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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その12) 

「持続的な瞬間」 その12 (「ロンドン漱石博物館」)

駒場で一緒だったKさんとその友人が、3月に卒業旅行でロンドンに来たので、これを機に自分もロンドンに行くことにした。久々にとても楽しく解放された気分でのロンドンの1日になった。

3月といえどもまだ冬の気配のする寒い日の午後、お昼に二人と待ち合わせ、午後に三人で、漱石最後の下宿にある夏目漱石記念館に行った。漱石最後の下宿は、ロンドン中心部から地下鉄で20分くらい南に下った郊外、Clapham Commonという所にあり、ここで漱石は二年間の留学のうちの最後の半年を過ごしている。Clapham Commonは、坂のないロンドンにおいてめずらしく高台となっている。静かな家々が林立するすき間から、やや遠方に離れたロンドンの都心部が見える様子は、以前、日吉の高台から横浜の様子を眺めたのに似ていた。ロンドンの喧騒から適度な距離がとれていて、たしかに都会的ノイローゼに陥った時にはよい場所のように感じた。

漱石記念館は正味二部屋の小さなもので、午後の西日のなか、案内人の日本人女性が一人で番をしていた。室内には、漱石が留学中に買い集めた本の数々、ヴィクトリア女王の葬式など漱石滞在中のイギリスの出来事と漱石のイラスト、漱石の留学についての書籍などが展示されている。管理人の女性は、おそらく日に数人の訪問者であろう私たちを迎え、展示された手紙や留学中の漱石について熱心に説明してくれた。

漱石の留学中における社交について、それはやはり「挫折」というものではなかったか、という私の質問に、案内人の女性は、それは「挫折」というようなものではなく、社交に勤しむもうとすればそうもできた漱石が、あえてそれを断って勉強に集中したのだというような点を強調された。

だが私は、ロンドンにおける漱石の「自宅篭城主義」は、やはり迫られたものではないかと感じられた。漱石自身も、社交や「地獄買い」を繰り広げる紳商子弟の日本人留学生や、ベルリンにおける鴎外のように、楽しい留学を送りたかったのではないか。「此一念」により部屋にこもって読書に没頭したのは、やはりかかる社交に挫折し、それがゆえの逃避という、消極的な選択だったのではないか。その結果として自室でノイローゼになり、あげくに留学の有形の成果としての「文学論」さえ難解な駄作と評されるにいたっては、漱石の留学は、留学の成功/不成功をはかる通常の基準からすれば、まぎれもなく「大失敗」にさえ属するのではなかっただろうか、というのが、漱石記念館で受けた私の印象だった。

漱石のロンドン滞在に比べて、鴎外のベルリンは文字どおりの「成功」だっただろうと思われる。財政面においても陸軍と明治政府からの支援を受け、社交にも成功し、「村のダンディな晴れ姿」のごとく背広と帽子をはおり、当地で彼女まで作った鴎外。鴎外のヨーロッパ文明への自己同化はすさまじく、善意から日本の安易な欧化をいましめる地質学者ナウマンに対して、真のヨーロッパ文化の本質と鷗外の信じる、「言葉の最も純粋な意味における自由と美の認識」を代表する立場から、逆にナウマンを批判するに至っている。

むしろ漱石のロンドン体験を、このような通常の留学の基準においても「成功」の部類に押し上げようとする好意的解釈は、かえって漱石自身の内奥の思索を、実のところ矮小化してしまうのではないかとも感じられた。「狼群に伍する一匹のむく犬のごとき」という漱石の言葉はおそらく本当で、ロンドンでの漱石は「一見不経済で間抜けな留学生生活」(江藤淳)を送っていたのだと思う。

