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「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その17)

「持続的な瞬間」 その17 (Bavarian Christmas)

ブリテンにおいてEngland、Wales、Scotlandがそれぞれの文化的アイデンティティを持っているとすれば、ドイツにおいてはババリア(バイエルン)とそれ以外だろう。
ババリアの人たちは独自のアイデンティティを持っており、その首都がミュンヘンだ。ヒトラーはミュンヘン郊外、正確にはオーストリアのドイツ国境の街で生まれた生粋のババリア人であり、そのため、またベルリンが左翼運動の活発な地だったため、ベルリンが嫌いで、第二次大戦の際、連合国にベルリンを破壊させた後、自ら壮大な新都市設計計画を実行しようとしていたと、物の本にある。

デイビッドが、クリスマスは自分の家に来るように誘ってくれていたので、彼とミュンヘンのバス・ステーションでおち合い、ミュンヘンの彼の実家に一泊した後、デイヴィッドの家族と一緒に、クリスマスを過ごすためオーストリア国境付近の彼の祖母の邸宅にご一緒した。

デイビッドの祖母の家は、オーストリアにはものの15分の距離で、街を走る小さな川が両国の自然国境となっている。独襖間の国境には検問も何もない。デイビットの父親が、ドイツでは車のガソリンに環境税がかかるため、ガソリンはオーストリアのガソリン・スタンドで入れてもらいにいくというので、同乗させてもらって、30分だけオーストリアに入国した。車中、「ドイツ人とオーストリア人の決定的違いは何か?」と聞くと、ドイツ人はオーストリア人を笑いものにすることだ、ということだった。

クリスマスの日は、祖母の家にデイビッドの親族らが集まり、小さなパーティとなった。
こんな大切な家族の時間に、私を温かく招き迎え入れてくれたデイビッドとその家族に、本当に感謝した。クリスマスはアウシュビッツで震えながら過ごそうと思ったが、デイビッドのおかげで、ババリアの醍醐味が味わえる楽しいクリスマスになった。

クリスマスの食事が終わった後、食後の団欒の時間には、家族のそれぞれがJokeを披露しあうという流れになった。日本のような俗悪番組をたれ流すテレビのない家庭では、団欒はそれぞれが持ちよるJokeの披露なのだ、なんともinnocentではないか。

しかしこのジョークの解釈もまた難しい。たとえば、デイビッドの父親は、以下のようなジョークを言った。いわく、オーストリア人が両手に藁の入ったバケツを持って、ドイツ国境に来たそうだ。ドイツの役人が、なぜ両手に藁のバケツを持っているのかを聞くと、脳みそが出てきてしまったのでバケツに入れて保管していると返事した、というジョーク。どこが面白いのかわかりかねるが、つまり、オーストリア人の脳みそは藁からなっている、という風刺ジョークらしい。

その他も、オーストリア人を小馬鹿にしたジョークが多かった。だがこれも、ドイツとオーストリアとあいだに深刻な懸案がないからこそだろう。日本人と中国人が同じ感覚で風刺ジョークをいいあったら、ちょっと笑い事だけではすまなくなる、と感じた。

当然、Akaiも何かジョークは無いか、と訪ねられた。
ジョークかどうかわからないが、以前、伊藤塾の伊藤真が言っていた逸話を思い出して、それを言うことにした。いわく、あなたは船の船長だが、その船が沈没しそうになった。船長としてはまず、女性と子どもを最優先に救命ボートに乗せる必要があり、男性にはひとまず船にとどまるように説得しなければならない。さあいかに説得するか?乗客がイギリス人なら、船にとどまればジェントルマンになれますよ、という。乗客がアメリカ人なら、船にとどまればヒーローになれますよ、という。乗客がドイツ人なら、これが決まりですから、という。乗客が日本人なら、みんなそうしてますから、という・・・・・・。どうも笑いのつぼはずれていたようだが、まあ、そこそこに好評だった。

デイビッドの祖母の家には、結局3泊くらいさせてもらったと思う。
デイビッドと年が明けてのオクスフォードでの再会を約し、ミュンヘンを去りベルリンへ向かった。ドイツ人は、総じて清潔で合理的で、住みやすい国と感じた。日本では、情報はすべて英語ベースで入ってくるので、豊かな生活といえばすぐアメリカをイメージする習慣があるが、実のところ、ドイツ人は実質的に豊かな暮らしをしていると感じられた。
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by akai1127ohi | 2007-10-15 16:28 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その16)

