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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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井上達夫、『自由論』、岩波書店、2008年

「自由の秩序」という問題設定の上で、その構想を可能にする状況として、国家・市場・共同体のトゥリア-デが提示される。

「必要なのは、国家・市場・共同体という三つの秩序形成装置を並存させて、相互の「抑制と均衡(Check and balance)」を保持するということです。・・・・・・国家の組織的暴力と集権化が孕む脅威に対しては、分散的決定システムとしての市場と分権的秩序としての共同体が保護膜となります。共同体の社会的専制に対しては、国家は人権保障と法の支配の貫徹によって、市場は共同体外での生活機会の提供によって自由を救済します。市場における経済権力の専制や搾取に対しては、国家は独占規制や社会保障によって、共同体は契約とは異質の互酬性原理に基づく相互扶助によって、自由と賃金奴隷になる自由や餓死する自由以上のものへと高めます。」(pp58-9)

かかる国家・市場・共同体のトゥリアーデは、しかし、そのうちの一つが不当に肥大化したとき、専制の危険性をもたらすとされる。国家が肥大化して、中間的な共同体を破壊したり吸収してしまった場合に生じる「全体主義的専制」、経済権力が不当に巨大化して生活を支配する場合の「資本主義的専制」、中間団体の専制や日本の「会社主義」など、共同体が個人を抑圧する場合に生じる「共同体的専制」、を指摘する。よって、国家、市場、共同体の分権的秩序構想は、相互の適切なバランスと抑制がとれたときに、「自由の秩序」の条件となるという。

最後の、(いちおう)仮説的な「場外補講」では、「根本」という人が井上先生に質問する。その内容は、国家・市場・共同体のトゥリアーデは、「自由の保障手段」についての議論であり、それによって保障されるべき自由それ自体については述べていない、したがってまた、国家・市場・共同体の相互的な関係は述べられていても、相互の適切な均衡点が示されていない、というものである。そこから、リベラリズムの基礎には「正義」がある、とする井上先生の正義論、いわば持論を展開する、という内容。

結果的に議論の筋道はよく通っていて、一気に読めた。
最後の神保町のビアホールでの議論という設定では、参加者は仮名ながらも、何となく想像がつく。「快楽的功利主義者」という設定の「伴藤」氏・・・・・・。最近、安藤馨、『統治と功利』が出たなあ。愚問ですが、という感じで発問する姿勢の「麦村」くん・・・・・・。最近会ってないけど、ご活躍のようだ。
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by akai1127ohi | 2008-03-28 14:04 | 政治理論 | Comments(0)

持続的な瞬間—オクスフォード経験記(最終回)

持続的な瞬間 最終回 (エディンバラへの旅・2)

ロンドンからバスでイングランドをずっと北上していくと、だんだんと街の雰囲気が変わってくると感じられる。とくにNew Castleをすぎれば歴然とするが、スコットランドに近づくにつれて、ケルトの雰囲気になって来て、アイルランドのそれに近くなってくる。

エディンバラは、エディンバラ城をようする高台を中心にした街の地形から、「北のアテネ」とも呼ばれている。個人的には、ロンドンよりは確実に、そして本当のアテネよりもさらに美しい街という印象を持った。お茶の水周辺の上質な街の雰囲気が街全体に拡張された感じだ。

A・スミスとD・ヒュームの墓地へ行った。
スミスの墓はロイヤル・マイルのはずれ、Cannongate Kirk Cemestryにある。墓自体は柵で覆われていて中に入れないが、碑文が読める。

The property which every man has in his own labour as it is the original foundation of all other property so it is the most sacred and inviolable.

労働価値説の定式者ということだろうか。
これがスミスの全体像を一言でまとめるのに最適な碑文なのかは大いに疑問だが、オクスフォードに戻ってからこのことをとある友人に話すと、冷戦時代にフリードマンかぶれが彫りきざんだんじゃないですか、との返事だった。

ヒュームの墓はそこから少し離れた、カルトン・ヒルのふもとの墓地にあった。
官吏に「自由の葬式の松明を掲げていろ」と吐き捨ててBotany Bayへと流刑された議会改革者、Thomas Muirの記念塔のすぐ横にある。大きな円柱状の墓だが、訪れる人が多くはなさそうだ。

カルトン・ヒルは小高い丘で、そこからエディンバラの景色とフォース湾が一望できる、とてもpicturesqueな場所だ。National Monumentと呼ばれる、ナポレオン戦争の死者を追悼するためにギリシアのパンテノンを模した巨大な記念碑が建てられている。なぜナポレオン戦争の死者のためになぜパンテノンなのかもよく分からないが、市の予算不足によって建築は中途で断念されたという逸話つきであり、なんとも決まりの悪い建造物だ。しかしすでに建立されたパンテノンの柱は荘厳で、エディンバラの有名な観光名所になっている。

ともに石造りの巨大な建造物ではあるが、ギリシアのパンテノンが南国風の、開放的で、いわば柔らかい美を持っているのに対して、エディンバラのパンテノンは、エディンバラの街並みに特有の褐色の岩石による、直線的でそそり立つ石柱の様相で、冷たく堅い石の肌をじかに感じる。そそり立つ巨大は石柱は、どこか崇高の気配がする。写真を撮るために石柱の台座を飛び降りて、少しあたりの茂みを歩いてモニュメントを振り返ると、石柱のふもとで笑顔を作るyumyumが、せつないほど小さく見える。

最終日、ロンドンへの帰りのバスを待つまで、yumyumと一緒に入ったパブは、本当に素晴らしかった。自分の理想のパブは、騒がしい大通りからひょいと小路に入った穴倉のようなところにあって、内部はなるべく広いほうがよくて、そしていつまでたっても空間認識が掴めないような、複雑な空間のほうがいい。中二階のような曖昧な空間があるとなおいい。床は木でも絨毯でもいい。木の床であれば、革靴と床が響きあう音と感覚を楽しめる。深い絨毯がひいてあるところは、パブ全体に包まれるような気になる。こぎれいに掃除されているよりも、少々汚いほうがいい。パブリカンが「いらっしゃいませ」などと言ったら失格だ。Pubにまつわるジョークに、 ”Lousy food, hot beer, bad hospitality. Welcome!” というのがある。しらみがかった料理も熱いビールもご免だが、ひどい応対bad hospitalityというのはむしろ望ましい。そして何が言いたいかというと、エディンバラでyumyumと最後に入ったパブは、まさにそんなパブだった。

