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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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カテゴリ:「持続的な瞬間」( 34 )

持続的な瞬間—オクスフォード経験記(最終回)

持続的な瞬間 最終回 (エディンバラへの旅・2)

ロンドンからバスでイングランドをずっと北上していくと、だんだんと街の雰囲気が変わってくると感じられる。とくにNew Castleをすぎれば歴然とするが、スコットランドに近づくにつれて、ケルトの雰囲気になって来て、アイルランドのそれに近くなってくる。

エディンバラは、エディンバラ城をようする高台を中心にした街の地形から、「北のアテネ」とも呼ばれている。個人的には、ロンドンよりは確実に、そして本当のアテネよりもさらに美しい街という印象を持った。お茶の水周辺の上質な街の雰囲気が街全体に拡張された感じだ。

A・スミスとD・ヒュームの墓地へ行った。
スミスの墓はロイヤル・マイルのはずれ、Cannongate Kirk Cemestryにある。墓自体は柵で覆われていて中に入れないが、碑文が読める。

The property which every man has in his own labour as it is the original foundation of all other property so it is the most sacred and inviolable.

労働価値説の定式者ということだろうか。
これがスミスの全体像を一言でまとめるのに最適な碑文なのかは大いに疑問だが、オクスフォードに戻ってからこのことをとある友人に話すと、冷戦時代にフリードマンかぶれが彫りきざんだんじゃないですか、との返事だった。

ヒュームの墓はそこから少し離れた、カルトン・ヒルのふもとの墓地にあった。
官吏に「自由の葬式の松明を掲げていろ」と吐き捨ててBotany Bayへと流刑された議会改革者、Thomas Muirの記念塔のすぐ横にある。大きな円柱状の墓だが、訪れる人が多くはなさそうだ。

カルトン・ヒルは小高い丘で、そこからエディンバラの景色とフォース湾が一望できる、とてもpicturesqueな場所だ。National Monumentと呼ばれる、ナポレオン戦争の死者を追悼するためにギリシアのパンテノンを模した巨大な記念碑が建てられている。なぜナポレオン戦争の死者のためになぜパンテノンなのかもよく分からないが、市の予算不足によって建築は中途で断念されたという逸話つきであり、なんとも決まりの悪い建造物だ。しかしすでに建立されたパンテノンの柱は荘厳で、エディンバラの有名な観光名所になっている。

ともに石造りの巨大な建造物ではあるが、ギリシアのパンテノンが南国風の、開放的で、いわば柔らかい美を持っているのに対して、エディンバラのパンテノンは、エディンバラの街並みに特有の褐色の岩石による、直線的でそそり立つ石柱の様相で、冷たく堅い石の肌をじかに感じる。そそり立つ巨大は石柱は、どこか崇高の気配がする。写真を撮るために石柱の台座を飛び降りて、少しあたりの茂みを歩いてモニュメントを振り返ると、石柱のふもとで笑顔を作るyumyumが、せつないほど小さく見える。

最終日、ロンドンへの帰りのバスを待つまで、yumyumと一緒に入ったパブは、本当に素晴らしかった。自分の理想のパブは、騒がしい大通りからひょいと小路に入った穴倉のようなところにあって、内部はなるべく広いほうがよくて、そしていつまでたっても空間認識が掴めないような、複雑な空間のほうがいい。中二階のような曖昧な空間があるとなおいい。床は木でも絨毯でもいい。木の床であれば、革靴と床が響きあう音と感覚を楽しめる。深い絨毯がひいてあるところは、パブ全体に包まれるような気になる。こぎれいに掃除されているよりも、少々汚いほうがいい。パブリカンが「いらっしゃいませ」などと言ったら失格だ。Pubにまつわるジョークに、 ”Lousy food, hot beer, bad hospitality. Welcome!” というのがある。しらみがかった料理も熱いビールもご免だが、ひどい応対bad hospitalityというのはむしろ望ましい。そして何が言いたいかというと、エディンバラでyumyumと最後に入ったパブは、まさにそんなパブだった。

そのパブは、ロイヤル•マイルの中心街からAssembly Hallへ下る途中に、駅までの近道だろうと思って入った、本当に細くて急な坂の小路の中途にあった。パチンコ玉が釘にあたってひょいと思わぬ方向に進路変換するように、僕らはそのパブに転がり込んだというような感じだった。僕らが入った時は店内に誰もいなくて、壮年のしっかりとした男が一人カウンターのなかにいた。急勾配な裏道の一角にある、穴倉のようなパブで、そこに僕らは3時間ほどいたと思う。yumyumはビールをすする合間に、さっきセインズベリーで買ってきた果物やパンを食べていた。その日のタブロイド紙に上級者と初心者むけのスドクがちょうど二つあったので、それを競ってやりあったりした。何という名前のパブだったんだろうか。再びエディンバラに行っても、もう二度と見つけ出せないのではないかと思う。

事件はそれから起こった。
ロンドンに戻る夜行バスの時間は23時30分だ。
さあそろそろバスの時間だよ、ということで、少し上気した気分でそのパブを後にした。エディンバラの街はどっぷりと日が暮れて、褐色の建物に囲まれた急勾配の坂道が、ささやかなランプで照らしだされていた。

僕らはそこを、お互いあれこれエディンバラに別れを告げながら、バス•ステーションへの階段を駆け下りた。パス・ステーションに着くと、乗車場はとても閑散としている。
あれ、バスはどこだろう?
確認のためにと、インターネットからプリント・アウトしたバスのチケットを見て、言葉を失った。

22:30 Depart Edinburgh, St. Andrews Sq Bus Stn
Arrive London, Victoria Coach Station 07:30

乗り遅れた。時間を一時間、間違えていたのだ・・・・・・。
バスは、僕らがパブでスドクに興じているあいだに出てしまっていたのだ・・・・・・。
「信じられない・・・・・・」
yumyumはそう言ってベンチに手をついた・・・・・・。
上気と上機嫌は、一気に困惑と後悔、不安へと変わった。