「持続的な瞬間」 その16 (冬のプラハ)

クラコウからプラハに行く夜行電車のコンパートメントで、数人のオーストラリア人の集団にからまれた。危害を加えられたわけではないが、彼らも旅行者で、とにかく泥酔していて、あれこれと野蛮にからんでくるわけだ。若干ひるみながらも、動じない態度を貫いていると、泥酔者のうち比較的まともな一人が、そうはいっても酔っ払った口調で、Japanese are very silent peopleなどといいながら、他の泥酔者を制して彼らのコンパートメントへ戻っていった。いやはや・・・・・・。

プラハ中央駅についたのは早朝。
駅でソーセージを食べた。後から考えるとこれが良くなかった。ソーセージはきわめて
Oilyで重く、疲労困憊の身体には強すぎた。駅を出ると、明らかに悪寒を感じた。

午前10時くらいだろうか、ようやくホステルについて、案内された10人部屋に入ると、突然異様な臭いがする。昼なのにカーテンを締め切った10人部屋には、数人の男が半裸で熟睡していて、異様なむさくるしさだ。そして寝ている彼らをよく見ると、昨晩、夜行列車でからんできたオーストラリア人ではないか。あちゃー、この部屋にはいたくないなー、ましてこんな体調なのに・・・・・・。
管理人にかけあって、部屋を変えてもらった。今度も10人部屋だが、幸い自分ひとりだった。体はいよいよ悪寒と高熱を発し、その部屋の洗面所で噴水のように2回嘔吐して、二日間の集中睡眠となった。

二日後に体調も回復して、まずはじめに旧市街へ向かった。
クラコウの駅でホームレスに話しかけられたとき、彼の口から何か特殊な酒気がしたのを覚えていた。甘ずっぱく吸いつけられるような、かといって深追いすると酸気っぽい・・・・・・、日本では感じたことのない酒気だ。プラハの旧市街広場のクリスマス・マーケットを歩いているとき、あの酒気は、東欧のクリスマスの季節酒Mulled Wineのものだとようやく察知した。赤ワインに薬草と砂糖をまぜて熱した、本当に体が温まる飲み物だ。一杯150円程度だったので、旧市街広場を通るたびに一杯飲んでしまった。

旧市街広場の中心には、ボヘミアの宗教改革者ヤン・フスの銅像がそびえている。
フス像の前で、アメリカ人らしき観光客グループが、この悲劇の異端者の前にあるまじき陽気なポーズで騒ぎ、写真をとっていた。彼らに話しかけて、この像が誰かご存知ですか?とたずねると、両手を広げて「知らない」のポーズ――なんと。この人こそボヘミアのフス、改革の先駆者にして異端中の異端、ヤン・フスだぞ!―――、と心のなかで告げた。ちなみにオクスフォードは、宗教改革の先達としてフスに大きな影響を与えたウィクリフが教鞭をとっていたところだ。その意味では、宗教改革伝播のfoot stepを辿っていると、いえなくもない。

はじめのホステルに二泊したのち、より市の中心部にある別のホステルに移った。
同じ値段なのに簡単な朝食もついてきて助かった。そのホステルのラウンジで、カナダ系中国人のEchoと、韓国人のMicaと知り合いになった。Echoは僕より若干年上の女性で、黒い革製品に身をまとい、とても流暢な英語を話した。いかにもself-made womanという感じで、ある種の強さを感じる人だった。Micaは僕とほぼ同じ年らしく、ドイツに留学していて、そのクリスマス休暇でチェコを旅しているとのことだった。結局、二日間、チャールズ・ブリッジ、プラハ城など、三人でプラハの街を歩き回った。