そのパブは、ロイヤル•マイルの中心街からAssembly Hallへ下る途中に、駅までの近道だろうと思って入った、本当に細くて急な坂の小路の中途にあった。パチンコ玉が釘にあたってひょいと思わぬ方向に進路変換するように、僕らはそのパブに転がり込んだというような感じだった。僕らが入った時は店内に誰もいなくて、壮年のしっかりとした男が一人カウンターのなかにいた。急勾配な裏道の一角にある、穴倉のようなパブで、そこに僕らは3時間ほどいたと思う。yumyumはビールをすする合間に、さっきセインズベリーで買ってきた果物やパンを食べていた。その日のタブロイド紙に上級者と初心者むけのスドクがちょうど二つあったので、それを競ってやりあったりした。何という名前のパブだったんだろうか。再びエディンバラに行っても、もう二度と見つけ出せないのではないかと思う。

事件はそれから起こった。
ロンドンに戻る夜行バスの時間は23時30分だ。
さあそろそろバスの時間だよ、ということで、少し上気した気分でそのパブを後にした。エディンバラの街はどっぷりと日が暮れて、褐色の建物に囲まれた急勾配の坂道が、ささやかなランプで照らしだされていた。

僕らはそこを、お互いあれこれエディンバラに別れを告げながら、バス•ステーションへの階段を駆け下りた。パス・ステーションに着くと、乗車場はとても閑散としている。
あれ、バスはどこだろう?
確認のためにと、インターネットからプリント・アウトしたバスのチケットを見て、言葉を失った。

22:30 Depart Edinburgh, St. Andrews Sq Bus Stn
Arrive London, Victoria Coach Station 07:30

乗り遅れた。時間を一時間、間違えていたのだ・・・・・・。
バスは、僕らがパブでスドクに興じているあいだに出てしまっていたのだ・・・・・・。
「信じられない・・・・・・」
yumyumはそう言ってベンチに手をついた・・・・・・。
上気と上機嫌は、一気に困惑と後悔、不安へと変わった。

とりあえずそのバス・ステーションの待合室にいたが、そこは11時半で締め出された。ホテルに泊まろうにも、もう僕らにそんな残り金はない。yumyumと二人での、夜のエディンバラの放浪が始まった。

8月といえども、エディンバラは北海道より北にあるのだ、夜は恐ろしく寒い。
あてもなく、少し郊外のほうまで歩いた。通りから見える家々の明かりが、何とも恋しい。あの明かりの下で、温かく過ごせたら……。そんな思いがよぎりつつ、とある高級住宅に敷設された野外プールに忍び込んで、そのプールサイドのベンチに二人で寄りそったが、それでも寒い。

本当にあてもなくて、また市の中心部にもどった。
こういう状況では、バスに乗り遅れたのはどちらの責任だ、というようなけんかの一つでも起りそうなものだ。が、不思議にも、全然そんな気持ちはなかった。けんかするより、共同で互いの生存権を確保しなければならないという生物的な要請もあったかもしれない。でもそれより、何というか、大げさなものではないにしても、互いに、放っておくのはできない、というような、絶対的な被縛感を感じた。

あまりの寒さと、あまりの「行くところの無さ」に呆然として、再びロイヤル•マイルまで歩いたところで、とにかく舗道に座り込んで呆然とした。近くのホテルの受け付けの小役人風の男と根気づよく交渉して、なんとか10分間だけインターネットを使わせてもらって、とりあえず明日の朝の、ロンドンに戻るための格安バス・チケットだけは予約した。

しばらくして、聖ジャイルズ大聖堂のすぐ近くの、大通りに面した建物の入り口に、階段が2、3段あり少し奥ぞまっている場所があって、そこに二人が腰をおろすとちょうど緊密に納まって、風も比較的防げることがわかった。僕らはそこにすっぽりと納まって、上着を二人の上にかぶせてうずくまっていた。大通りに面しているので、時おり通行人が僕らをのぞいていた。さぞかし僕らは、東南アジアのstreet childrenのようだったろうと思う。

街の中心部なので、2時を過ぎても人通りは絶えない。
僕の疲労もピークに達しようかというとき、一人の黒人の男が、僕らの前を通過して、一旦見えなくなったら、また戻ってきて、僕らに話し掛けた。

何してるんだ?
大丈夫か?泊まるところがないのか?

yum-yumが二言三言、「そうだ」と応えた。
僕の方はというと、その時はもう、疲労によって心も気弱になっていて、全てに保守的になっていた。こんな男と話しても、何も変わらないだろう・・・・・・。

いくつかの会話の往復の後、男は言った。
俺は友人たち5人でいっしょにフラットを借りて住んでいるが、Long Vocationだからそのうち3人が実家に帰っている、だからそのうち一部屋を貸してやるよ、何なら温かいコーヒーとドーナツもあるぜ・・・・・・。
遠慮せずに、来いよ。

あいかわらず僕の気持ちは保守的なままだったが、少し話していると、その男はしっかりした話し振りで、信用してもいいかもしれない人物だということが、どこかしら感じられた。信用性を値踏みするためのいくつかの会話のあと、結局、僕らはその青年の好意に従うことにした。

青年は僕らと同じくらいの年齢で、Edwardといった。
長身馬面、快活で爽やかな男で、まったくもってアメリカ民主党の大統領候補オバマのような男だ。話し方はどこかラップ調の早口で、僕には理解できないところも多い。

歩きながら話して、彼はエディンバラ大学で宗教学を学んでいる学生だということがわかった。近くのパブでアルバイトをしていて、その帰りに、まさに東南アジアのstreet childrenのごとき僕らを見つけて声をかけた次第だ、とのことだった。エディンバラ駅の線路にまたがる大きな陸橋をわたって、駅の北側の地区に入っていった。

エディンバラは夏でも寒いだろ、でも冬はridiculouslyに寒いんだぜ・・・・・・。
ここから先は学生街だ、ただしゲイも多くなるんだけどな、気をつけな!ハハハ。