とりあえずそのバス・ステーションの待合室にいたが、そこは11時半で締め出された。ホテルに泊まろうにも、もう僕らにそんな残り金はない。yumyumと二人での、夜のエディンバラの放浪が始まった。

8月といえども、エディンバラは北海道より北にあるのだ、夜は恐ろしく寒い。
あてもなく、少し郊外のほうまで歩いた。通りから見える家々の明かりが、何とも恋しい。あの明かりの下で、温かく過ごせたら……。そんな思いがよぎりつつ、とある高級住宅に敷設された野外プールに忍び込んで、そのプールサイドのベンチに二人で寄りそったが、それでも寒い。

本当にあてもなくて、また市の中心部にもどった。
こういう状況では、バスに乗り遅れたのはどちらの責任だ、というようなけんかの一つでも起りそうなものだ。が、不思議にも、全然そんな気持ちはなかった。けんかするより、共同で互いの生存権を確保しなければならないという生物的な要請もあったかもしれない。でもそれより、何というか、大げさなものではないにしても、互いに、放っておくのはできない、というような、絶対的な被縛感を感じた。

あまりの寒さと、あまりの「行くところの無さ」に呆然として、再びロイヤル•マイルまで歩いたところで、とにかく舗道に座り込んで呆然とした。近くのホテルの受け付けの小役人風の男と根気づよく交渉して、なんとか10分間だけインターネットを使わせてもらって、とりあえず明日の朝の、ロンドンに戻るための格安バス・チケットだけは予約した。

しばらくして、聖ジャイルズ大聖堂のすぐ近くの、大通りに面した建物の入り口に、階段が2、3段あり少し奥ぞまっている場所があって、そこに二人が腰をおろすとちょうど緊密に納まって、風も比較的防げることがわかった。僕らはそこにすっぽりと納まって、上着を二人の上にかぶせてうずくまっていた。大通りに面しているので、時おり通行人が僕らをのぞいていた。さぞかし僕らは、東南アジアのstreet childrenのようだったろうと思う。

街の中心部なので、2時を過ぎても人通りは絶えない。
僕の疲労もピークに達しようかというとき、一人の黒人の男が、僕らの前を通過して、一旦見えなくなったら、また戻ってきて、僕らに話し掛けた。

何してるんだ?
大丈夫か?泊まるところがないのか?

yum-yumが二言三言、「そうだ」と応えた。
僕の方はというと、その時はもう、疲労によって心も気弱になっていて、全てに保守的になっていた。こんな男と話しても、何も変わらないだろう・・・・・・。

いくつかの会話の往復の後、男は言った。
俺は友人たち5人でいっしょにフラットを借りて住んでいるが、Long Vocationだからそのうち3人が実家に帰っている、だからそのうち一部屋を貸してやるよ、何なら温かいコーヒーとドーナツもあるぜ・・・・・・。
遠慮せずに、来いよ。

あいかわらず僕の気持ちは保守的なままだったが、少し話していると、その男はしっかりした話し振りで、信用してもいいかもしれない人物だということが、どこかしら感じられた。信用性を値踏みするためのいくつかの会話のあと、結局、僕らはその青年の好意に従うことにした。

青年は僕らと同じくらいの年齢で、Edwardといった。
長身馬面、快活で爽やかな男で、まったくもってアメリカ民主党の大統領候補オバマのような男だ。話し方はどこかラップ調の早口で、僕には理解できないところも多い。

歩きながら話して、彼はエディンバラ大学で宗教学を学んでいる学生だということがわかった。近くのパブでアルバイトをしていて、その帰りに、まさに東南アジアのstreet childrenのごとき僕らを見つけて声をかけた次第だ、とのことだった。エディンバラ駅の線路にまたがる大きな陸橋をわたって、駅の北側の地区に入っていった。

エディンバラは夏でも寒いだろ、でも冬はridiculouslyに寒いんだぜ・・・・・・。
ここから先は学生街だ、ただしゲイも多くなるんだけどな、気をつけな!ハハハ。

Edwardは軽快なラップの調子でいろいろ話し掛けてくれた。
おそらく僕らの不安と緊張を解こうとしたのだろう。だが僕は、事の急な展開に、一抹の警戒心も消せないでいたのだが、しかしもう本当に疲れていて、このままどこに連れて行かれるのも、ええいままよという感覚だった。

Edwardに案内されてフラットの建物に入ると、カーペットの敷かれたらせん状の階段をかなり長いあいだ上った。どこまで昇るんだろう、結構昇ったはずだ。薄暗い階段の踊り場が、やはり少し不安にさせる。

ようやくEdwardのフラットに着いてなかに入ると、一転、とても新しくきれいな室内だ。廊下の左右に、5つか6つの部屋があり、僕らはそのうちの一つに案内された。
静かで清潔な部屋だった。フローリングのきれいな長方形の部屋で、奥にカーテンの架かった大きな窓があり、その手前に大きめのベッドが一つあった。手前に小さな机があり、何も入っていないクローゼットがあった。典型的なイギリスの大学生のフラットだ。

Edwardはトイレとキッチンの場所を教えてくれて、自分は明日は昼まで寝るから、朝出て行くならそのままでいいから、といって部屋を出て行った。
僕の心配は杞憂だった。宗教学を学ぶEdwardは、おそらく彼自身が宗教的な人間であって、結論的に、いい奴だった。

ベッドに腰をおろして、僕とyumyumはようやく一息をついた。
思い返してみると、エディンバラのパブでsudokuをして、バスに乗り遅れて、夜のエディンバラの街をさんざん歩き回ったあげく、今こうしてこの静かな部屋に、二人こうしている。
まるで不思議だ。とにかくよかったけど。
見知らぬ街での、この静かな夜と、この小さな部屋で、二人。
そしてこの部屋は、まるで私たちのためのシェルターのようだ。

               ***

朝が来た。
yumyumは、カーテンを開けて声をあげた。
昨晩、かなり長く昇った階段の実相が、このときようやくわかった。カーテンを明けると、真下にはすでに朝の車の往来でにぎわう交差点が見えて、その向こうにエディンバラ駅、さらにそれを超えて遠くにカルトン・ヒルの方面まで、素晴らしい景色が広がっていたのだ。僕とyum-yumは、Edwardにお礼の手紙を書いて、なけなしの2ポンドを添えて机の上におき、しずかにそのフラットを後にした。