旧市街広場の一角にアイリッシュ・パブがあり、夜、三人でそこに行った。
僕は新宿のアイリッシュ・パブでバイトしていたことがあるから分かるが、ここで出すキルケニーは明らかに偽物だった。何かしらのラガーと混ぜているのだ。だからといって怒るわけでもなく、話のたねとしてカウンター越しにバーテンにそっと尋ねて見た。バーテンはいちおう否定したが、そのことをアイリッシュに言わないでくれよ、ぶっ殺されるからね、といって、自分の人差し指で頭を撃ちぬかれる真似をしていた。それから、フットボールの試合を見ながら、三人であれこれだらだらとゆったりしていた。これがアイリッシュ・パブの楽しみ方たと思う。

パブを出ると、偽物キルケニーによって少し火照った体のせいで、真冬の寒気がとても気持ちよく感じられた。三人で、少し旧市街広場をあれこれ探索し、通りがかりの人に頼んで、市庁舎をバックに三人で写真をとってもらった。「私はいつも一人で旅行しているから、私が撮る写真はいつも私が映っていないの」、とEchoはいった。エディンバラは新婚旅行にとてもいい場所だと聞いたから、エディンバラに行くのはまだとっておいている、とも言っていた。オクスフォードの留学生たちも含め、一人で生きていく、力強い女性たちに何人も会った。振り切って、力強く生きていく人たち。Echoもそんな一人だった。
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by akai1127ohi | 2007-10-15 16:20 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その15)

「持続的な瞬間」 その15 (ワルシャワからクラコウへ)

ワルシャワの空港に降り立つとすでに夜で、期待通りに、吹雪だった。
なんとかバスに乗って市中心部まで来る。ワルシャワ中央駅で降りると、吹雪の暗闇に輝く、とてつもなく高いタワーが目に入り、まず度肝を抜かれた。195?年に、モスクワ大学の建築様式を模して、スターリンによって建てられた、権威的な社会主義建築のヨシフ・スターリン記念文化科学宮殿だ。今では正式には「ヨシフ・スターリン記念」という名称がとれて文化科学宮殿とよばれているが、モスクワ市民のあいだでは通称Gift from Stalinと呼ばれていて、冷戦時代を思い出させるということで評判の悪い建物だ。スターリン様式の超権威主義的な巨大タワーの上に、現在ではラスベガスのような派手なネオンが輝いていて、独得の迫力をかもし出している。高さは優にビッグ・ベンの10倍はあろうかという代物。このような偉大な建築物を可能にするgreat central power for the mobilization of labourを想起すると、こんな偉大なシロモノを作り出す国に生れなくて本当によかったと思う。

インターネットで予約したホステルは、Gift from Stalinにほど近いが、対照的に裏寂れた一角にあった。駿台の予備校生だった頃に、友達と忍びこんだお茶の水の文化学院を彷彿させる、暗くて冷たい石造りの建物だ。一回のブザーで名前を告げて、寒々しい階段を上っていくと、大きな扉に小さな字で「Hostel Zielone Mazowsze」と書いてあった。しかし外の吹雪と対照的に、中はとても暖かく、壁には何やら前衛的な壁画が描かれていて、まだプラハには辿りついてないのに早くもボヘミアンな雰囲気だ。結果的に、このホステルはとても自由な雰囲気で、旅行者とも管理人とも親しくなりよかった。

翌日もみぞれまじりの天気だった。
街の北側にある、ワルシャワのユダヤ人ゲットー碑を訪ねた。ここは第二次大戦中、ヨーロッパ最大のユダヤ人ゲットーがあった場所で、1970年の冬に当時のヴィリー・ブラント西ドイツ大統領が跪いて、独ポーランドの関係の和解を求める象徴的行為を行なった場所でもある。

明治以来、西洋から多くの制度や思想を輸入してきた日本で、明らかに輸入しなかったものの一つは、ユダヤ人への差別意識であるといわれる。したがって、私にとっても、ヨーロッパ社会の歴史のなかで連綿と伏在するユダヤ人をめぐり歴史は、それを内側から理解するのに難しいところがある。想像力でもってゲットーの様子に思いをいたすにとどまった。