Edwardは軽快なラップの調子でいろいろ話し掛けてくれた。
おそらく僕らの不安と緊張を解こうとしたのだろう。だが僕は、事の急な展開に、一抹の警戒心も消せないでいたのだが、しかしもう本当に疲れていて、このままどこに連れて行かれるのも、ええいままよという感覚だった。

Edwardに案内されてフラットの建物に入ると、カーペットの敷かれたらせん状の階段をかなり長いあいだ上った。どこまで昇るんだろう、結構昇ったはずだ。薄暗い階段の踊り場が、やはり少し不安にさせる。

ようやくEdwardのフラットに着いてなかに入ると、一転、とても新しくきれいな室内だ。廊下の左右に、5つか6つの部屋があり、僕らはそのうちの一つに案内された。
静かで清潔な部屋だった。フローリングのきれいな長方形の部屋で、奥にカーテンの架かった大きな窓があり、その手前に大きめのベッドが一つあった。手前に小さな机があり、何も入っていないクローゼットがあった。典型的なイギリスの大学生のフラットだ。

Edwardはトイレとキッチンの場所を教えてくれて、自分は明日は昼まで寝るから、朝出て行くならそのままでいいから、といって部屋を出て行った。
僕の心配は杞憂だった。宗教学を学ぶEdwardは、おそらく彼自身が宗教的な人間であって、結論的に、いい奴だった。

ベッドに腰をおろして、僕とyumyumはようやく一息をついた。
思い返してみると、エディンバラのパブでsudokuをして、バスに乗り遅れて、夜のエディンバラの街をさんざん歩き回ったあげく、今こうしてこの静かな部屋に、二人こうしている。
まるで不思議だ。とにかくよかったけど。
見知らぬ街での、この静かな夜と、この小さな部屋で、二人。
そしてこの部屋は、まるで私たちのためのシェルターのようだ。

               ***

朝が来た。
yumyumは、カーテンを開けて声をあげた。
昨晩、かなり長く昇った階段の実相が、このときようやくわかった。カーテンを明けると、真下にはすでに朝の車の往来でにぎわう交差点が見えて、その向こうにエディンバラ駅、さらにそれを超えて遠くにカルトン・ヒルの方面まで、素晴らしい景色が広がっていたのだ。僕とyum-yumは、Edwardにお礼の手紙を書いて、なけなしの2ポンドを添えて机の上におき、しずかにそのフラットを後にした。

バス・ステーションの横のカフェで、朝食を取った。
その後、yumyumは近くで見つけたセインズベリーに買い物に行くといって、僕を一人にした。僕は一人でそのカフェで待っていた。そして、yumyumが戻ってくるまでに、yumyumへ向けて、内緒にしておいたエディンバラの絵葉書を書いた。

朝のバスに乗り込むと、バスのなかでyumyumが買ってきたウェルチを飲んだ。
ウェルチはyumyumのお気に入りで、葡萄ジュース一筋の会社の葡萄ジュースだ。まだ疲れの残る体に、ぶどうの甘味が本当に美味しかった。
yumyumがDelicious!といった。
以前、お茶の水で駿台予備校の英作文の講師が、君たちは美味しいと言うときすぐにdeliciousといいすぎる、コージーコーナーのケーキくらいでdeliciousを使うな!といっていたのを思い出した。しかしこのときのウェルチの味は、いかなる間違いもなく、deliciousというべきものだった。

               ***

エディンバラから戻って三日後、私はオクスフォードを去った。
午前中に二人でuniversity parkを散策して、昼下がりのグロースター・バス・ステーションから、ヒースロー行きのバスに乗った。小さなバス・ステーションから、yum-yumの姿が小さくなって、見えなくなった。

飛行機のなかで、yum-yumがくれた赤い封筒を開けた。
詩が書かれていた。そのとき痛切に感じたことは、なんでもっと優しくしなかったんだろう、わがままや不機嫌さもそのまま受け入れられなかったんだろう、何で、人生の一瞬を、もっと大切にしなかったんだろう、という、後悔の思いだった。

               ***

オクスフォードでの一年間は、学問の上でも人格形成の上でも、私を少なからず変化させ、有形無形、多くのものを残した。一方、私がオクスフォードに残したものは、ボードリアン図書館の膨大な蔵書のいくつかに書き込んだ些細な傍線と、yum-yumの部屋へ向かう小道に残した、いくつかの足跡だけだったかもしれない。
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by akai1127ohi | 2008-03-24 21:22 | 「持続的な瞬間」 | Comments(6)

持続的な瞬間—オクスフォード経験記(その34)

持続的な瞬間 その34 (エディンバラへの旅・1)

自分が本当に何か一つのことに心を奪われてしまって、それに熱中してしまっているとき、無意識のうちに誰かを傷つけてしまうことがある。最後に学期が終わって夏が近づく頃、自分は、そのような経緯で、yum-yumを裏切ってしまった。

昼過ぎから夕暮れにさしかかろうとするクライスト・チャーチ・メドウの長い並木道を歩いるとき、そして、堂々めぐりの会話が、もういい加減煮詰まったとき、yum-yumは私をおいてきぼりにして、一人で歩きはじめた。その後ろ姿は、おそらくどんな呼びかけにも振り向かない、毅然とした意志を示していた。長い並木道のはしを、急ぎ足で、彼女は、ほんとうに一人出歩いていた。

                ***

私は自発的にyum-yumの部屋を出た。
自発的に出なければ、そのすぐ後に、yum-yumの意志の言葉が出てきたことは間違いなかった。

カレッジの自分の部屋は引き払っていたので、yum-yumの部屋を出た後の一週間は、困難極まるものだった。カレッジの娯楽室common roomで寝たり、そこが閉まっているときは、深夜、誰もいなくなった共同キッチンに入り込んで、水まわりの食器をかたずけた台所の上で横になった。空のバス・タブのなかで、身体を折り曲げて寝たときは、むしろ比較的心地よいくらいだった。ベンチで一人、ケバブ•バンの大盛りチップスを夕食にしてがっついている姿は、あまり人には見られたくない光景だが、ちょうど前を通ったXに見つけられ、ohiさんも大変ですね・・・、と、珍しく同情されもした。