バス・ステーションの横のカフェで、朝食を取った。
その後、yumyumは近くで見つけたセインズベリーに買い物に行くといって、僕を一人にした。僕は一人でそのカフェで待っていた。そして、yumyumが戻ってくるまでに、yumyumへ向けて、内緒にしておいたエディンバラの絵葉書を書いた。

朝のバスに乗り込むと、バスのなかでyumyumが買ってきたウェルチを飲んだ。
ウェルチはyumyumのお気に入りで、葡萄ジュース一筋の会社の葡萄ジュースだ。まだ疲れの残る体に、ぶどうの甘味が本当に美味しかった。
yumyumがDelicious!といった。
以前、お茶の水で駿台予備校の英作文の講師が、君たちは美味しいと言うときすぐにdeliciousといいすぎる、コージーコーナーのケーキくらいでdeliciousを使うな!といっていたのを思い出した。しかしこのときのウェルチの味は、いかなる間違いもなく、deliciousというべきものだった。

               ***

エディンバラから戻って三日後、私はオクスフォードを去った。
午前中に二人でuniversity parkを散策して、昼下がりのグロースター・バス・ステーションから、ヒースロー行きのバスに乗った。小さなバス・ステーションから、yum-yumの姿が小さくなって、見えなくなった。

飛行機のなかで、yum-yumがくれた赤い封筒を開けた。
詩が書かれていた。そのとき痛切に感じたことは、なんでもっと優しくしなかったんだろう、わがままや不機嫌さもそのまま受け入れられなかったんだろう、何で、人生の一瞬を、もっと大切にしなかったんだろう、という、後悔の思いだった。

               ***

オクスフォードでの一年間は、学問の上でも人格形成の上でも、私を少なからず変化させ、有形無形、多くのものを残した。一方、私がオクスフォードに残したものは、ボードリアン図書館の膨大な蔵書のいくつかに書き込んだ些細な傍線と、yum-yumの部屋へ向かう小道に残した、いくつかの足跡だけだったかもしれない。
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by akai1127ohi | 2008-03-24 21:22 | 「持続的な瞬間」 | Comments(6)

持続的な瞬間—オクスフォード経験記(その34)

持続的な瞬間 その34 (エディンバラへの旅・1)

自分が本当に何か一つのことに心を奪われてしまって、それに熱中してしまっているとき、無意識のうちに誰かを傷つけてしまうことがある。最後に学期が終わって夏が近づく頃、自分は、そのような経緯で、yum-yumを裏切ってしまった。

昼過ぎから夕暮れにさしかかろうとするクライスト・チャーチ・メドウの長い並木道を歩いるとき、そして、堂々めぐりの会話が、もういい加減煮詰まったとき、yum-yumは私をおいてきぼりにして、一人で歩きはじめた。その後ろ姿は、おそらくどんな呼びかけにも振り向かない、毅然とした意志を示していた。長い並木道のはしを、急ぎ足で、彼女は、ほんとうに一人出歩いていた。

                ***

私は自発的にyum-yumの部屋を出た。
自発的に出なければ、そのすぐ後に、yum-yumの意志の言葉が出てきたことは間違いなかった。

カレッジの自分の部屋は引き払っていたので、yum-yumの部屋を出た後の一週間は、困難極まるものだった。カレッジの娯楽室common roomで寝たり、そこが閉まっているときは、深夜、誰もいなくなった共同キッチンに入り込んで、水まわりの食器をかたずけた台所の上で横になった。空のバス・タブのなかで、身体を折り曲げて寝たときは、むしろ比較的心地よいくらいだった。ベンチで一人、ケバブ•バンの大盛りチップスを夕食にしてがっついている姿は、あまり人には見られたくない光景だが、ちょうど前を通ったXに見つけられ、ohiさんも大変ですね・・・、と、珍しく同情されもした。

しかしイギリスはrespectabilityの国。こんな状況でありながらも、自分は毎日きちんと髭をそって、寝押しでアイロンがけたシャツを着て図書館に通った。図書館書士のおばさんは、目の前の快活な日本人の青年が、昨晩は空のバス・タブのなかで虫のように身体を丸めて寝ていたなどとは、想像だにしなかったろうと思う。

そのような生活が一週間くらい続いた後、見かねたyum-yumが、再び「熊の小道」に入れてくれた。だが、以前の信頼関係を取りもどすには、途方もない時間と誠意が必要だと感じられた。そして、帰国の日取りが迫っていた自分にとって、その誠意を示すための時間は、もとより与えられていなかった。しかしそれでも自分は、限られた時間のなかで、自分の言葉を少しでも実際に近づける努力を払った(つもりだ)。いくつかの経緯の後、最後の旅行と決めていたエディンバラへ、一緒に行くことになった。
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by akai1127ohi | 2008-03-24 21:10 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間—オクスフォード経験記」(その32)

「持続的な瞬間」 その32 (食事について)

イギリスの食事はまずいといわれるが、自分自身に限ればーー日本での食生活が祖末なせいかーーイギリスでの食事もおいしく食べた。

カレッジでの食事は、6時から始るFirst Hallと、7時半頃から始るSecond Hallの二回ある。Second hallはより荘厳な食事で、ガウンの着用が義務づけられ、食事の始まる前にラテン語の朗読がある。食堂といえども教会のように荘厳な場所で、デイビッドやポールなど友人たちを見つけられなければ、集団のなかで一人で食べるはめになり、何かと精神的に負担が大きい。そうかといって食べないわけにもいかないので、食事の時間は最後まで一番心労の種になった。