中心部にもどり、大通りに面したマクドナルドの二階から、小雨に降られるワルシャワの街並みを眺めていた。ワルシャワは第二次大戦の際に集中的な空襲をうけ、多くが壊滅した。終戦後、「建物のひび」にいたるまで再建されたといわれるが、やはり街の雰囲気は、中世から連綿と続くヨーロッパ都市の面持ちよりも、社会主義時代の建築によって全体的に基調づけられた近代都市という印象だ。現在では、街の各所に残る社会主義国特有の直角的建築と、おそらく冷戦終結後に押し寄せてきた、イギリスよりもけばけばしい西側ファーストフードの看板などが不調和に混在している様子だ。だが個人的には、その不調和を好きになった。滞在中に、バスの無賃乗車で捕まって、変な私服警官と罰金をめぐって大立ち回りを演じるということもあった。が、最終的にワルシャワは、私にとってはとても魅力的な都市に見えた。

年も押し迫る12月の夕方、ワルシャワの中央バス・ステーションは、雑踏で大変混雑していた。私は、夜行バスで、ワルシャワからポーランド第二の都市クラコウへ向かうことにした。ワルシャワ市民の帰宅時間と重なった夕方の混雑ぶりから、時がたつにつれて、中央バス・ステーションは人影少なく、寂しくなってきた。クラコウ行きの夜行バスが出る夜の時間帯になると、広いバス停車場に、ぽつりぽつりとヘッド・ライトのついた数台のバスが残るのみになった。

バス・ステーションのなかの安い食堂で、パンに薄いハムがはさまれただけの巨大なサンドイッチと、ジョッキのビールを飲んでパスの出発を待った。バスが出たのはすでに深夜だった。乗客はほとんどがポーランド人と見えて、旅の感傷のせいだろうか、こんな格安夜行バスで移動するだけあって、それぞれに事情を伴う人生を送っている人たちのように見えてしょうがなかった。乗客が寝静まった深夜、カーテンのすき間から窓の外を見ると、夜の赤い街灯ランプに照らされた道路と、その向こうに東欧の山々のなだらかで寒々しい裾野が見える。バスは今どの辺りを走っているのだろうか・・・・・・。もう、すべてを任せるしかない。

バスがクラコウのKracow Central Stationについたのは、黎明、朝4時半。
まだ暗いうちで、降ろされたところは高架橋の下のような場所で、屋内に入れる場所もなく、実に死ぬかと思った。が、幸い駅の待合室を見つけ、そこで朝をむかえた。

ポーランドにおけるワルシャワとクラコウの関係は、日本の東京と京都に等しいと思う。
クラコウは17世紀頃までポーランドの首都で、ポーランドが1772年からの三度にわたる分割により19世紀中は地図上から消えていたあいだも、比較的高い自治権を認められていたとある。ポーランド史の最盛期は15世紀のヤゲロー朝Yagiellonian dynastyで、ポーランドの最高学府は今でもワルシャワ大学ではなくクラコウのヤゲロー大学だ。ヤゲロー大学を見学にいくと、ちょうどSolidarity運動に関するシンポジウムの掲示が出ていた。ワレサらによるSolidarity運動は1980年12月に端を発するから、今年(2005年)はちょうど25周年記念なのだ。また、クラコウは前教皇ヨハネ・パウロ2世の出生地(の近く)でもあり、みやげ物屋にはかならずヨハネ・パウロ2世のポスト・カードやらキーホルダー(と、教皇つながりというだけでなぜかドイツ人の現教皇ベネディクト16世のもの)があった。

それにしても、自分とポーランドとの接点らしきものがあるとすれば、自分の通った広島のしがない公立高校の世界史授業で、ロシア帝国のついでにひょっこり表れたヤゲロー朝なる王朝名を教科書で読んで、けったいな名前だなと思ったのが最初で、その首都に今自分がいると思うと、奇遇を感じる。

クラコウのOld Townは本当にきれいだった。
ワルシャワと完全に異なり、中世の色合いを濃く残しているように思える。ヴェネツイアのように複雑に入り組んだ路地と、東欧特有の整然かつ直線的、純立法的な建物が融合し、街角から通りに出るたびに、街の中心部、Market Squareの巨大な鐘楼が目に入る。ヨーロッパにおける都市美観の判断基準としてヴェネツィアを措定することに意義はないが、さありながらも、東欧をめぐることによってヴェネツィア自体の美しさが相対化されていくように感じた。