しかしイギリスはrespectabilityの国。こんな状況でありながらも、自分は毎日きちんと髭をそって、寝押しでアイロンがけたシャツを着て図書館に通った。図書館書士のおばさんは、目の前の快活な日本人の青年が、昨晩は空のバス・タブのなかで虫のように身体を丸めて寝ていたなどとは、想像だにしなかったろうと思う。

そのような生活が一週間くらい続いた後、見かねたyum-yumが、再び「熊の小道」に入れてくれた。だが、以前の信頼関係を取りもどすには、途方もない時間と誠意が必要だと感じられた。そして、帰国の日取りが迫っていた自分にとって、その誠意を示すための時間は、もとより与えられていなかった。しかしそれでも自分は、限られた時間のなかで、自分の言葉を少しでも実際に近づける努力を払った(つもりだ)。いくつかの経緯の後、最後の旅行と決めていたエディンバラへ、一緒に行くことになった。
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by akai1127ohi | 2008-03-24 21:10 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間—オクスフォード経験記」(その33)

「持続的な瞬間」 その33 (ボールの夜)

“Scout”という単語を英和辞書でひくと、「1《軍》斥候、偵察兵、2《スポーツ・芸能》(新人を捜す)スカウト、3ボーイ〔ガール〕スカウトの一員」、という意味の下に、「4《英》(Oxford大学で学部学生の世話をする)用務員」、という意味が出てくる。

オクスフォードでスカウトと呼ばれる用務員は、毎朝、各学生の部屋を回ってゴミを回収し、トイレを掃除し、時に掃除機で床をすいとったり、Hallで食事を運んだりする。そして、このスカウトは、判で押したようにおしなべてブラウン系すなわちインドやパキスタン系の人がほとんどだった。

朝、スカウトに部屋に入られたくない学生は、夜のうちにゴミ箱を外に出しておくと、スカウトはゴミだけ空にして次の部屋に行く。部屋での同棲は禁じられているが、スカウトに見つかってカレッジにチクられる、ということも多々あるらしい。だが、毎朝、私の部屋に来るスカウトは黒人の老婆で、情にあふれる眼しをしていた。

カレッジという共同体のなかで、教授、学生、スカウトの区分は決定的である。
すなわち、教授は教えつづけ、学生は学びつづけ、スカウトは掃除しつづける。食堂では、ある人たちは食べつづけ、ある人たちは皿を運びつづけ、ある人たちは皿を洗いつづける。教授が食事を運んだりすることが絶対になければ、スカウトがHigh Table(教授のために設けられた、Hallの一段高いテーブル)で食事することも絶対にない。その階層関係は、相互に入替可能性のあるようなものではなくて、いわば「自然」のものと見なされているようだった。

デイヴィドによれば、スカウトの労働条件は過重で、契約の何倍もの部屋の掃除をさせられている、という。またスカウトは、事務方の下級職員から権威的な口調で指示を受ける立場であり、デイヴィッドは、そのような下級役人の心性を批判し、アシスタント・バーサーを「魔女witch」といいきった。

                  ***

5月、トリニティ・ターム(最終学期)の第9週目に、リンカン・カレッジでのBallが近づいてきた。Ballは元々は貴族による豪華なダンス・パーティの意味だが、オックスブリッジでは、年に一回のオールナイトの大パーティを指す。日本の大学では存在しない伝統なので私は初耳だったが、シンガポールなど欧米の影響を強く受ける一部のアジア諸国の大学では、行っているそうだ。

しかしチケットがなんと100ポンド(2万円)という高値なので、私は参加しないつもりでいたが、Ballに付随して、3名の臨時スカウトが募集されることになり、そちらに応募した。ペイは、一晩働いて120ポンド(2万4千円)ということだった。アシスタント•バーサーの女性に会って仕事の内容を聞いたところ、専らトイレ掃除であるとわかった。そして、ときおりコカインの使用後の残余物(どんな有り様で捨てられているのかは想像しかねる)があるから、ビックリしないでくれ、とのことだった。

Ballの当日、夕方にカレッジに行くと、タキシードに着替えた男子学生と、彩色のドレスを着た女学生たちが群れをなしていてまず驚いた。Ball中は、カレッジ内の学生は部屋を追い出され、ボールに参加する学生のみしかカレッジ内に入ることはできない。入場を許可されると、カレッジのなかはいつもの生活空間とは完全に異なっている。

カレッジの三つのクァッド(中庭)には、それぞれ音楽会、ディスコ、ゲーム場が設置され、クァッドの各所にはソファーが設置され、タキシードとドレスの男女学生が、オーケストラの音楽を背景に、カクテルを飲みながら、ゆったりと、時には足を絡ませて座りつつ語らっている。一言でいって、貴族趣味的な享楽の極みで、これがヨーロッパの「贅沢」か、と度肝を抜かれる。

3人の臨時スカウトは、私の他にインド人のジェシ、イギリス人のマイケルだった。ジェシが一番の年長で、40代くらい。二人とも、元来がカレッジのスカウトで、食事を運んでいるのを目にしたことがあった。学生からの応募者は私だけだったのだ。

ジェシの指示のもと、三手に分かれて地面のゴミ等を拾っている最中、巨漢のJunior Deanが、誰かがあそこのトイレでsickになったようだ、はやく行って掃除してくるようにと、私に命令し、処理用のキッドを渡した。sickというのはeuphemismで、実際は吐いたということだ。Deanとは、日本の大学では学部長を意味する肩書きだが、リンカン・カレッジではカレッジの風紀・秩序維持担当の事務職員、平たくいえば生活指導係りであり、Junior Deanとは、大学院生など年季の入った学生が、カレッジ側と連絡をとりつつ、学生生活の規律にあたるという人だ。

日が落ちで夜になると、ディスコの辺りが盛り上がってきた。
その喧噪と享楽のなかを、私は、イギリスの肉体労働者がよく着る黄色い蛍光色のヴェストを着用して、こそこそと這いずりまわってゴミ拾いをしていた。私を見つけて、アメリカからの留学生のテイラーが、How come!?と話しかけてきた。顔表情から、あきらかにそれは「どうしてこんな惨めなことを?」という同情の言葉だったと思う。ちょっと違う方法でだが、Ballを楽しんでいるよ、と見栄を張った。