オックスブリッジのHallでは、会話をふられてもすぐ話し返せるように、食べ物は小さく切って口にし、口内をいつも軽快にしておかねばならないと聞いたことがある。Hallでの学生の会話の内容は、undergraduateに限れば、聞きとった限り、たいていはエッセイの進み具体、レクチャーについての情報交換、bop(仮装パーティ)の衣装のことなどだった。一度、食事中に自分の右隣にいたアイルランド人学生の会話からgenitalという言葉が耳に入り、何の話をしているんだろうと思うと、今度は自分の左隣の学生が彼らに、そんな話は食事中にはやめろよ、と呼びかけたことがあった。アイルランド人の学生は、嫌なら聞かなければいいだろう、とやり返すと、左の学生は、非自発的に耳に届いてくるinvoluntary listening、などとやりやっていた。要するに、そういう会話をしていることもある。

ケバブ・バン(ファーストフードの車型店舗)にお世話になることも多い。
ポテト(チップス)でも300円ですごい量で、上にチーズやビーンズ(日本でいえば豆の煮物)をかけるなど、食べ方も豊富だ。プラスチックのプレートの上に盛られた、山のようなチップスの上に、チーズをぐいぐいかけて、ビーンズを流し込んで、チキンのフライを載せて、サラミまでかけたりもする。日本でファースト・フードを食べるときは、母親の後見的説諭が思い出されて、どこかで心理的なブレーキがかかるが、イギリスのファースト・フードはそのような後見的抑制を全く欠いた、食の本能がそのままの露わさでプレートの上にぶちまけられている。まあ健康にはあまり良くないと思われるけど、とにかくお腹一杯になる。

ホールに行く気力が湧かないときは、Sainsburyで売っている豆とソーセージとトマトソースの煮物の缶を温めて、それを食パンと一緒に愛食していた。この豆とソーセージの煮物の缶詰は、以後、オクスフォードを連想する味になった。
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by akai1127ohi | 2008-03-24 20:54 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間—オクスフォード経験記」(その31)

「持続的な瞬間」 その31 (日本人留学生Xと私との「実存的問題」)

「近頃は英文学者なんてものになるのは馬鹿らしいような感じがする。何か人のためや国のために出来そうなものだとボンヤリ考えている。こんな人間は外に沢山あるだろう。」 夏目漱石、『漱石書簡集』、(岩波文庫、p94)

                 ***

日ざしの美しい一日、チュートリアルのためのエッセイに苦しみながら、ふとを頭をよぎることがあった。自分がしていることは、ボードリアン図書館に途方もなく山積する書物からその一部分を抜きだして、適当に組み合わせて、適当に自分の意見をつけ加えて、「はいよっ」と無価値な混合物をつくる香具師の手合いではないのか。「ヨコのものをタテにする」という言い方に倣えば、エッセイを書くとは、黄ばんだ紙の上の文字を真白な紙の上に散らかして、並べ替える作業ではないかとも感じた。

英米での政治理論が、純粋にtheoreticalなもので、むしろ倫理学的なモデルの精密さを競っているという印象を強く持つにつれ、このような思いは自分にとって深刻な疑念をつきつけてくるようになった——「問題意識」という名のもとに、過去の概念的作業のなかから、見つけなければそれでいいような問題を見つけ出し、強引にそのひびをこじ開けて、論文を書く。概念のなかから問題を見つけ、概念の上でそれを扱い、概念の上だけの論文を書く。そのような学問のあり方を感じ取るにつき、政治学と現実の政治と関連が見えなくなってきた。

そこで自分を振り返ってみると、自分の場合、いかに幼稚な社会認識であったかとはいえ、おそらく広島ですごした青春時代に参加した活動やそこで感じたことが、原初的なところで、自分が社会科学を勉強したいと思った端緒であり、原動力でもあったのだと理解した。政治思想への関心も、その延長上に見いだしたものだ。

それが自分の勉強の原動力となっている以上、それを離れては自分は勉強を続けられないだろう。そういう自分に固有の、実存的な問題を不問に付したまま勉強を続けても、いつか、勉強の意義を見失うときが来るのではないか。そして、万一それがもはや後戻りのできない人生の段階であったとき、どうするのか・・・・・・。
自分が青春の時間と集中力と少なからぬ金力を費やしてやっていることが、そもそも、現実との連関や、ある種の有用性があるのだろうか、という疑問が頭をもたげてきた。

むしろ、こうも同時代性から逃れられない自分は、黄昏とともに起きて時代精神の認識を提示する梟のごとき学者よりも、むしろ日の明るいうちに、その時代精神に無意識的に突き動かされながら、同時代のなかで無我夢中に、汗をかきながら懸命に生きることのほうに、むしろ価値があるのではないか・・・・・・。そのような自問自答が降ってきた。

                ***

このような問題意識は、日本人の大学院生、Xとの関わりのなかで、(少なくとも私にとっては)深刻な対立となって現れた。

私たちの関係は常に「会話」だったから、私はXについて多くを語るべきではないと思う。ただ私の印象では、Xは、私が今まで出会った同世代のなかで極めて知的で、剃刀のように鋭い男で、同時に一抹の敵意も含んでいたように思う。(一般的に、外国の大学で自分を鍛えた学生と、日本の大学からの交換留学生とのあいだには、微妙な心理的な競合関係があるのかもしれない)。Xから、というより、Xと自分との対立のなかから、自分は実に多くのことを考えさせられた。

政治理論でも思想史でも、同時代性やある種の「政治性」と、実証性やテキストへの沈潜とは、当然、両方大事だろう。しかし問題は、様々な話題や対象を媒介にしながらも、結局、このバランスの取り方に収斂した。

結果的に、自分自身の側で思い直したように、同時代への意識と古典への沈潜が深い所で結びついた研究のあり方が理想だが、前者を欠いた研究は許されても、後者を欠いた研究は、当然ながら、許されない。同時代への意識を欠いた実証研究にはまだ学問的価値があるが、実証性を欠いて同時代への意識だけが突出したものは、固有の価値はあるにしても、学問的価値ではない。

