拗に考えるべきではないのか。すくなくとも、死の意味づけにあたって、逡巡すべきぐらいの「恥じらい」を持つべきではないのか。こうも都合よく自らのイデオロギーを混入させる仕業に、義憤を感じる。

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「私が見たのは無意味な死だった。その「公状況」のためには何の役にも立っていない、ただもう死にたくない死にたくないと逃げまわっているうちに黒焦げになってしまった、いわば、虫ケラどもの死であった。」(小田、『「難死」の思想』、p4)

「戦後二十年のあいだ、私はその意味を問いつづけ、その問いかけの上に自分の世界をかたちづくって来たといえる。「難死」に視点を定めたとき、私はようやくさまざまなことが見え、逆に「散華」をも理解できる道を見出せたように思えた。」(同、p6)

「戦後、私はしだいにこの無意味な死のほんとうの意味を発見していった。国家と人びとのあいだに、大義名分と個人の生き方のあいだに、そして、もちろん、天皇とわれわれ一般日本人とのあいだに、あきらかな裂け目を見ることで。」(同、pp194-5)

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死人に口なし、である以上、小田の「難死の思想」も、小田による解釈であるという限界は免れ得ない。ただ、曽野以上に死の「無意味さ」に直面して思索したということは、明らかに言えるだろうと思う。
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by akai1127ohi | 2008-07-18 01:00 | 日本政治思想史 | Comments(0)

夏の暑い日、書庫の中で

夏の暑さのなか、図書館の地下二階で終戦後から1960年までの総合雑誌をしらみつぶしに見返した。これはとても興味深い作業だった。目的探究の過程で、実におもしろい発見もある。しかし書庫の埃もすごくて、マスクを持って行くべきだったと学習する。

日本の「社会科学」において、ウェーバーとマルクスがfashionになる前に、「ラスキ・ブーム」というのがあった。「ラスキ・ブーム」は、終戦直後から始まり、ラスキの死去する1950年ごろまで続く。結局、「ラスキ・ブーム」一過は、小熊英二氏のいう「第一の戦後」とぴったりと符号している。

日本の知識人のラスキ熱は確かにすごいのだけど、同時に、「ラスキ・ブーム」の渦中にあっても、ブームを快しとしない保守的な心性の者たちから、「ラスキ熱は過剰評価だ」という(ある意味でまっとうな)指摘もあったりする。また、1950年にラスキが死去すると、一様に追悼特集や追悼記事が出るのだが、追悼記事をapexとして、ラスキは一気に忘れ去られていく。1951年以後は、手のひらを返したように、ラスキは論壇から、日本の「読書人」から、消え去っていく。

               ***

「世界」創刊号の巻頭論文が安倍能成であるのが象徴的なように、「世界」は元来、戦前の軍部には反対だが同時に反共的で貴族文化を愛好する「オールドリベラリスト」を中心とする雑誌だった。しかし、丸山の「超国家主義の論理と心理」(1946年)を契機に、「世界」は若手中心の論者にシフトして行き、出て行った形の「オールドリベラリスト」たちは、戦後の論壇事情によって微妙に保守化しながら、「中央公論」に足場を移していく。南原繁はむしろ「中央公論」で活躍した人なのだ。

小熊氏の指摘するように、やはり戦争体験の記憶の根強いこの時代は、「世代間」というのは大きな裂け目であると実感する。世代の違いが、新生日本のあるべき方向性への提言の差異へと結びついている。

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同時に、たとえば「世界」と「中央公論」で論客に一定の傾向性はあるのだけど、今の論壇誌のような「棲み分け」はない。「中央公論」に宮本賢治が書くこともあれば、「世界」もオールドリベラリストからマルクス主義者まで幅広い論客が並んでいる。

してみると、今の論壇誌の「棲み分け」はいいことなのだろうか。
「世界」は目次でだいたい予想がつくようなリベラル優等生の公式見解になっているし、「正論」もまた、本当の敵を招き入れないで、対岸の安全な場所から仲間内の気炎を挙げているにすぎない。「前衛」はそもそも党機関誌でscepticismのなかで自分を鍛えようという前提自体が欠如している。(「論座」の休刊は惜しまれる。)かかる論壇誌の「棲み分け」は、意見の組織化という意味では便利なのだけど、ある意味での教条主義に近いものになりはしないか、という危惧が感じられる。しかし何より、かかる「棲み分け」こそ、日本の思想業界におけるダイナミズムの停滞を招いているのではないかと思う。

そこには、意見と意見が競合して、より高次の真理へ到達するメカニズムもないし、より高次の意見がさらにscepticismの渦のなかでさらに鍛えられる道も閉ざされている。意見と意見がぶつかることで思いもよらない有機反応や、新たな応用が生じることが妨げられ、結局、それぞれの雑誌がそれぞれの立場で煮詰まってきているのではないかと思う。このような環境では、「論争」というのは起こらないだろう。

むしろ、理論的な批判を人格的な批判にすげかえて、すぐに感情的対立になってしまう議論風土、まっとうなdebater-shipが未熟な状況では、「論争」は成立しないのかもしれない。持続的な論争が可能になるためには、真理にのみ忠実な真摯な姿勢が必要だし、自説に間違いや説得性の乏しさを感じたらそれを認める心性が必要だ。そして批判者は、相手が自説を修正すれば、その勇気に感服し、それ以上たたみ掛けないことも必要だと思う。
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by akai1127ohi | 2008-07-18 00:23 | 日本政治思想史 | Comments(1)
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