ポーランドの通貨はズロッティといって、物価は私の感覚では日本よりも安い。
ワルシャワ-クラコウの夜行バス代が54Z(約2500円)、クラコウのHostel代が一晩30Z(約1350円)、ビールは日本のものより濃厚で深い味わい、アルコール度は10~13%と高いものもある。ロング缶で一つ230Z(約120円程度)。旅行中の食生活はつましく、スーパーで買った大きなパンに、オイル・サーディンをはさんで、ビールで流しこむというもの。
しかし一日歩いて疲れきっているから、これがとても美味しく感じた。

それにしても冬のクラコウはとにかく寒い。
寒さをしのぐために小さな映画館に入って、「Love me, Love my dog(私を愛すなら、犬まで愛して)」という、どこにでもありそうなアメリカ映画を見た。バツイチどうしの中年男女が、飼い犬を媒介にして不器用にも惹かれあっていくという、なんともお気楽なLove Comedyだ。観客なんてほんの数人だ。そして、真冬のクラコウで、どういう因果か、くだらないアメリカ映画を見ている日本人の自分に、少し可笑しみを感じた。
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by akai1127ohi | 2007-10-15 16:13 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その14)

「持続的な瞬間」 その14 (Make it back in one piece.)

ポールと初めて話したのは、10月の末頃だったと思う。
ポールは法学の学生Lawyerだが、驚くほど紳士的な物腰で、これがイギリス紳士かと思わせる男だった。

ポールの話す英語はウィットに富む表現で、私の知らない表現も多かったが、それらを後で英和辞書で調べると、たびたび、イギリス英語特有を示す〔英〕の注記がついていた。ドアにさしかかると―アメリカ人はたいていgo aheadというところ―必ずいつも
”after you”と先んじ、別れ際には最後の”take care”を絶対に譲らなかった。ドゥオーキンがオクスフォードに来たときは、ちくいち参加申込の仕方を教えてくれ、荘厳なホールで私が食事の相手を見つけられないときは、「向こうは若い連中が多すぎる」といってわざわざ席を移動して来てくれた。オクスフォードにいた全期間を通じて、本当にポールには助けられた。

ポールに、自分がクリスマス休暇に計画している東欧旅行のことについて話すと、真冬のアウシュビッツで身震いshiveringする前に、ロンドンの自分の家に泊まって行ったらどうだ?と招待してくれた。それで、12月、ワルシャワに旅行する前日、ロンドンのポールの実家に泊まらせてもらった。

ヴィクトリア駅からウェストミンスターにむかう行政地区も、大通りから少しなかに入ると、若干の住宅街がある。ポールの家はその一等地のマンションの一室で、十数年前には、近くでIRAの爆破テロがあったという、そのくらいロンドンの中枢の場所だった。室内に案内されると、マンションなのにとても広く、広いラウンジとそれぞれの個室、そしてバスが3つもある。一等地の住宅ということを割り引いても、あらためて日本の住宅事情の貧困さを感じる。

夜、街中に演劇を見にでかけたポールの妹をむかえに行くついでに、ポールとその両親が、私を夜のロンドン・ドライブに連れて行ってくれた。ロンドン・ブリッジやロンドン塔、
St Paul寺院など、主な観光スポットをドライブしてくれた。ポールの父親が運転して、助手席に私、後部座席にポールとその母、妹という布陣だったのだが、その際、車を運転しながら後部座席の妻や子どもからあれやこれやと指示を受け、ある意味ドレイのようにハンドルやヒーター、送風機能などのつまみを操作するポールの父親の姿が印象的だった。

ポールの父親は、後部座席からのあれこれの注文に、呆れたように”Okey-dokey”といいつつ実行し、ときに私のほうをふり向いて、”I have many noisy back seat drivers!”と柔和に笑っているのだった。Davidの家庭の観察もふくめ、私の個人的印象では、ヨーロッパの家庭内における父親の地位は日本よりいわゆるliberalで、時に日本でいう「父親の威厳」という観念を離れていると思われた。
(back seat driversは、あれこれやかましく指示する後部座席の同乗者、okay-dokeyは俗語でokの強調。ちなみに私には日本後の「ときどき」に聞こえてしょうがなかった)”