オクスフォードの伝統のなかで、ある種の「自然」と観念している、教授・学生・スカウトという絶対的な階層性を、私は自らがスカウトの仕事をすることで、攪乱してしまったのではないかと感じた。私に、同情のような感情を寄せてくれる友人たちは、学生がスカウトのような仕事をする必要はないのに、という同情の気持ちと、学生がへたにスカウトの仕事をして、その特権を譲渡する必要はないのに、という困惑の気持ちがあったのではないかとも思えた。また、学生たちとブラウン系のスカウトのあいだで、究極的には、日本から来た自分はどちらにいるのだ、という意識も錯綜していたかもしれない。

ボールも佳境に入る頃、うっすらと雨が降ってきた。
そのなかを、ジョシと私はひたすらにカップを拾いつづけた。リンカンはせまいカレッジだから、顔を挙げれば誰かと目があう。思い過ごしかもしれないが、私の知り合いは一様に誰も、私を見つけると、笑顔で声をかけながらも、かける言葉に窮しているように思えた。なるべく顔を上げないようにして、地面のカップやゴミを拾いつづけた。

夜半、15分くらいの休憩時間が与えられ、用務員室のような部屋でジェシとマイケルとコーヒーを飲んだ。Sickになったのを処理したのは、私がやった一件のみで、ジェシは、今年のBallではさいわいsickの数が少なくて助かる、といった。そして、4人の子供のことなどについて話してくれた。(その後ジョシとは、私が「学生」の立場に戻った後も、親しい関係が続いた。)休憩時間が終わると、僕らは再び、貴族的享楽が同時に排出しているカップや食い散らかしの残存物を黙々と拾い集めた。

こういう仕事だからこそ、誰から差別されている訳でもないが、状況自体が自分にある種の惨めさを喚起させる一瞬がある。こういう仕事だからこそ、自尊心が必要だ。人はいかにして自分を取り戻すのだろう、などと考えてもいた。——明日はyum-yumと街外れのセメストリーを散歩するのだ。その時間にゆっくりと、自分を取り戻せばいい・・・・・・。

フロント・クァッドに集合した赤ら顔の紳士淑女の集団は、Survivors’ Photographsと呼ばれる最後の記念撮影をして、そしてBallは終了した。夜の3時すぎだったと思う。ジョシと一緒に、簡易ディスコ会場に散乱したプラスティック・グラスなどを片付けて、すべての片付けが終わったのは午前4時半頃になっていた。

カレッジの規則で、Ballの日は、朝の8時を過ぎるまでは自室に入れない。
ジョシはタクシーで帰るということで、タクシーが来るまで、私はジェシと一緒にカレッジの前で待っていた。どうやらBallのあいだに一件のけんか騒ぎがあったようで、カレッジの正門の前にはパトカーが止まっていて、一人の泥酔した学生が警察署に連れて行かれるところだった。学生は泥酔の上に錯乱していて、I don’t mean to make trouble…I don’t mean to that!!と泣きながら暴れているのを、数人の警察がパトカーに押さえ込んでいた。

ブロード・ストリートのケバブ・バンでチップスでも買おうかと思っていたが、ちょうど通りの向こうから、こちらも仕事を終えたケバブ・バンの兄ちゃんたちがやってきて、お互い挨拶した。結局、僕は一人になって、ボードリアン図書館の前のベンチに座った、前日にセインズベリーで買っておいたワインのボトルを飲んだ。そして、今日のこと、今までの自分の人生のこと、これからの自分の人生のこと、いろんなことを考えた。

朝の5時すぎだっただろうか。
ベンチの前、ボードリアン図書館とキングスアームに挟まれた、Park roadに朝日が降りてきた。囲む緑に木々に囲まれて、一直線に伸びるpark roadが朝日のなかに浮き上がってきた。それは信じられないくらいに美しい光景だった。
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by akai1127ohi | 2008-03-24 20:58 | Comments(0)

「持続的な瞬間—オクスフォード経験記」(その32)

「持続的な瞬間」 その32 (食事について)

イギリスの食事はまずいといわれるが、自分自身に限ればーー日本での食生活が祖末なせいかーーイギリスでの食事もおいしく食べた。

カレッジでの食事は、6時から始るFirst Hallと、7時半頃から始るSecond Hallの二回ある。Second hallはより荘厳な食事で、ガウンの着用が義務づけられ、食事の始まる前にラテン語の朗読がある。食堂といえども教会のように荘厳な場所で、デイビッドやポールなど友人たちを見つけられなければ、集団のなかで一人で食べるはめになり、何かと精神的に負担が大きい。そうかといって食べないわけにもいかないので、食事の時間は最後まで一番心労の種になった。

オックスブリッジのHallでは、会話をふられてもすぐ話し返せるように、食べ物は小さく切って口にし、口内をいつも軽快にしておかねばならないと聞いたことがある。Hallでの学生の会話の内容は、undergraduateに限れば、聞きとった限り、たいていはエッセイの進み具体、レクチャーについての情報交換、bop(仮装パーティ)の衣装のことなどだった。一度、食事中に自分の右隣にいたアイルランド人学生の会話からgenitalという言葉が耳に入り、何の話をしているんだろうと思うと、今度は自分の左隣の学生が彼らに、そんな話は食事中にはやめろよ、と呼びかけたことがあった。アイルランド人の学生は、嫌なら聞かなければいいだろう、とやり返すと、左の学生は、非自発的に耳に届いてくるinvoluntary listening、などとやりやっていた。要するに、そういう会話をしていることもある。

ケバブ・バン(ファーストフードの車型店舗)にお世話になることも多い。
ポテト(チップス)でも300円ですごい量で、上にチーズやビーンズ(日本でいえば豆の煮物)をかけるなど、食べ方も豊富だ。プラスチックのプレートの上に盛られた、山のようなチップスの上に、チーズをぐいぐいかけて、ビーンズを流し込んで、チキンのフライを載せて、サラミまでかけたりもする。日本でファースト・フードを食べるときは、母親の後見的説諭が思い出されて、どこかで心理的なブレーキがかかるが、イギリスのファースト・フードはそのような後見的抑制を全く欠いた、食の本能がそのままの露わさでプレートの上にぶちまけられている。まあ健康にはあまり良くないと思われるけど、とにかくお腹一杯になる。