他方で、以上を踏まえた上でなお、同時代や現実への意識を捨象して良しとする学問のあり方には、否定的な姿勢を持たずにはいられない。

学者における同時代性や一定の政治性を伴う発言とは、実証研究で一仕事を築いてから、4、50代になったら始めます、という類のものではないだろう。それまで「非政治的」であった学者が、老境をひかえ突如的に、実は私も今までこの国の未来を憂いていた、というような態度で語りだす「同時代的発言」ほど、凡庸だったり、結局のところ保守的なものになってしまうものはないと思う。何より、同時代的な政治的状況の進展は、自分の年のとり具合とはまったく関係なく進展するではないか。

                 ***

Xは、オクスフォードのなかで私が一番時間を過ごした日本人だが、結局、「政治学者の数だけ政治学は存在する」というmagic wordが、二人のあいだでの大人の知恵だったように思う。それ以後、自分なりに、自分の政治学の勉強の仕方を考え続けていて、そのスタイルを模索している。しかし、勉強の価値をめぐる対立は、人生の価値ともあいまって、自分のみならずXにとっても、抜き差しならない問題だったはずだと信じている。
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by akai1127ohi | 2008-03-21 20:16 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その30)

「持続的な瞬間」 その30 (ブルーベリー・ジャムとSudokuの日々)

最後の学期Trinity Termが終わって、6月の中旬に、カレッジに自室を出た。苦闘も達成も、何もかもをそこで経験したroom 5を出るときは、感慨深いものだった。

                ***

yum-yumの部屋に転がり込んで以来、自分はいくつか新しい自分に気づいた。
ブルーベリー・ジャムは食べず嫌いだったとわかった。

自分でも一番驚いたのは、Sudokuだ。Sudokuは、日本生れの数字のパズルだが、ニュージーランド人が改良して、今イギリスで流行っている。それまで自分は、クロスワード・パズルの類は何の価値もない非生産的な遊戯だと思っていた。だから、yum-yumにもそれとなしに促したりしていた。

Sudokuは生産的じゃないと思うよ。
Recreationなら他のことしたら?映画見るとかさ、小説読むとかさ・・・・・・。

ある日、yum-yumの出て行った後、1人になった部屋のなかで、ふいに小さなSudokuの本を手にとって眺めていた。仕組みは以前、簡単に教えてもらった。簡単なレベルから、難しいレベルまである。簡単なやつだと、何ともなしに考えていると2、3個のマス目は埋まる。そして、2、3個埋めると、もう全てを埋めないともったいなく思えてきてしまう。こうして、自分も浮気がちなSudokuプレイヤーへと変貌した。そして自分が解いた問題の下に、それとなしに書き込んでおいた―――I made it!

政治的信条までは変わらなかったけど、自分が今まで、なかば常識のごとく持っていたいくつかの固定観念のいくつかが、こうも簡単に相手によって変えられていくのか、と思おうと、面白いやら滑稽やら、といった心持ちだ。強制されたわけではなく、自然な流れでのなかで、自らの思慮の下で自分が変わっていくのだから、それは自分の視野と経験の裾野の広がりというものだろう。自分が相手を変えていくこと、そして相手によって自分が変えられていくこと……。自分はそれを楽しんでいたと思う。

                ***

最後の学期が終わった直後、カレッジの図書館で、図書の整理と確認のアルバイトの募集があったので、それに応募した。yum-yumの部屋に転がり込んだとき、食事は自分が作ることを申し出ていたので、日中は図書館で本の整理の仕事をして、夕方に「熊の小道Bear Lane」に帰って食事を作り、その後また図書館に行って勉強して、夜に部屋に戻るという日課が続いた。

こういうふうになってこそ、見えてくるものもある。一定の時間に夕食を作らなければならないことによってだけでも、結構他の時間も支配される。また、忙しいのはわかるけど、せっかく作った料理を鞄を背負ったまま食べられるとあまりいい気はしない、など。

                ***

yum-yumとオクスフォードの街はずれをいろいろ散歩した。
オクスフォードは小さな街で、かつ街全体が大学なので、これは実は予想していたことなのだが、「大学」を離れて娑婆で自由になる、という状況を持つことが難しい。しかし、夕方、街の東を流れるよどんだ運河のほとりを散歩するのが非常に気持ちいいと発見した。小さな運河に、多くの長いカヌーが並んでいて、カヌーのなかで生活している人々の場所だ。

カヌーには運河税反対やら平和やら色々なメッセージが書かれていたりして、少しヒッピーの雰囲気がする。開け放たれた扉や窓から、船内の生活の様子が見えたりもする。小さな電気に灯された、水の上での生活だ。そして、ここに夕暮れが落ちてくると、何ともいえない寂寥感となつかしさが漂う。運河を通り抜けると、こじんまりした家々が立ち並ぶ静かな住宅地になり、そこにぽつんと光る小さなパブを見つけて、二人でゆっくりビールを飲んだりした。

「金持けんかせず」は一片の真理だろうが、かといって、金がないから誰かとけんかするというわけでもない。ジェントルマン・シップとは、お金の余裕より心の余裕で可能になるものだ。

                  ***

8月、yum-yumの引越し。
オクスフォードの学寮生活では、ほぼ毎年、学寮の移動がある。だから、いつも手持ちの荷物はmovableにしておかねばならない。

「熊の小道」の荷物を全部かたづけて、がらんとした部屋。
新しい住居は、ウェリントン・スクエアという、オクスフォードの北部にある大学寮だ。yum-yumは家具の古さなどを不満にしていたが、以前、三鷹の井の頭寮にいた私にとっては、港区の高級マンションのようなところだ。壁一杯に広がった窓から、ウェリントン・スクエアの緑の木々がよく見える。

新居に移った初日は、誰でも少し心細いもの。
新しい窓の景色、あたらしい自転車置き場、新しい隣人たち。キッチンの使い方であれだけ文句をいっていた「熊の小道」の中国人留学生たちさえ、なつかしく思える。まだ勝手のわからないウェリントン・スクエアの共同キッチンで、とりあえずスパゲッティとアプリコットのサイダーで乾杯した。
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by akai1127ohi | 2008-02-20 13:26 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その29)

「持続的な瞬間」 その29 (オクスフォードのはきだめパブ)