翌日、小雨のなか、ポールがロンドンの街を案内してくれた。
West Kensingtonの周辺やImperial college、アルバート公博物館や自然史博物館の界隈を歩いた。ハイド・パークのスピーカーズ・コーナーにもこのとき初めていった。
スピーカーズ・コーナーは、市井の人々が、イギリス王室を批判する以外は何につけても自由に演説できる場所で、イギリスのカッコつき言論の自由を象徴する場所だ。

その日は小雨だったせいか、スピーカーズ・コーナの周辺には誰もいなかった。
しかしせっかくここに来たのなら、何か記念に一席ぶっておきたい。雄弁家Oratorが立つ円柱の前に歩み寄りながら、適当にLibertyだとか何とかbig wordsを並べれば演説ぽくなるだろうか、と思案していたが、ちょうど一つ、ある演説が思い出された。オスカー・ワイルド原作、ヴィクトリアン朝末期のイギリス社交界を舞台に、青年政治家チルターンの公私を描くイギリス映画「An Ideal Husband」(邦題:「理想の結婚」)のなかのワン・シーンだ。

将来を嘱託された、理想主義的な青年政治家チルターンだが、実は政界進出の際に小さな汚職に関わったことがある。いよいよ頭角を示さんとするときに、海千山千のある投資家が、チルターンの昔の汚職の事実をもとにして、アルジェンチンでの運河の建設を推進する議会演説をするようチルターンを脅迫する。チルターンは脅迫と自分の政治理想とのあいだで悩み、夫を清廉潔白な正義の政治家と信じていた妻との仲も壊れかける。あれやこれやで、クライマックスは、チルターンの下院演説のシーン。投資家、チルターンの年来の友人やグラッドストーン(風の首相)、そして妻などが見守るなか、チルターンはおもむろに運河建設を支持する発言をはじめる。

This is indeed an extreme scheme. A genuine opportunity.

古くから支持者は天を仰ぎ、妻はじっと目をつぶる。
一瞬の間をおくと、しかしチルターンは、ややうつむいてつぶやくように続ける。

Genuine opportunity……particularly if you happen to be a corrupted investor…..
(絶好の機会だ・・・・・・、とりわけもしあなたが腐敗した投資家なら・・・・・・。)

議場がシーンとなって、おや?という雰囲気。
チルターン、今度は大きく自信を持った声で、こう宣言する。

Corrupted investor with nothing but self-interest at heart!
(自分の私益以外、なにも胸中に存しない腐敗した投資家ならなおさらだ!)

議場はようやくチルターンが何を言いたいのか察知し、議員や聴衆は喝采や怒号の混乱に。チルターンの昔からの支持者はステッキで床を叩いて「Hear, hear(そうだ、そうだ)」の声をあげ、かつらをかぶった議長が「order! order(静粛に!)」というも、興奮した議院や聴衆の声は鳴りやまず。そのなか、チルターンが、この運河建設がいかにブリテンの国益に反し、商業道徳の伝統を傷つけるか、などを汗を飛ばしながらまくしたてる。

This great nation has long been a great commercial power. Now it seems it exists a growing compulsion to use that power merely to get more power, money to merely get more money, irrespective of the true cost this country has to pay......
Now is one honest chance to shed our sometimes infamous past, chance to start again, to step unshackled into the next century, and to look our future squarely and proudly, in the face......

スピーカーズ・コーナーでチルターンの演説の一部を真似すると、蜂の巣をつついたようなウェストミンスターの大喝采・・・・・・の代わりに、小雨のなか立っているポールが苦笑とともにパチパチと拍手してくれた。

ポールは、ハイド・パークの街灯の由来、アルバート公の悪い冗談、切り裂きジャックのことなどをあれこれ説明してくれたが、話が真冬の東欧におよぶと、Make it back in one
piece!といった。どういう意味かと確かめると、なるほど、一つながりone pieceで、つまりバラバラseveral piecesではなくて、戻ってくるようにという意味だそうだ。

――――――――――――

旅とは、自分が今まで持っていた住居と親しい人間関係を離れるということだ。
ひとたび定住の地を離れると、道中の人々の気まぐれな優しさに左右される不安定な存在にならざるをえない。旅とは自分をそういう状況に置くものだ。そこでは、旅人は、道中の人が差し出す親切心や、義務以上の徳行supererogationのなすがままといえる。道中の人々にとって、旅人に食事と宿泊を提供する義務はいささかもない――ないどころか、むしろ彼自身の住居と係累をあえて断ち切って出てきた旅人の無謀を責めることさえできる。