ホールに行く気力が湧かないときは、Sainsburyで売っている豆とソーセージとトマトソースの煮物の缶を温めて、それを食パンと一緒に愛食していた。この豆とソーセージの煮物の缶詰は、以後、オクスフォードを連想する味になった。
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by akai1127ohi | 2008-03-24 20:54 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間—オクスフォード経験記」(その31)

「持続的な瞬間」 その31 (日本人留学生Xと私との「実存的問題」)

「近頃は英文学者なんてものになるのは馬鹿らしいような感じがする。何か人のためや国のために出来そうなものだとボンヤリ考えている。こんな人間は外に沢山あるだろう。」 夏目漱石、『漱石書簡集』、(岩波文庫、p94)

                 ***

日ざしの美しい一日、チュートリアルのためのエッセイに苦しみながら、ふとを頭をよぎることがあった。自分がしていることは、ボードリアン図書館に途方もなく山積する書物からその一部分を抜きだして、適当に組み合わせて、適当に自分の意見をつけ加えて、「はいよっ」と無価値な混合物をつくる香具師の手合いではないのか。「ヨコのものをタテにする」という言い方に倣えば、エッセイを書くとは、黄ばんだ紙の上の文字を真白な紙の上に散らかして、並べ替える作業ではないかとも感じた。

英米での政治理論が、純粋にtheoreticalなもので、むしろ倫理学的なモデルの精密さを競っているという印象を強く持つにつれ、このような思いは自分にとって深刻な疑念をつきつけてくるようになった——「問題意識」という名のもとに、過去の概念的作業のなかから、見つけなければそれでいいような問題を見つけ出し、強引にそのひびをこじ開けて、論文を書く。概念のなかから問題を見つけ、概念の上でそれを扱い、概念の上だけの論文を書く。そのような学問のあり方を感じ取るにつき、政治学と現実の政治と関連が見えなくなってきた。

そこで自分を振り返ってみると、自分の場合、いかに幼稚な社会認識であったかとはいえ、おそらく広島ですごした青春時代に参加した活動やそこで感じたことが、原初的なところで、自分が社会科学を勉強したいと思った端緒であり、原動力でもあったのだと理解した。政治思想への関心も、その延長上に見いだしたものだ。

それが自分の勉強の原動力となっている以上、それを離れては自分は勉強を続けられないだろう。そういう自分に固有の、実存的な問題を不問に付したまま勉強を続けても、いつか、勉強の意義を見失うときが来るのではないか。そして、万一それがもはや後戻りのできない人生の段階であったとき、どうするのか・・・・・・。
自分が青春の時間と集中力と少なからぬ金力を費やしてやっていることが、そもそも、現実との連関や、ある種の有用性があるのだろうか、という疑問が頭をもたげてきた。

むしろ、こうも同時代性から逃れられない自分は、黄昏とともに起きて時代精神の認識を提示する梟のごとき学者よりも、むしろ日の明るいうちに、その時代精神に無意識的に突き動かされながら、同時代のなかで無我夢中に、汗をかきながら懸命に生きることのほうに、むしろ価値があるのではないか・・・・・・。そのような自問自答が降ってきた。

                ***

このような問題意識は、日本人の大学院生、Xとの関わりのなかで、(少なくとも私にとっては)深刻な対立となって現れた。

私たちの関係は常に「会話」だったから、私はXについて多くを語るべきではないと思う。ただ私の印象では、Xは、私が今まで出会った同世代のなかで極めて知的で、剃刀のように鋭い男で、同時に一抹の敵意も含んでいたように思う。(一般的に、外国の大学で自分を鍛えた学生と、日本の大学からの交換留学生とのあいだには、微妙な心理的な競合関係があるのかもしれない)。Xから、というより、Xと自分との対立のなかから、自分は実に多くのことを考えさせられた。

政治理論でも思想史でも、同時代性やある種の「政治性」と、実証性やテキストへの沈潜とは、当然、両方大事だろう。しかし問題は、様々な話題や対象を媒介にしながらも、結局、このバランスの取り方に収斂した。

結果的に、自分自身の側で思い直したように、同時代への意識と古典への沈潜が深い所で結びついた研究のあり方が理想だが、前者を欠いた研究は許されても、後者を欠いた研究は、当然ながら、許されない。同時代への意識を欠いた実証研究にはまだ学問的価値があるが、実証性を欠いて同時代への意識だけが突出したものは、固有の価値はあるにしても、学問的価値ではない。

他方で、以上を踏まえた上でなお、同時代や現実への意識を捨象して良しとする学問のあり方には、否定的な姿勢を持たずにはいられない。

学者における同時代性や一定の政治性を伴う発言とは、実証研究で一仕事を築いてから、4、50代になったら始めます、という類のものではないだろう。それまで「非政治的」であった学者が、老境をひかえ突如的に、実は私も今までこの国の未来を憂いていた、というような態度で語りだす「同時代的発言」ほど、凡庸だったり、結局のところ保守的なものになってしまうものはないと思う。何より、同時代的な政治的状況の進展は、自分の年のとり具合とはまったく関係なく進展するではないか。

                 ***

Xは、オクスフォードのなかで私が一番時間を過ごした日本人だが、結局、「政治学者の数だけ政治学は存在する」というmagic wordが、二人のあいだでの大人の知恵だったように思う。それ以後、自分なりに、自分の政治学の勉強の仕方を考え続けていて、そのスタイルを模索している。しかし、勉強の価値をめぐる対立は、人生の価値ともあいまって、自分のみならずXにとっても、抜き差しならない問題だったはずだと信じている。
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by akai1127ohi | 2008-03-21 20:16 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「反社会的人格は矯正不可能」

秋田連続児童殺害事件で、被告に無期懲役の判決が出された。
この事件は、死刑存廃や裁判制度の行方を左右する「格好の例題」として法律家のあいだでも議論があるようだが、被告に極刑を求刑した検察側の、「反社会的人格は矯正不可能」という言葉を前にして、少々pensiveになっている自分の問題意識だけ記録しておきたいと思う。

