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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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「持続的な瞬間—オクスフォード経験記」 (その3)

「持続的な瞬間—オクスフォード経験記」 その3「チュートリアルというスタイル」

チュートリアルは教官と学生の1対1の教授であり、週に2回、それぞれ一時間である。
前週に教官が与えた問題に対して、学生がA4で4〜5枚のエッセイを書いてくることが求めらる。Political Theoryに関していえば、その問題とは、“Are there any decisions a democratic majority is not entitled to take?”、“Is the idea of a contract a good way of explaining why we ought to do things even though we do not want to?”というようなものである。

冒頭に学生がエッセイを読み上げるので15分かかるとすれば、実質的に議論するのは45分にすぎない。レクチャーの位置づけの低さ、チュートリアルの時間的制限という事実が意味することは、勉強は主にチュートリアルの準備、すなわちエッセイを書くための読書においてなされるという、そういうスタイルだということだ。そのため、東大に比べて、図書館の本の還流は非常に激しく、PPEの学生が多用するSocial Science Libraryでは、学部生でも一人20冊まで貸し出しできる。また、チュートリアルで指定さる本は非常にしばしば複数の学生において重なるため、図書館の本を1人で占有する学生は自然嫌われることになる。
そしてチュートリアル前夜などは、「お前はどの本持ってる?」ということで、深夜にカレッジ内で学生間の本の交換などが行なわれたりもする。この点は、マスプロ講義主体の勉学スタイルをとる日本の大学とは異なると感じる。そのことは同時に、書き言葉による学習スタイルと、話し言葉による学習スタイルの相違ともつながっていき、学問伝授のスタイルの問題として考えさせられるところがある。

オクスフォードでのpolitical theoryの教育において感じることは、チュートリアルにおけるエッセイを書くために、教官から課される基本的なreading listを読むことが実質的勉強の中心となっており、そのため古典との距離が極めて近いということである。その結果として、古典を実際的あるいは職業的に参照する習慣を身につけられつけられるのだと思われる。
Reading listの内容に関して、1950年代にオクスフォードに留学した東大助手の福田歓一の留学中の短文「イギリスにおける政治学」(1958年)においては、PPEでの政治学はLeviathan, Two Treatises, Social Contractの三大古典の通読理解を要求すると紹介されている。これは現在に至っても変わっていないように思う。それに加えて、ロールズやドォーキンなど1970年代以後の規範理論の現代的古典が課されているという現状ではないかと思われる。

以前、LSEで教えていた森嶋通夫が本のなかで、PPEの幅広く総合的な教育課程をもって、日本でいえば東大駒場に等しいと説明していたのを記憶しているが、少なくともpolitical theoryに限っていえば、ギリシアおよび近代社会契約・自然法思想の古典的教養に着実に親しませるオクスフォードの伝統と、いわゆる現代思想が主流でどこか浮ついた感のある駒場とは、歴然かつ実質的な違いがあるように感じられる。
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by akai1127ohi | 2007-05-31 14:23 | 「持続的な瞬間」 | Comments(2)

「持続的な瞬間—オクスフォード経験記」 (その2)

「持続的な瞬間—オクスフォード経験記」 その2「オクスフォード大PPEにおける教育」

オクスフォードに着いてまずはじめの印象は、学問におけるその世界的名声とは対照的に、街自体は極めて小さな規模だということだった。人口は約13万で、Corn Market Streetと呼ばれる一つの大きなメイン・ストリートを除いては、街の中心と呼ばれうるにぎやかな場所はない。街の大きさは、東大の敷地と上野公園をあわせたくらいのもので、そのなかに40のカレッジと、いくつかの図書館、博物館、研究所などが点在している。

オクスフォード大で私が属したのは、Philosophy, Politics and Economics、略してPPEと呼ばれるオクスフォード独自の学部である。この学部では、一年次には哲学・政治学・経済学の三教科全てを履修することが義務づけられているが、二年次にはそのうち一つを切り捨てることが許され、三年次になると、哲学、政治学、経済学の三つともを依然として履修している人はtripartiteとして学部内でのひそかな尊敬を集める、という様子である。

オクスフォードでの教育の中心は、週に二回、一回一時間のチュートリアルである。チュートリアルは、教師一人に学生が一人(あるいは二人)というのスタイルで行われ、冒頭、学生が、先週教師から与えられた問いにたいする自分のエッセイを読み上げ、その後に教師のコメントおよび議論にいたる。

チュートリアルは主に自分の所属するカレッジで行われるが、それに加えて、街全体に点在する各種の講堂、研究所、図書館附属教室などで行なわれるレクチャー(いわゆるマスプロ授業)がある。レクチャーは日本の大学でいう講義とほぼ同様のものであり、学生は、基本的にはチュートリアルの教師が推薦するものに出る。オクスフォードにおけるレクチャーの位置づけは、日本の大学でのそれにくらべるときわめて低く、チュートリアルのための周辺知識の補強にすぎない。レクチャーは全て50分−形式的には一時間だが、5分遅れて始まり5分早く終わるという慣習がある−で、出席や小テストなどは全くない。したがってターム中の学生の生活は、街をせわしなく移動しながら一日に二つか三つのレクチャーをはしごして、あとは図書館か自分の部屋にこもってエッセイを書くというものである。