そうであるのにもかかわらず、旅人にsupererogationを提供する人は、旅人にとって強い印象とともに記憶される。そしてポールのように、このsupererogationを、旅人の気を使わせずに非常にきれいな仕草で提供することのできる人は、紳士だと思った。そして私も、いつか自らの定住的住居を持った、定住的人間となった際は、旅人にかかる紳士を実践しようと決めた。
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by akai1127ohi | 2007-10-11 20:34 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

ダンテまで行けば、楽になる・・・。

先月、政治思想史の通史をいくつか読んでいた。
どの通史を読んでも、トマスまではややしんどい・・・。ダンテまで行けば少し楽なる…。

通史特有の意義とは何だろうか。
おそらく、個々の思想家に関する専門論文をchronologicalに並べれば、膨大であるがしかし包括的な「通史」となるだろう。しかし、半沢考麿氏のいうとおり、「詳細図をつなぎ合わせても俯瞰図はできない」。一人(あるいは共通了解の下での少数者)によって叙述される通史には、特有の意義があるのだろう。福田は、通史を書き下す決意に、南原の『政治理論史』と内田義彦の『経済学史講義』の影響をあげているが、経済学史のあり方と、叙述方法にも興味がわくところだ。

通史の利点の一つは、ある設定された基準に基づいて、一つの概念や言葉の変遷を歴史的に捉えられるということだろうと思う。たとえば、現在における最も支配的な政治原理がリベラル・デモクラシーであるとすれば、ありうる政治学史の通史叙述は、古典古代からの政治思想がいかにリベラル・デモクラシーの構築に変容、接近、貢献してきたか、という「基準」であろう。他方、南原の『政治理論史』は、「民族共同体」という南原政治哲学の主旋律とは対照的に――あるいはそれであるからこそ一層――むしろその前提としての個人の自律、思想における自我の位置づけ、個人主義的視点の生成という基準が重視されているように思われた。

他方、福田の『政治学史』叙述の主旋律は、政治生活の枠組、政治社会の単位の変遷である。大雑把にまとめれば、polis、civitasからキリスト教的普遍世界へ、マキャベリのstatoから領域国家・地域国家・主権国家へ、絶対主義国家から国民国家nation-stateへ、という政治単位の変遷と、思想との関係である。福田のかかる問題意識は、現在、私たちの政治社会の「自明の前提」として観念されている国民国家を、歴史的に相対化しようとする実践的意図から来るものといえるだろう。

「そもそも国民国家の母胎であったヨーロッパにおいて、地域統合の歩みが最も着実に進む一方、個人のidentityへの問いが、国家の枠組を内側からゆさぶる状況があり、他方、いうまでもなく、核時代において主権の観念が根本から問われ、人類が直接政治的思考の単位、政治社会の枠組の変遷を問題にし、近代国家の歴史的相対性に注目して来たのは、単にそれが日本人の実感を反省する上に必要と考えたからばかりではなく、まさに現代における政治認識を、19世紀的前提から解放するためにほかならなかった。」(p507)

かかる問題意識から、政治的権力のultima ratioである暴力的契機が、近代の国民国家においては著しい排他性をもって国家に独占されている事実と、その正当化の原理が着目される。福田の社会契約説に関する仕事も、このような文脈のなかにあるものと思われる。

①福田歓一、『政治学史』、東京大学出版、1985

「政治学史」講座ではこの本にお世話になった。だけど実は、この通史は、私にとってはやや読みずらい印象がある。元来、講義録を基にしたものだから、なんというか、やや口語調で、わかりにくいところもあるのだ。

福田の『政治学史』において存在する基準は、全編を通しての国家という枠組の変遷変とともに、近代における「人間の哲学」という流れだ。カントの扱いにそれが現われている。
第9章「ドイツ哲学と国民国家」において、フィヒテ、ロマン主義、ヘーゲルがあつかわれている。他方、カントは、第8章「近代政治原理の転化過程」において、ルソー、英国急進主義とバーク、功利主義と並んで叙述されている。通読していて、ベンサムのあとにいきなりカントが来るというのは若干不自然かと思われた。しかし第9章のはじめに、福田はこう断っている。