留学中に有形の成果を達成すべく努力すべきことはいうまでもないだろう。しかし留学の成果を有形のものとしてのみ誇れるケースは、実のところ、日本人が西洋社会との接触のなかで感じられるより重要なもの、すなわち今までにない自己分解の瞬間や、むく犬のごとき挫折感のもたらす内省的な自己再定位の機会を、逸していたのではないか。西洋に同化しようとも日本人である自分、日本に精神回帰しようともすでに西洋の社会や個人のあり方への憧憬を意識している自分……。それは、日本とヨーロッパのあいだで行きつ戻りつしながら、自己の焦点の定まらない自己自己分解の時間ではないかと思われる。

漱石はロンドンに居を構える前にケンブリッジを下見している。キングズ・イングリッシュを流暢にあつかう当地の学生―おそらく紳商子弟とみられる―「田島」に案内され、そこで学生街のきわめて浮薄な雰囲気に、すぐに自己疎外を感じている。文学者の谷口茂は、ケンブリッジ経験によって漱石のなかに「孤独へ逃避して自衛する欲求」が膨らんだと推測して述べる。「これはただの空想だが、ケンブリッジで優れた友人に恵まれて心豊かに留学した漱石は、のちにその作家的資質をどのように展開させただろうか。あの息苦しいばかりの、まるで目の据わりっぱなしといった感じの『自我』追求に、幅と膨らみと色彩が加わり、彼の文学を柔らかく富ましたのではなかろうか。それとも、エッセイの上手な英文学者夏目教授が生まれただけであろうか。」(谷口茂、「漱石の留学」) 
私は後者ではないかと思う。

「グローバリズム」や「異文化交流」などといった今日的なイメージが理想とする留学の基準からすれば、漱石の留学はまぎれもなく「大失敗」だったのだと思う。しかし漱石は、この「大失敗」が必然的にもたらす自己分解を正面から引き受け、このクラップハム・コモンの下宿にこもりながら、自己の再構築を試みたのではないか。かかる「大失敗」によって直面不可避となったその自己再定位こそ、まぎれもなくロンドン留学が漱石に与えた――そしてかかる「大失敗」の機会に鈍感であったその他の留学に与えなかった――無形の、しかし有形以上に大きく確実な成果ではないかと感じる。

ロンドン漱石記念館
http://soseki.intlcafe.info/j-menu.html
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by akai1127ohi | 2007-08-21 18:41 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その11) 

「持続的な瞬間」 その11 (クリケット)

ある春の日、食堂で知り合った院生のターナーを頼りに、彼がキャプテンを務めるリンカン・カレッジのクリケット同好会の練習試合に参加した。いちおう一般的な図式では、サッカーは労働党、クリケットは保守党支持者のスポーツといわれる。たしかにターナーの英語はいかにもというイギリス英語だし、白い運動着のせいだろうか、クリケット愛好会の面子もどことなく上品な皮肉屋の様相がする。

クリケット・グラウンドは、オクスフォードの中心部からバスで10分くらいのところにある。郊外の小高い丘の上にあって、とても広く、手入れの届いた芝生の緑に覆われていた。そしてその日は晴れていたので、クリケット・フィールドから丘陵のすそ野がきれいに見渡せた。

クリケットのルールは、基本的にはグローブのない野球といえると思う。バッター(バッツマン)は球を打ち返して、そのボールが相手の支配下を出てさ迷っているあいだに、バッツマンが走って得点を稼ぐ構図だ。だがバッツマンの任務は、球を打ち返すと同時に、野球で言えばキャッチャーの前に置かれた、ウィケットという木の柵を守るという性格を帯びている。バッツマンは実は攻撃しているだけでなく、ウィケットを守っているわけだ。
そこが、単に力任せにボールをはじき返すだけの野球とは違う点だ、とクリケットのプレイヤーがいつも自慢げに説明する点だ。

また野手が守る場所も定位置というものはなく、打者の特性や守りやすさなどを勘案してキャプテンが随時指示をする。野手のあいだでは、野球のようにボールを思い切り投げることもルール上はできるのだろうけど、それをそのまま取れば相手は手を怪我するだろう。プレイのなかでボールを投げる速度は、事態の緊急性と人間身体の軟体性とのかねあいのなかで決まっているように思えた。

