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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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姜尚中、『悩む力』、集英社新書、2008年

読むべき本、書くべきエッセイによって忙殺されているにもかかわらず、readableな本から手にとってしまう……。

帯には「著者初の生き方本」とある。
こういう新書をすぐ購入している自分のミーハーぶりは自覚しているが、NHKで朝5時からの講座番組で、姜尚中「夏目漱石 悩む力」という番組があって、発表準備で徹夜明けの早朝にたまたま遭遇。夏目漱石ほどの作家になると、読む人によって実に様々な解釈があるが、やはり姜先生の「それから」解釈に共感するところがあった。

本書は、「青春」や「青春の悩み」、「まじめ」といった言葉を復権する試みといえよう。

今の若者をとりまく現状は本当に厳しい。
うつや引きこもり、凶悪事件。それらは構造的に引き起こされているのだから、構造的に捉えることが必要だ。だが同時に、構造を正確に認識し、それを変革することは、実際問題として、すぐに一人で出来るものではない。社会を認識する知力と、改革のための組織力は、一朝一夕ではない。今、ここで模索している若者には、即効薬が必要だろう。そこで、あいだみつお的な主観的観念論の絶望的な通俗さ(や有害性)を踏まえた上でなお、一人ですぐにできることは、自分の考え方を見つめ直し、変えていくことだ。

本書で姜先生は、殺伐とした現代に生きる若者への「生き方」のアドヴァイスとして、夏目漱石とウェーバーを口実としながら、その実自己の「悩みの軌跡」を披歴している。そして、若いのに達観したり、小悪人であれ小善人であれとにかくプチになるのではなく、徹底的に悩んでみろ、という。自己陶酔や教訓臭もなく、素直に読めて面白い。
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by akai1127ohi | 2008-05-21 03:48 | Comments(0)

「パッチギ」(2004年・日本)

今さら、という感じだけど、ようやく見ました。「パッチギ」。
何より、映画として面白いと思った。

                        ***

日本人の青年が、ヤンジャと結婚するなら、朝鮮人になれるか、と迫られる場面もある。
在日朝鮮人の葬式で叱責された日本人の青年が、ギターを鴨川に投げ捨てるシーン、あの気持ちは、よくわかる、、。それを覆い返すように、「イムジン河」を歌う日本人の青年の気持も、わかる気がする。「日本人」と「朝鮮人」との間の関係にあるべき正解がないように、この映画にも正解の解釈はないだろうと思う。

それぞれの人は、どうやって自分のアイデンティティを確立していくのだろうか?
やはりこればかりは、他人の批判でどうこうする問題ではない。自分で、自分の人生と、自分に固有の経験を通して、自分で熟慮して決めるしかない。あれこれ批判されるのは構わないけど、最終的に自分で決めなければ何も本当のものにはならない。そして、そのために知ったり考えたりする努力をしなければならない。

黒田福美氏による慰霊碑の問題もそうだけど、自らに抜きがたく刻印された、あるいは他者から抜きがたく刻印された「日本人」という属性を抱えながら、自分がどのように朝鮮やアジアにかかわっていくのか、いかにアジアへの共感を獲得していくのか、自分なりに考えていくしかないと思う。

                        ***

この3月に韓国に行ったときに、板門店を訪れて、そのときにイムジン河を超えた。
川幅の広く、静かで、のどかに映る朝鮮半島の河だ。板門店の緊張のとなりに流れている、本当に大きくてのどかな河だった。

「イムジン河」は私にとっても感動的に響く。この曲が朝鮮半島の人たちにはどのように位置づけられているのかは知らないが、朝鮮半島分断の苦悩の部外者である自分にさえ、その歌が心を揺さぶるものであるとすれば、当の韓国・朝鮮の人たちにとっては、自分には想像の及ばない訴求力を持っているだろうと想像する。
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by akai1127ohi | 2008-05-17 03:38 | Comments(0)

あいさつについて少し

駒場で変化していたことの一つに、守衛さんの「あいさつ」がある。
正門を入る時、いつも必ず、守衛さんが大きな声で「あいさつ」するようになっているのだ。聞くと、大学の上の方からそのような通達があって、そうすることになったそうだ。

私は基本的には社交的な人間だから、あいさつはする。
しかしもし自分が、あいさつをするよう「通達」されたら、口を真一文字に閉じて意地でも開けないと思う。あいさつは強制された途端に、自分にとってはその行為の自発性があいまいになり、他人にとってはそのあいさつが他の誰でもなく自分に向けられたものだという特別な意識が薄れてしまう。

朝には朝のはつらつとしたあいさつが、夜には夜の落ち着いた気持ちのあいさつがある。
親しい者同士の率直なあいさつもあれば、そうでない者どうしが丁寧さによって心理的距離を表すあいさつもある。恫喝の意味あいさえこめた大きな声のあいさつもあれば、機先を制する意味であえて爽やかな演技のあいさつをするときもある。相手の全体が発する雰囲気を察知して、あえて小さな声でするあいさつもある。その雰囲気がとくに甚だしければ、言葉は発さずに軽く会釈だけですますのが適切な場合もある。

場所や時間や相手に応じて多様に変化すべきなのがあいさつであり、その意味で、アプリオリなあいさつの仕方などないのだろう。相手への思いやりをもったあいさつとは、時、所、場所、人など様々な変数が複雑に重なったその瞬間に適合させるようにして見つけ出されなければならない。しかもタイミングよく、瞬時に、そして何より自然に。本当に適切なあいさつとは、特定のその場その時に一回だけ生じるもので、その前もその後も二度とそのあいさつは訪れない。

今、コンビニや飲食店や駒場の正門を支配しているのは、これら人間の繊細な精神の機微を無視した、画一的なあいさつだ。夜だろうが相手が疲れているときだろうがおかまいなしに、大きな声の「あいさつ」が飛んでくる。相手から感じとられる雰囲気にあわせて適切な言葉や様態を選択しようという、あいさつ本来の思いやりは、ここにはない。
(何より、やっている守衛さんたちの労働疎外を招いているのではないかと思う。)

「あいさつ」で大学の雰囲気が良くなっていると思う人の感覚と、私の感覚とはかなりかけ離れているんだろう。中学高校と、他に言うべきことを持たない教師ほど、あいさつあいさつとうるさかった。このような表面的なあいさつを歓迎していては、駒場の雰囲気が、どんどん高校のような幼稚なものになってしまうのではないかと私には思える。

あいさつは、したい人が自発的にすればいい。
したくない人はしなくていいし、させたい人は、まず相手にあわせて自分の思いやりの示し方を考えればいい。そうであってこそあいさつは気持ちよくて、思いやりを確認する手段になるのだろう。画一化、業務化、マニュアル化された「あいさつ」ほど、あいさつが本来持つ美徳を貶めるものはないと思う。
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by akai1127ohi | 2008-05-05 11:16 | Comments(0)
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