「ここで敢えてカントを前章に組み入れてフィヒテから説き起こすのは・・・・・・、フィヒテ以後の哲学に『人間の哲学』としての伝統を離れるものがあり、とりわけその政治理論において、大きくカントと異なるからにほかならない。」(p474)

②南原繁、『政治理論史』、1962、東京大学出版会

自分にとっては南原は、自分との連続性が観念できない「過去の人」だ。その意味で、歴史的かつ相対的なものとして読めた。

例えばロックについての評価が厳しい。南原はロックの「外面的悟性国家」の限界を批判する。

「国家権力は各個人が自然状態に持っていた自然的執行のための権力の総和以上のものでないかぎり、依然、原子論的機械論的国家以のものではなかった.この点において、ロックの自由国家はホッブスの絶対主義国家と構成をまったく異にするけれども、同じくなお人工的な一個の制作と称することが出来るであろう。それは個人の道徳的価値の基礎付けではありえても、一般に人間の政治社会的関係それ自体の究明ではなかった。自由主義が一つの政治原理としての根本の限界は、ここに存するといわなければならぬ。そのことは、自由主義その後の発展の歴史において、その理論的根拠をロックのごとき自然法から功利主義、さらに理想主義哲学に置き換えるにいたっても、変わりはなく、一般に個人主義原理の限界である。」(南原、『政治理論史』、pp224-5)

南原は、「政治原理としての自由主義」につき、「人間人格の尊厳と自由の価値」、「自己完結的ないし自己決定的な個人の観念」の樹立へむけたその意義を評価しつつも、その「歴史的使命」は終わったものとする。そしてその止揚を、ルソーからドイツ理想主義哲学にかけた「国家哲学」に求めるようになる。この点が、やはり一抹の「違和感」が感じられる。

南原の『政治理論史』を読んで、思い出したのが丸山の学部生時代の論文「政治学における国家の概念」の最後の個所だ。

「我々の求めるものは個人か国家かのEntweder-Oderの上に立つ個人主義的国家観でもなければ、個人が等族のなかに埋没してしまふ中世的団体主義でもなく、況や両者の奇怪な折衷たるファシズム国家観ではありえない。個人は国家を媒介としてのみ具体的定立をえつつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するごとき関係に立たねばならぬ。しかもさうした関係は市民社会の制約を受けてゐる国家構造からは到底生じえないのである。そこに弁証法的な全体主義を今日の全体主義から区別する必要が生じてくる。」
丸山、「政治学における国家の概念」『戦中と戦後の間』、p32

丸山のこの論文の最後の、「弁証法的な全体主義」の内実について、いろいろと丸山シューレのなかで議論がされており、これをもって丸山におけるリベラリストというよりヘーゲリアンの側面を強調する人もいるが、早稲田の笹倉秀夫教授が、これをルソー的共同国家であると解釈し、田口富治氏もそれもそれを肯定的に論じており、また私もそう思う。だが、丸山が、この論文が自分と南原の「機縁」を作った、というように、南原の国家観と多分に通底する思考があることは疑いないだろう。

③佐々木毅、鷲見誠一、杉田敦、『西洋政治思想史』、北樹出版、1995

私が一番初めに政治思想史のテキストとして使ったもの。
初学者向けではあるが、それはそれで良く出来ていると思う。

古代、中世、近代、現代の4部立てという構成。(しかしこの区切りこそ、政治思想の通史における、破壊されるべき「神話」ではないか、とも思うけど。)本書は、第4部の「現代政治思想」(杉田敦執筆部分)において、ウォーラス以降、アレント、ハバーマスまでが扱われている部分が、特色といえると思う。

④足立幸男、中谷猛編著、『概説 西洋政治思想史』、ミネルヴァ書房、1994

主として関西を中心とする20人の研究者によって書かれた通史。
特色としては、思想史概説であるといいながら、第13章以降、実証政治理論や政治の科学化の問題に言及していることだ。また、ロールズ以降の正義論も取り入れている。包括的でしっかりした本だと思う。
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by akai1127ohi | 2007-10-09 02:58 | 政治学史 | Comments(0)
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