ロブの采配で、私は野球でいえばセカンドあたりを守った。ロブ自身はファーストあたりに陣取って、これは野球と同じように、適宜声を出して野手を盛り上げたり、相手チームをからかったりしていた。

ボールの夜に、私にトイレ掃除を命令した巨漢のJunior Deanもいた。肥満体の彼はすばやく動くことができず、小走りするとすぐに足がもつれてずっこけるので、敵チームは彼のところを狙ってボールを転がす作戦をしばらく続け、そのたびに彼はずっこけていた。そして、ヘヘヘ、参ったな、というような苦笑いを浮かべていた。

クリケットは、守備のあいだも待つ時間が長い。2、3回、私のところにゴロが飛んできて、その度ごとに難なくさばいた。私は純粋に野球仕込みの取り方だったが、ロブがいうには、球を止めるのは、手だけでは痛いし不完全でもあるので、ひざを折り曲げて足を地面につけ、腿とすねの側面で球を止めるのだ、と実演してくれた。ウィケットのところで味方のフィールダーが手を挙げてくれたので、投げるところもわかった。

ゲームが進むにつれ、だんだん展開にもなれてきて、周囲を見渡す余裕も出てきた。
晴天の春の日で、高台から周囲の丘陵を望む、見渡すほど緑のクリケット・フィールドは本当に気持ちのいい場所だった。
あの丘を、少し越えたらもうロンドンだろうか。そんなに遠くはないはずだ。
あの人は元気だろうか。この景色を見せてやりたいな。
あのバッターの被っている帽子はどこで買えるのだろうか。かっこいい。俺もほしいな。
来るときロブにバス代借りたな、覚えておかないといかん。あっ、そういえばあのときあいつにバス代貸したままだ、思い出した!
帰ったらあの本を読んで、あの本を整理しなければいけないな・・・・・・。

とりとめのない思索をしていると、ときおりカツッ、とボールをはじき返す音がする。見ると、ボールが高く舞い上がって、宙に浮きながら、ゆっくりと自分のほうに落ちてくるのが見える。
捕ろうか、どうしようか。捕ろうと思えば捕れるが、手が痛いだろうな。しかしちょうど自分のいる所に落ちてくる。これは捕るしかないな。
自分はゆっくりと走ってそのボールを捕った。パチン、と、素手にボールが当たっておさまった。
すると次の瞬間、いきないオーッと声があがって、味方のチーム全員が自分に駆け寄ってきた。一同が自分のところに集まってきて、何やら誉めたり背中をたたいたりして、しかもその歓喜のなかでゲームは一時中断の様子さえなった。野球のフライをキャッチした程度のこととを思っていた私はびっくりした。
(その後の展開のなかで、一時中断と見えたものは、守備位置入れ替えにともなうしばしの歓談時間のようなものだとわかった)クリケットにおいては、ピッチャーがウィケットを当て抜くことと、野手がボールをキャッチすることはきわめて大きなことなのだ。そしてそのたび毎に、守備位置は180度変わることになっているわけだ。

細部ではルールの理解やコミュニケーションの困難もあったけれども、私はこの試合で、もう一つキャッチを決めたので、結構試合には貢献したと思う。保守党の子弟(?)たちとの協演は、精神的には結構大変だったが、こうして何とかなされたのだった。
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by akai1127ohi | 2007-08-13 15:38 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その10) 

「持続的な瞬間」 その10 (冬のアウシュビッツ)

クリスマス休暇の12月、ポーランド第二の都市クラコウから電車に乗って、オシフィエンチムに向かった。1939年にドイツはオシフィエンチムの地を第三帝国に組みこみ、そこに収容所の建設を計画した。オシフィエンチムは、地理的に周辺都市から隔離されていると同時に、既存の列車線路網においては要所であったため、巨大な強制収容所の建設には都合の良い土地であった。オシフィエンティムという聞きなれない名前は、ドイツ語読みするとアウシュビッツとなり、途端にイメージを伴う土地となる。クラコウから電車で一時間弱で、電車はオスウィエンチムの駅に着いた。駅舎は社会主義国の雰囲気を髣髴とさせるようながらんとした直角的空間で、すみに付設された寒々しい駅の食堂のおばさんから日本語のあいさつを受けた。