オクスフォードの中心部にあるスーパーマーケット・セインズベリーを越えてすぐの小さな裏路地を横に入ると、急に静かになった薄暗いその路地の奥に、小さなパブがある。上流階級の子弟が集まり、上品なパブやトレンディなクラブがにぎやかなオクスフォードで、ここはちょっと変わった場所だ。

このパブは浮浪者、ロッカー、性的放埓者(服装を見ればわかる)、変種の老人などが集まるところで、オクスフォードでは異質だ。オクスフォードでパイントを1ポンドで出す店は、ここと学生自治会Unionのパブくらいだ。さっきまでそこのセインズベリーの前でchange please!といいながらビッグ・イッシュを売っていたおじさんが、さっそくその稼ぎで一杯やっていたりする。

切り詰めた生活とはいえ、エッセイを終えた夜に一息ついて、おもむろに2,3ポンドをポケットに入れてくり出す店がここだった。名前さえどこに書いてあるのかわからないこのパブを、自分はオクスフォードのはきだめパブと名づけていた。

店内はいつも馬鹿みたいに巨大なボッリュームでロック音楽がかかっていた。
そのなかに、浮浪者風の男が傷を癒すように座っていたり、驚くべきほどに太ったおばさんが、音楽にあわせて体を揺らしていたりしていた。ビールを頼むと、メタルのピアスやら指輪やらをそぞろにつけた、これまた驚くべきほどに太った男が、親指と小指を広げた「チアーズ」のサインとともに、ぶっきらぼうに注いだビールを出すのだった。

すべてが行き詰まりのような状況になった、イースターの前日の夜、yum-yumを部屋まで送ったあと、一人で夜のコーンマーケット・ストリートを歩いて、裏路地を横に入ってはきだめパブに行った。

ビールを飲んでも酔えないと思えたので、ウォッカのショットを一息に飲んだ。
店の出際に、老人がパイントグラスを掲げ、「楽しんだが?」と声をかけた。
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by akai1127ohi | 2008-02-07 19:42 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その28)

「持続的な瞬間」 その28 (手のひらサイズのソクラテス)

世界史の教科書に出てくるギリシアは、二つしかない。
第一にまず、アテネやスパルタなどのポリスに代表される、紀元前5世紀ごろの古代ギリシア。その次は、およそ2000年飛んで、1829年のギリシア独立戦争だ。普通の教科書で目にするギリシアは、ほぼこの二つに限られる。換言すれば、紀元前4世紀にマケドニアに支配されて以来、19世紀に独立を回復するまでのギリシアは、2000年以上にわたって「世界史」の表舞台から去っていたのだ。

この間、ギリシアは、マケドニア、ローマ、ビザンチン帝国(東ローマ)、オスマン・トルコの支配下に組み入れられ、独自の政治単位を持つことはなかった。1930年の独立後も政治は混迷を続け、長らく軍事政権の下にあった後、1974年に共和国となる。その後も国民生活は貧困で、1981年にECに加盟した時は、アイルランドとともに「ECのお荷物」とされた。

アテネについて翌日、さっそく古代ギリシアの遺跡、アクロポリスを歩いた。
パルテノン神殿は、石造りだが、その石の風合いが、妙に柔らかく感じられた。だが、パルテノン神殿にいたる、白い石作りの長い階段を昇りながら想起されたのは、再びヘーゲルの言葉だ。

「偉大な芸術家たちが作品を完成すると、世人は、このとおりに違いないと言うことができる。すなわち、その芸術家一個の特殊性は全く消え去っており、どんなわざとらしい手法もそこには見えないということである。フィディアスにはどんなわざとらしい手法もないのであって、彼の作品では形態そのものが生きて現われ出る。ところが、芸術家がへたであればあるほど、それだけますます作品に彼自身、つまり彼一個の特殊性と恣意が見られるのである。」(ヘーゲル、『法の哲学1』(中公クラシックス)、p101)

フェイディアスによるパルテノン神殿には、どんなわざとらしさや恣意性がない。
それは、ただ単に神殿であって、それ以外の余計な虚飾や特殊性は捨象されているという。ヘーゲルのフェイディアス評は、文章についても言えることだ。自分が書くものには、まだまだ自分自身の「特殊性と恣意」が現われている・・・・・・。

プラトンの作った学校アカデメイアにも行った。
アカデメイアは、プラトンがBC387年にアテネに作った学校である。
弟子のアリストテレスは17歳の時にアカデメイアに入門し、その後20年間にわたって在籍した。アカデメイアはAD529年に東ローマ帝国によって閉鎖されるまで、およそ900年にわたって存続した。現在の建物は、トルコからの独立戦争にいたる19世紀末におけるギリシアの民族意識の高まりとともに1887年に再建されたもので、現在はCeremonial Hallがあり、アテネ大学の史跡の一つとして機能している。

アカデメイアの正面、ソクラテスとプラトンの像の前に立ったとき、私はいわば、地理的な意味で「辿りついた」というような印象を得た。西欧の知的伝統の源流は、オクスフォードでもケンブリッジでもなく、ましてやハーバードでもなく、ここアカデメイアなのだ。

パルテノン神殿とアカデメイアが古代ギリシアの遺跡だとすれば、国立歴史博物館と戦争博物館は、1930年の独立以来の、近代国民国家としてのギリシアを表象する施設であろう。

国立歴史博物館は市の中心部にあり、独立当初に一番初めの議会が置かれた建物のなかにある。展示の白眉はやはり19世紀の独立戦争の部分であろう。独立戦争の過程が絵画資料とともに再現され、制服や武器など当時の物品が展示されている。

戦争博物館はシンタグマ広場から15分程度歩いたところにあった。
ここでもまた、ギリシア独立戦争時の、ベニヤ板のような素材で出来た飛行機や、お団子のように柔和な大砲などが、ファンファーレの音でも聞こえてきそうな様子で並べられている。
靖国の遊就観に通じる、国民国家のための教育施設といえよう。ギリシアもイタリアも、古代文明で一時代を築きながら、国民国家としては出遅れた国々だ。そこにある種の悲哀も感じられる。