                ***

家庭のあり方は千差万別で、なかには、家庭のなかで、おぞましいほどの幼児虐待が行われている事例があることも、容易に想像できる。そのような極限的状況に向き合ったり調べたりする「現場」の人たちの立場にたてば、加害者の人間は宿命的に暴力的で反社会的なのではないか、この人とは言語を通して意思疎通することは不可能なのではないか、という思いにとらわれることもあると思う。本当の虐待の現場を想像すれば、強い心を持っていないと、それこそ机上の性善説などはぶっ飛んで、一気に虚無主義や厭世主義に陥るだろうと思う。人間は変わる、ということも事実であれば、本当に人間が変わるということは実に難しい、ということもまた事実だろう。

しかし、人間に対するそのようなペシミスティックな認識を持つことと、「反社会的人格は矯正不可能」と結論づけることには、大きな開きがあるのではないか、とも思う。「反社会的人格は矯正不可能」と断言することは、人間人格や人格形成の自由、ひいては人間主体の自由にたいしての、重要な言明を含んでいないか。また、矯正不可能な反社会的人格を持つとされる人間が本当にいるのなら、そのような人は、社会のなかで、共生の相手として認められるのだろうか。矯正不可能な反社会的人格の持ち主と、われわれはどのような社会を作っていくのか、そもそもそれが可能なのか。

                ***

親が子どもに手を上げる現場を目撃すると、その場その時は、反射的に、当事者の親へ批判を持つ。同時に、少し時をへて内省的に振りかえってみると、虐待の現場を通して、背後にある色々な状況を想像することになる。
女親が折檻していたとき、男親はどこに行ってた?
育児の名のもと、親の個人としての自己実現はどうだった?
子育てにたいする社会や母子施設、福祉施設の手は伸びていたのか?・・・・・・等。

                ***

もう一つ疑問なのは、子どもを殺された両親は、かならず被告の極刑を望むものだろうか、ということ。境遇が意識を規定するなら、まだ子どもを持たない自分に、子どもを殺された両親の気持ちはわからないかもしれないし、実際に子どもを持てば、今の私には到底および知れない境地に達するのかもしれない。

しかし、被告の死刑以外に、子どもを失った親の心を回復へ向かわせる、他の――願わくばより建設的な――方法はないのだろうか、という思いは残る。

量刑厳罰化の流れのなかで、「被害者感情の尊重」といわれるが、遺族が被告に可能な限りの厳罰を望んでいる、という前提が、あまりに自明視されすぎているのではないかとも感じる。それが逆に、遺族たるもの厳罰を望まなければ殺された子どもに示しがつかない、という空気となって遺族を束縛しないかとも危惧する。少なくとも、子どもを殺された遺族両親が、被告の死刑を望まなかったとしても、それは親が子どもを愛していなかったとか、子どもに対する責任を果たしていないとかいうことには、決してならないだろうと思う。
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by akai1127ohi | 2008-03-21 17:22 | Comments(0)

朝鮮史研究会・旗田魏編、『入門 朝鮮の歴史』、三省堂、1986年

本書による朝鮮近代史の描き方には二つの柱が明らかであり、一つは「朝鮮の民族的主体性」の強調、もう一つは日本人の差別意識の歴史的解明、といえよう。

朝鮮の「民族的主体性」は、抗日抵抗運動と内政改革・近代化の二つの領域で叙述される。前者に限れば、その重要なフェイズは、第一に甲午農民戦争(1894)、第二に三・一独立運動(1919)、第三に六・一〇万歳運動(1926)から光州抗日学生運動(1929-30)にかけての朝鮮国内での抵抗運動、そして第四に1930年代以降の満州を中心とした、共産主義者による抗日パルチザン闘争である。

三・一独立運動以後の抗日運動の状況は、基本的に共産主義者と民族主義者による民族統一戦線として構成されていたようだ。六・一〇万歳運動(1926)はその契機であったとみえる。

「六・一〇万歳運動は、全国的運動とはならなかったが、運動の大きな転機となった。このあと、共産主義者たちは、経済闘争を政治闘争へと発展させ、民族主義者と積極的に提携する民族統一戦線の結成をよびかけた。」(p184)。かかる民族統一戦線の運動が様々な独立運動団体の設立をうながし、光州抗日学生運動(1929-30)へとつながって行く。

1920年代後半以降は、満州の間島地方を中心として、共産主義者による抗日パルチザン闘争が進められ、1930年代以降は、これが「日本帝国主義と対峙する朝鮮民族の最大の武装勢力に成長」していく。とくに金日成の率いるゲリラ闘争は、当時の朝鮮国内の支持を多く集めたらしい。

本書においては、1945年の日本の敗戦、朝鮮の光復もまた、このような抗日独立運動の主体的な獲得の成果として位置付けられている。そして、1948年の分断以後も、抗日戦線の記憶が、両国家の体制の歴史的正当性の一部となっていることを示唆している。

「南北両国家の建国理念に共通性があることは、全民族的な姿勢のあり方を物語ることとして注目しなければならない。それぞれのイデオロギーの差異とも関連して、重視するポイントが少しちがってはいるけれども、いずれも抗日民族解放闘争のなかに思想的よりどころを求めている点にかわりはないのである。」pp209-11

                ***

1863 李是応政権―中央集権政策、鎖国政策
1860s後半 開化派の形成―朴珪寿、(のちに金玉均、朴泳考、金充植)
1873 明治六年の政変(日本)
1875 江華島事件(雲揚号事件)
    高宗の親政、ミン妃一族の興隆(ミン妃政権)
1876 開国
    日朝修好条規ー朝鮮の「主権」国家化
1882 アメリカとの通商条約
    壬午軍乱―日本行使花房義質ら逃走、日本に軍備拡張論
    李是応による事態収拾も、ミン妃政権
    急進開化派(金玉均、朴泳考)と穏健開化派(金充植、魚充中)の分裂
1884 清仏戦争
    甲申事変―急進開化派によるクーデター。
    事大主義の解消、政府機構改編、財政軍事改革(金玉均、『甲申目録』)
    清国による攻撃と日本の撤兵によって挫折
1885 福沢、『脱亜論』
1894 甲午農民戦争 反日・反政府運動の性格
    清軍と日本軍の出兵―日本、日清両国による「内政改革」の提案
    日清戦争
    金弘集政権―甲午改革、開化派の流れによる近代化改革
1895 三国干渉―日本の相対的弱体化と、反日運動の激化
    三浦梧楼指揮による、ミン妃暗殺
1904 日露戦争―朝鮮政府は局外中立
1900s後半 反日義兵闘争―朱子学の立場から「衛正斥邪」  
1910 日韓併合、「武断政治」 
1919 三・一独立運動
1926六・一〇万歳運動
1929 光州抗日学生運動
1930s~ 共産主義者による抗日パルチザン闘争(金日成、満州間島地方にて)
1945 光復、日本敗戦
1946 北朝鮮臨時人民委員会(委員長金日成)
    米ソ合同委員会―南北一体の独立政府の構成手続き
1948 アメリカが米ソ合同委員会を決裂
    5月、南のみの単独選挙
    8月、大韓民国成立(李承晩大統領)
    9月、朝鮮民主主義人民共和国成立
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by akai1127ohi | 2008-03-21 17:20 | 日本政治思想史 | Comments(0)