クリスマス休暇にポーランドへ行こうと思い立ったのも、オシフィエンチムを見ておきたいというのが主目的だったからだ。私は、オクスフォードで買ったポーランドの旅行案内書に、オシフィエンティムのところだけ入念に下線を引いていたので、その本を貸した同じくVisiting Studentのアメリカ系中国人の女の子から、アウシュビッツに異常なまでの関心を持っている奇特な日本人学生と思われていた。

アウシュヴィッツは現在では博物館となっていて、Arbeit macht frei(労働は自由にする)の看板で有名なアウシュビッツⅠと、そこから3キロ離れたところにあるアウシュビッツⅡ・ビルケナウの二つの強制収容所からなる。博物館はアウシュビッツⅠのほうにあり、ビルケナウは本当に広大な収容所の跡地が広がるのみだ。アウシュビッツⅠの入り口には、訪問客に対して「Behave properly・・・・・・」という但し書があり、収容所跡地では適切に振る舞うようにと要請されている。ヨーロッパの歴史的遺産で、訪問客に対して「Behave properly」という但し書きしてあるのは、おそらく歴史的教会とアウシュビッツだけではないだろうか。

アウシュビッツⅠでは、寒々しいバラックのいくつかが博物館となっており、囚人となったユダヤ人たちの写真、ガス室で使われた毒ガス・チクロンBが入っていた薬品缶、ユダヤ人のカバン、眼鏡、歯、義足、その他様々な身の回りのものなどが展示されている。なかでも、収容者の髪の毛が山のように積まれた展示室の、その陰惨な気味悪さといえばない。気味悪さに直面しつつ、その髪の毛から、その髪の毛が生えていた頭皮、頭、目、鼻、口唇、首、胴体、腕から足へと、順を追って想像していくと、ようやく一人の人間の感覚と、その動作が思い描きえるにいたる。

アウシュビッツⅠから40分くらい歩いて、ビルケナウのほうに着いたのは、もう日が暮れようとする時刻だった。静まりかえった田舎の畑道を歩いていくと、そのような田舎の景色のなかに忽然と、写真で見たことのある「死の門」と、そこへ連なっていく電車の線路が見えてくる。クリスマスの近いこの時期にビルケナウ収容所を訪れる人など少ないのだろう、見渡す限りに広がるビルケナウには、見たところ、写真家の老人と、英米系と思われる男女の3人しかいなかった。

鉄線で囲まれたその荒涼とした土地は、どこかの空港のような面持ちだった。そして「死の門」から線路は、あたかも滑走路のように一直線に伸び、その両横に収容所のバラックが途方もなく遠くまで、整然とした配置で並んでいる。そしてその線路の最奥部の左右に、ガス室がある。

アウシュビッツⅠの博物館の説明によれば、ポーランドをはじめ、スロバキア、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ハンガリー、ノルウェイ、リトアニアなど全ヨーロッパからユダヤ人がビルケナウに連れてこられた。彼ら彼女らは、電車で「死の門」からビルケナウ収容所に入り、収容所の途中で一旦降ろされて、SSの医師や官吏による身体査定の後、働けないと判断されたものは再び電車に乗せられ、「入浴」という指示のもと、ビルケナウ収容所の最奥にある四つのガス室へ連れて行かれて殺された、とある。この線路がアウシュビッツを象徴している。ビルケナウは文字どおり「終着駅」なのだ。