                  ***

アテネに来て3日目くらいだったろうか、昼下がり、三人で市の中心部から電車で20分ほどかけて、海へ向かった。素晴らしい夏の日ざしだ。海水浴場で海に入った。

だが、エーゲ海で海水浴をする日本人の男は、やはりどこか滑稽さが付きまとう。何というか、決まりが悪い。Shizukaも海に入ったが、上にTシャツを着ている。まあそれはそれで似合ってるからいい。自分が海パン代わりにはいているのは、高校の時の体育の半パンだ・・・・・・。

夜、三人でに食事に出かけた。
油っぽい肉料理を食べた後、アクロポリスの近くの商店街を歩いた。

夏の夜のアテネは、とても活気にあふれている。
だがとにかく、Shizukaの買い物は長い。一人でみやげ物屋の隊列をはなれ、日中よく目にしたココナッツの皮を買って、街路に座って食べてみた。食べ終わってみやげ物屋の通りにもどると、まだShizukaは熱心になにやら比較検討している。

しかたないので、自分も、いつか買おうと思っていた例のものを、この場で買った。
手のひらサイズの、ソクラテスの胸像だ。土産物屋には、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの胸像が、大きさに応じて5ユーロ程度から売ってある。以前、本郷で法哲学のI先生の研究室にお邪魔した機会に、研究机の横に、巨大なプラトン(アリストテレスだったかな?)の胸像が置かれているのを目にした。机に座ると、ちょうどそのプラトンに睨みつけられるような配置だったと思う。自分もその辺のみやげ物屋で、手のひらサイズのソクラテス像を5ユーロで買った。帰国してから、勉強机の片隅に置こうかと思う。
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by akai1127ohi | 2008-01-07 14:40 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その27)

「持続的な瞬間」 その27 (アテネへの船中)

ローマで4日間ほど過ごした後、ShizukaとNingningそして私の3人は、ローマからイタリアの南部、長靴のかかとにあたるBariまで来て、そこから船に乗り、ギリシア西部の港パトラに向った。

イタリアの南端からフェリーでギリシアに入るのは、体力があってお金のない若い旅行者には結構人気のルートだ。僕らの乗ったフェリーは、大きな客船で、夕方に出航し、船の中で一泊、翌朝の正午ごろギリシアにつく旅程だ。船の後尾にはイタリア国旗、先頭にはギリシア国旗がなびいている。

僕らが予約したのは一番安い席で、夜は船のデッキにざこ寝というものだ。
広いデッキの真ん中には小さなプールがあり、その周辺に多くのテーブルとイスがある。出航後しばらく、三人でデッキで話していると、ゆっくりと空の色が変わっていくのが分かる。蒼とオレンジ色がまざったすばらしいエーゲ海の夕焼けを見た。

デッキの中央には、食事や酒を提供するバーがあり、それが夜遅くまで開いている。
そこに二人の荒くれ男がいた。一人は迷彩服のズボンをはいたやくざのような中年男で、もう一人は白髪をたたえた巨漢の男だ。バーの前にたむろし、大きな声を出して飲んだくれている。聞くと、荒くれ者たちはドイツの退役軍人だという。

そのうちの白髪巨漢の男は、その時すでにかなり酔っていただろう、Ningningが一瞬だけ席を立った瞬間にそのイスを奪い取った。あきらかに乱暴な行為だ。Ningningが抗議したが白髪巨漢は取り合わない。そのまま事は収束しかけていたが、私は、変な意地から、とにかくは白髪巨漢のライターを取り上げて自分のタバコに火をつけるという、何ともささやかな「復讐」だけは敢行した。二人はその後も飲みつづけ、夜半には迷彩服の中年男が、バーでバーテンと言い争いになった。とにかく、船のお騒がせ者なのだ。

エーゲ海を染めた夕陽もすっかり落ち、船上は夜半となった。
Shizukaはちゃっかり、船内の自由席に開いている席を見つけて、そこで寝た。
デッキの様子も一段楽して、海風の静けさが吹きぬけるようになった。私は、デッキで絵葉書などを書いていると、やをら、さきほどの荒くれ者の一人、白髪で巨漢の男が私のテーブルの対面に腰をおろしてきた。

男は泥酔していて、もはや明瞭に話すこともできなかったが、私に何ごとかを話し掛けてきた。そして、飲みきれない酒を私に差し出して、飲むようにとすすめた。ロック・グラスに、何やら透明な、水のような酒が入っていた。一口飲んでみると、この屈強な老人には似合わない、なんとも爽やかで清涼感にあふれる、かすかにハッカのような甘さのする酒だった。
(これはギリシアに上陸してから、ギリシアの名酒ウゾOuzoであることがわかった。ぶどうの皮から作る食前酒で、これは夏のギリシアの旅を象徴する香気となった。)

白髪巨漢の男はおもむろにタバコを取りだすも、ライターを見つけかねている。
私が男のタバコに火をやると、しばらくして、男は私の前で眠りこんだ。Ningningのイスの件の行きがかり上、決闘も辞さずの心意気かと踏んでいた自分にとっては、いささか拍子抜けだった。

私は男が眠りこんだあとも、しばらく正面から見ていた。
さっきまでバーの前で大きな声で荒くれていた男は、今は静かに、どこかか寂寥をたたえながら、眠っている。寡黙さとは無縁とさえ思われた荒くれの男が―――。人影少なくなったデッキでその男を見ていると、何だろうか、どこかで経験したような光景に通じる気がしてきて、気持ちが丸みを帯びていった。眠りに落ちた男に対座していると、どこか、それは自分の父親を思い出させるのだった。
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by akai1127ohi | 2008-01-07 14:31 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その26)

「持続的な瞬間」 その26 (リスボンーここに地おわり、海はじまる)

「果たしてここに止まることは、安らかさのなかへの休息なのであろうか。歴史もなく、歴史に鞭うたれることもなく・・・・・・。」 (辻邦生、『旅の終り』)

                 ***

リスボンのオリエント駅に着いたのも、毎度のごとく黎明、深夜の3時ごろだったと思う。
吹き抜けの、とても広大な駅の構内で、震えながら朝をむかえた。なんとか街の中心部まで来て、小さな広場に面した、小さなホテルに一部屋を見つけた。