『丸山真男の世界』、みすず書房、1997年

「学者の中で著作の印象と人格の印象とが相互を裏切らない例は決して多くない。丸山先生の場合は著作と人格とが全く合致する稀有な例であったと思う。先生自身学問はそれを担う人格と不可分であるという見解を持っておられた。先生の場合、学者の評価にしても能力や業績の評価とともに人格の評価が相伴っていたと私は見る。そのことは先生が学問の根底にある人格の反映としての思想や信条を重視されたということを意味する。後年先生とお話していた際、先生が深い影響を受けられた田中耕太郎先生のことが話題となり、私が「田中先生の本質は何ですか」とお尋ねしたところ、先生は即座に「デンカー(Denker、思想家)だな」と答えられた。」(三谷太一郎、「わが青春の丸山体験」、本書pp146)

                ***

関東大震災を記録した9歳の丸山の文章、および国内外から寄せられた丸山への追悼文を所収。早熟な子供、エネルギッシュな探究心、経験を観察し記録する習慣、多趣味で人生を楽しむ姿勢・・・・・・「汲めどもつきぬ人物」としての丸山の人物像が浮かび上がる。

(関東大震災を刻銘に記録した丸山が、広島で遭遇した原爆については同種の記録を残していないという点は、やや不思議だ。そのことと、自らを被爆者として名乗ることを「恥じ」る意識とは、関連しているだろうか。)

外国の研究者の視点によって顕在化されてくる丸山の特徴もある。
不思議なのは、日本においては「近代主義者」、「ヨーロッパ中心主義」として批判されてきた丸山を、いく人かの外国の学者が「きわめて日本的な人物」、「審美的・精神的な面では心底から日本人であり続けた」と評していることだ。それは、丸山が、西洋の政治的達成を「普遍的遺産」としつつ、それを引証枠組としながら日本に固有の主題に(批判的に)向き合ってきたという点に関わるだろう。
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by akai1127ohi | 2008-03-18 17:54 | 日本政治思想史 | Comments(0)

駒場、2008年、そして春

自分の目の前に、黎明の駒場の風景が、浮かび上がってくる。
電車を降り、駅を出ると、一号館の時計塔が、新しくなった自分の前に、静かに立っているような気がする。

                ***

丸山回顧談によれば、戦後の東大改革は教養学部の改革でもあった。
法学部を中心とした「本郷帝国主義」からは、駒場は、自分たちだけでどんどん進んでいってしまうという非難の意味あいだろうか、「駒場関東軍」と呼ばれていたという。四方田の自伝にも、二つのキャンパスの間には長らく「蔑視と競争意識の入り混じった確執」があったと述べている。

「駒場がもと第一高等学校であったことから、本郷には駒場を何かにつけ『高校あがりの癖をして』と見下すことがあった。駒場は戦後の新興勢力の強さから、つとめてリベラルで自由闊達な雰囲気を醸成しようとし、本郷の体質の古さを敬遠するところがあった。」(『先生と私』、pp62-3)

                ***

自分にとって、二回目の駒場だ。
一回目の駒場経験から、本郷とイギリスで合計4年の時をへて、少なからず変わった自分を感じる。

初めて駒場に入ったあの頃、無我夢中で泳いでいた海の、全体の海路の様子も、ようやくおぼろげながら見えてきた。あのとき求めていたもののいくつかは、今では求めなくなった。あのとき尊敬していたものうちでいくつかは、今では対峙するようになった。あのとき意識したりライバル視していたものは、今では意識しなくなり、むしろ、各々別の道を歩むにつれて、それぞれの道で、自分の存在を脅かすような新たなライバルに直面するようにもなって、連帯の意識さえ感じるようになった。

親の世代がサルトルやアンガージュマンという言葉についてそうしたように、一・二年生の頃の自分は、デリダや脱構築という言葉を、その内容を理解しないままに諳んじていたりもした。その分、駒場では、学生の側に確固とした芯がなければ、衒学趣味や知的スノビズムに陥る危険もあるのではないかとも承知するようにもなった。

同時に、sour grapeの論理ではなしに、駒場に来ることができ、自分にとって本当によかったと思う。アクチュアルな問題意識を、しぶとく抑制しながらも、それをエネルギーに変えていく仕方でしか、自分は学問を続けられないだろうと思う。

                ***

「ヨーロッパの古いことばに、<都市の空気は自由にする>というものがあった。自由であるということは、必ずしも幸福であるということではない。都市は共同体ではないから、強靭な主体でなければ生きてゆけない。研究する主体にとってほんとうに切実な「問い」の解決のために、どんな既存の学問も旺盛に越境して吸収し統合しようとする欲望の強靭な主体であること。つまり固有の、骨格のたしかな問題意識を持つこと。この問題を禁欲しないこと。近代のアカデミズムの知のシステムに妥協して主題を切り詰めないこと。・・・・・・そのような、よく統御された熱情をもつ主体にとってのみ、既定の専門性という共同体の庇護のないこの新しい都市は、不羈の創造の場となるだろう。」
(見田宗介、「青光 赤光 白光 黒光―相関社会科学という都市」)

これが最後のチャンス。決して早いとはいえない出発点への到達かもしれないが、スタートラインへ立った。自分に固有の問題意識を強く持つこと、まさにそのことによって、左右に大きく広がる足場をつくること。とにかく、時間を計画的に大切に使うこと。何より、努力すること。それを胸中に銘記して、駒場という自由都市の門をくぐりたいと思う。
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by akai1127ohi | 2008-03-06 16:41 | Comments(4)
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