ガス室は、終戦間際にナチスが破壊していったので、今では残骸のみが残っていて、その日はガス室の残骸の上に雪が積もっていた。ビルケナウは途方もなく広いので、入り口あたりで見た他の3人の訪問客も見えなくなり、いつしか1人きりになった。冬の夕暮れのアウシュビッツ・ビルケナウで、残存する収容所のバラック跡に一人で足を踏み入れるのは、相当勇気のいることだった。現存するバラックの他に、すでに破壊されたバラックがそのおよそ3倍程度存在し、それらは今、それぞれのバラックの中心にあった煙突のような突起物を残して残骸となっている。誰もいない空港のような壮大な土地に、その煙突のような突起物が、まるでそれ自体墓標のように、延々と、そして整然と並んでいるのだった。理性から倫理を捨象した、限りなく合理性に近い意味での理性の具現を見るような気がした。

広島が一瞬の爆発で20余万を殺したのに対し、アウシュビッツは150万の人間を4年にわたり継続的に、ある意味で飼い殺したといえるだろう。広島が20万を雲の上から一気に焼きつくしたとするならば、アウシュビッツはいわば一人ひとりを――ガス室は正確には2000人単位だが――殺していく。一人の具体的な人間を査定し、髪を剥ぎ取って保存し、金歯は抜いて、使える義足は残しておき、殺した皮膚はカバンにしましょう、という要領で、いわば具体的に殺してく。アウシュビッツには、広島において見出されるような、一瞬の業火で焼かれた後の、焼け野原からの、いわば無からははじまる宗教的祈りの境地につながるような、そのような経路がない。それはとにかく絶望的に陰惨なだけだ。20万人が死んだ因縁の地とはいえ、広島が復興して今でも多くの人が住みつづけているのとは対照的に、誰もアウシュビッツの近くに住みたいと思わないのは、このような事情にもよるものと思う。

ビルケナウを去る時には、すでに日が沈んで、薄暗い闇が平地を覆っていた。オスウィエンチムの駅までの帰り道を、歩いて戻った。とにかく自分はアウシュビッツに行って、そして見た。社会や政治について何事かを発言する際の、ある種の義務を果たしただろう、そしてそれは、自分がこれから社会や政治について述べることに、ある種の慎重さと重さを与えるものだと感じられた。
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by akai1127ohi | 2007-08-13 15:35 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その9) 

「持続的な瞬間」 その9 (グラスゴーの8月6日-Hiroshimaとの邂逅)

エディンバラに来て二日目、yumyumと僕は日帰りでグラスゴーを訪れた。
エディンバラからグラスゴーは、バスで1時間半くだいだ。僕らのグラスゴー行きは、ちょうど8月6日にあたった。自分はそれを意識していた。物心ついてから、広島以外の地で過ごすはじめての8月6日だった。

グラスゴー行きのバスのなかで、普段は恐ろしいほど難しいそうな病理学の専門書と、あいだをずっと飛ばして、ファッション雑誌しか読まないyumyumが、めずらしく小説を手にとっていた。そして彼女は時おり、その小説のなかに出てくるある単語の意味を僕に尋ねた。英語のコミュニケーション能力はyumyumのほうが断然上だけど、新聞や小説の単語は、僕の方がよく知っていることがあるのだ。

yumyumの聞いた単語の一つに、oblivionがあった。
oblivion――忘却。
それは偶然にも、8月6日を向かえるにあたって、自分が頭の片隅で考えていたアフォリズムの冒頭の一語でもあった。

Oblivion is the only remedy for irreparable wrongs 
(忘却は、取りかえしのつかない悪行への唯一の解決策である)

どこで出会ったかは忘れてしまったけど、アイルランド出身で、スコットランド啓蒙とも関係の深かったイギリスの政治家、エドモンド・バークがどこかで書き付けていた言葉。既成事実を受け入れてそこから思考する、いかにもバークらしい心の態度だ。この態度は、「権力に対する人間の闘いとは、忘却に対する記憶の闘いに他ならない」という有名なミラン・クンデラの言葉とはまさしく対照的である。