しかしながら、レクチャーの題目や内容は非常に多岐にわたり驚かされる。たとえば、東大では週一時間の「政治学史」という講座のなかで教えられることが、実に様々なレクチャーに細分化されて、それぞれにおいてより丁寧に教えられている。プラトンやカントなどの大思想家はもとより、例えばギリシアの原子論やスコラ学のドン・スコトゥスのような、比較的まじめに自分で本を読む種類の日本の学生がかろうじて知っているような学者について、その人についてのみの授業がもっぱらそのために開講されていることに感心した。やはり、開講されている授業の数が東大の3倍以上はあるように思う。

また毎学期、チチェリ講座、アイザイア・バーリン記念講座などの特別講座において、アメリカやヨーロッパの主導的な学者による特別テーマの連続講義も開かれ、この際にはその特別な講師の前に教授と学生が机を並べる。講義の後の議論や質問においても、教師と学生が同じ条件のもとにそれに参加する。このような機会は、それ自体としてオクスフォードにおける学門的な活発さの印象の印象を与えた。
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by akai1127ohi | 2007-05-31 14:19 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間—オクスフォード経験記」(その1)

「持続的な瞬間—オクスフォード経験記」  その1「はじめに」

私は2005年10月から2006年8月まで、所属する大学の派遣留学制度を使って、英国オクスフォード大学リンカン・カレッジに留学した。

当地で自分が経験し、それによって考えたことを書き留めていたが、その後、日本に帰国してからの個人的なつまずきによって、その記録も中途で放り出されたままになっていた。しかし自分の経験やその時の考えを、まとめなければ意味がないと思った。

「これをいま書いておかなければ、そのような経験や思考があったことすらすぐにも忘れてしまう、つまりこのいまは、生きなかったと同じになるだろう」(大江健三郎、『いい難き嘆きもて』)

自分の青春時代と呼べる最後の段階で、オクスフォードという特殊な情況のなかで、考えたことの軌跡を、稚拙であっても、書き留めておきたいと思う。

オクスフォードの一年間を、短かったか長かったかと問われれば、それは疑いもなく短かっただろう。一年という時間は、瞬間というには長すぎ、人生を形成する持続的な期間というには短すぎる時間である。しかし、その時間は、間違いなく私を少なからず変えた。抗しがたく変化していく自分自身を自覚しつつ、しかしそんな自分の内面を反省したり確定したりすることのできないまま、乱された自分の不均衡な内面を不器用にぶらさげつつ、何かが確実に変わった証拠としての自分と向き合っている———というような。

今から振り返ってみると、オクスフォードでの一年は私にとって、多くの実存的な問題を見出し、それによってそれまでの自分が攪乱されながら、一つも問題に対する答えを見出せなかった、そのような「持続的な瞬間」であったと位置づけることができる。したがって、この私的な体験記も「持続的な瞬間」と名づけることにしたい。
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by akai1127ohi | 2007-05-31 14:15 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

加藤節、『南原繁』、岩波新書、1997

加藤先生の本を連続的に読んでいる。

南原、丸山、福田と続く日本の政治哲学・思想史の系譜は、批判主義といった共通項を抱えた一つの系譜であり、それらは継承されるべきものだと思う。しかしそのなかで相対的に自分のコミットメントが少ないのが、南原である。私は丸山も福田も実際に会ったことはないが、本からは直接に影響を受け、それは今の私に続いている。それに対して、南原は、私にとって、完全に歴史上の人物にすぎない。

いくつか、私をして南原を遠ざける理由がある。
一つには、アジア太平洋戦争という極めて極限的な政治状況において、「洞窟の哲人」として実践的言論を回避したこと。二つんは、家族、地域、大学、民族や国民共同体など共同体的価値を自明のものとし、個人をそれに連なるものとして位置づける共同体主義である。
三つには、キリスト教の信仰の問題が入ってくることである。

一つめの、南原が世界戦争下にあってジャーナリズムを回避し、学者として存在しつづけたという点については、加藤先生はそれを、学問の上では生と形式の統一がなされていたと擁護しているが、私としてはそれはやはりむしろ南原の限界を示すものでこそあれ、その評価を高めるものではないと思われる。

また、おそらく二つめは、フィヒテなど私が余りなじみのないドイツ思想から由来するところもあると思う。この点に関しては、加藤先生も、「違和感p178」という個所で、南原政治哲学の根幹をなす民族共同体実在論への違和感を表明している。そして、民族実在論の上にではなく、新しい形の個人主義のうえに、政治哲学を抗争すべきであると述べている。これは私の違和感でもある。

南原を、等身大の政治哲学者として読んでいきたい。
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by akai1127ohi | 2007-05-04 22:04 | 政治学史 | Comments(0)
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