もう取りかえしのつかない悪行がなされたら、忘れるにこしたことはない。償えないほどの悪であればこそ、それを裁いたり記憶したりするよりも、むしろ忘却することが賢明だ……。「成熟した大人」の発想のようにも聞こえる。では、原子爆弾で20万の人間を殺すことは、取り返しのつかない悪行irreparable wrongsだろうか。それは間違いなくwrongではある。しかし、並外れたwrongであるからこそ、記憶するよりもむしろ、忘却するべきなのだ、といえようか。

僕とyumyumは、グラスゴーに着くとまず目抜き通りのブカナン・ストリートを歩いて、fish and chipsで腹ごしらえをした。その後、街の中心部を散策したり、グラスゴー大聖堂など一通りのメイン・スポットを見たあと、グラスゴー大学を見に行った。グラスゴー大学はアダム・スミスなどが学んだところで、St. Andrews大学とならんでスコットランドの名門大学である。グラスゴー大学までは街の中心部から歩いて30分で、歩くにつれて都会的な通りが段々と学生風の商店街になり、緑も多くなってきた。オクスフォードやケンブリッジは街と大学が渾然一体となっているのに対し、グラスゴー大学は都市のなかにありながら、都市の雑然さに干渉されない落ち着いた雰囲気があるように思われた。

大学につくと、キャンパスは夏休みで閑散としており、古い石造りの宮殿のようなキャンパスがより神秘的に見えた。誰もいない学舎の中世的な柱廊を抜け、荘厳なホール(食堂)を覗きこみ、二人でクアッドを占有して、芝生の上で寝転んだりした。高台からグラスゴーの街が本当によく見おろせた。ここで学生生活を送ったらどれほど充実した時間がすごせるだろう、と思わせるキャンパスだった。自分とyumyumは、「Adam Smith」の発音の仕方でたあいもないけんかをしながら、ポーターに聞いてようやく見つけた「アダム・スミス・ビルディング」は、何の変哲もないコンクリートの研究棟だった。が、とりあえずそこで記念写真を取ってもらった。

二人とも学生の貧乏旅行だから、市内へ戻る途中のセンインズベリーでサンドイッチとワインを買って、ベンチに座り、まだ日の明るいうちに早めの夕飯にした。8月6日のことは、頭の片隅にはあったけど、このまま過ごし終わっていくのかなあ、と思った。

夏の長い日もそろそろ傾きはじめる頃、再びグラスゴーの中心部に戻って、最後に、市庁舎の前に広がるジョージ・スクエアに行った。ジョージ・スクエアは、ロンドンのトラファルガー・スクエアの半分くらいの広場だが、そこには、好戦、反戦、誰々さん来訪記念、何とか島発見記念、とにかく実にたくさんの円柱や銅像やモニュメントが乱立している。なかでも目を引くのは、広場の中心にそびえるウォルター・スコットの円柱と、その正面にある、左右をライオンに囲まれた大きな無名戦士のモニュメントだ。しかし、ウォルター・スコットの円柱から、巨大な無名戦士のモニュメントに向かって歩きだした時、注意をしなければ見過ごしてしまうほどの本当に小さな石のプレートを足下に発見して、その碑文の、突如として親しみのある文字が目に飛び込んできた。

「1985 This plaque was laid by the city of Glasgow District Council to commemorate the 40th anniversary of the loss of the civilian lives caused by the dropping of the first Atomic Bombs on the cities of HIROSHIMA 6 August 1945 and NAGASAKI 9 August 1945」

小さなプレートで、短く簡潔な碑文に過ぎない。しかし思いもかけないHiroshimaの文字との邂逅は、8月6日にふさわしい何かが無くてもいいものかと思っていた自分にとって、それを満たすものだった。またそれは、広島からはるか離れた僻遠の地でも、ヒロシマの忘却ではなく記憶を選択している人たちとの遭遇でもあった。
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by akai1127ohi | 2007-08-08 17:57 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)
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