現在のリスボンの街並みは、1755年のリスボン大地震後に定礎されたものだ。
サン・ジョルジョ城から市内へ戻る高台の斜面は、リスボン大地震の被害をまぬがれたアルファマ地区で、袋小路のような石造りの家々や路地がきわめて複雑に入り組んでいる。私がここを通ったのはすでに夕暮れの時間で、哀愁の漂う生活の香りと、少し治安の悪い危険な香りが混在している細路地の街だ。ややもすると、香港の裏路地のような雰囲気さえして、ここの景観だけみれば、これがヨーロッパの街だと思う人はいないだろう。

リスボンの中心部からバスで20分ほど行くと、海辺に面したベレンという駅があり、ここの海岸が大航海時代のリスボンの繁栄と富を最も象徴している。幾多の船の出発と帰還を見てきた要塞、胡椒貿易によって建てられたジェロニモス修道院、そしてエンリケ航海王を先頭に、バスコ・ダ・ガマなどの航海者をかたどった巨大な「発見者たちの記念碑」が、海(実際はテージョ川の河口だが)に向って突き出している。そこで陽に当たったり、風に吹かれていると、どこか無性に懐かしい気分になった。

ジェロニモス修道院は1502年に着手された巨大かつ開放的な修道院で、そのなかはヴァスコ・ダ・ガマの棺がある。内装はむしろアラビア風で、はじめて「本物の」回廊を見た思いがした。ポルトガルが海洋世界の覇権を握った15世紀の大航海時代におけるリスボンの地位は、おそらく現在のニューヨークのようなものだったのだろう。

「世界精神の理念のさきの必然的契機が自然的原理として帰属している民族には、この契機を、世界精神の発展していく自己意識の前進のなかで完全に実現する任務がゆだねられている。この民族は世界史のなかで、この時代にとっての支配的民族である、-そしてこの民族は世界史のなかでただ一度だけ時代を画することができるだけである。」(ヘーゲル、『法哲学』、s347)

一時代を築いた覇権的帝国は、繁栄のあと、静かに世界史の後景に退いていく……。
西洋文明の基礎として栄えたギリシアは、中世から現代を通じて一貫して辺境困窮地域にとどまっている。ギリシアを征服して世界帝国を作ったマセドニアは、現在はギリシアの北にある小国家の名前として残るにすぎない。ローマ帝国を築いたイタリアの現代世界における政治経済的な影響力も同様に小さい。大航海の覇権を握ったポルトガルも、現在は過去の栄華への哀愁のみが漂う街である。そして七つの海を支配した大英帝国もまた、その分身であるアメリカに寄生して何とか新しい帝国のおこぼれに与っている。

「世界精神の現在の発展段階の担い手であるという、この民族のこの絶対的権利を向こうにまわしては、他の諸民族の精神は無権利であり、すでに自分の時代の過ぎ去っている民族精神と同様、もはや世界史においては物の数に入らない。」(ヘーゲル、『法哲学』s347)

自分はヘーゲルの説明を真に受けることはできないが、リスボンの細くて静かな路地を歩いていると、不思議なほどその言葉が妥当なものだという気持ちになってくる。ポルトガルは、いわば、まぎれもなく「すでに自分の時代の過ぎ去っている民族精神」だろう。今はすでに歴史の外に退出し、罪のない日の出と黄昏をくり返しながら、しずかに時を消化している。

春のイベリア半島の日の入りは遅く、夜8時頃が夕暮れで最も美しい時間だ。
路地と店内との境界があいまいなバルBarの入り口あたりに座って、外を眺めていた。通りから入りこむ風のにおいが、どこか痛切になつかしいと思うと、それは、一連の騒々しい新入生歓迎の行事がすぎさった後、静かになった駒場にただよう春の風のにおいだった。

移ろいゆく時の一瞬の美しさが、人生の時の有限さを悟らせ、静かな諦観を運んでくる。

大航海時代が立ち去った後のリスボンは、すでに歴史の外にのがれ出た街だ。
歴史の外にのがれ出て、静かにすごしていたいという気持ちになってしまう。自分はまだそうすることはできない。ここで勉強は出来ない。オクスフォードにもどってからの更なる研鑚を誓った。
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by akai1127ohi | 2007-12-17 20:46 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)

「持続的な瞬間ーオクスフォード経験記」 (その25)

「持続的な瞬間」 その25 (フィレンツェー都市と自由)

小学生のはじめの頃だっただろうか、郊外の画一的な集合住宅に住んでいた時、家のトイレにフィレンツェの絵葉書が掛けられていたのを覚えている。母親が掛けたものだ。私は子どもながらに、それを目にしていた。いつしか、フィレンツェはいつか訪れてみたい街の一つになっていた。

                         ***

フィレンツェは私にとって、ミケランジェロやドナテロよりも、むしろマキャベリやサヴォナローラの方が関心をひく街だ。

フィレンツェの黄金時代は、15世紀後半に尽きる。
マキャベリが生きた16世紀のはじめのフィレンツェは、フランスやスペインの興隆に埋もれて、すでに衰退の道だ。そのフィレンツェ黄金時代の最後のanomalyが、予言者的な雄弁家サヴォナローラだ。フランス軍の侵略を予言したということで宗教的権威を増したサヴォナローラは、堕落した教会と生活様式を厳しく批判し、二度にわたる「虚栄の焼却」によって、祝祭用の衣装や装身具、化粧品や楽器、俗悪な書物や官能的絵画を焼却した。しかし行きすぎた厳格主義に反発を感じた市民により、サヴォナローラは1498年、シニョリーア広場で火刑にふされる。

サヴォナローラが火刑に処された広場、Piazza della Signoriaを見た。
Uffiziの荘厳な柱と回廊をぬけると、空間だけで個人を圧倒する「広場Piazza」の政治的威力を認識させられる。はりぼての「民主の女神像」が、にわかにシンボライズされる天安門広場での出来事を思い出さないわけでもない。煽動的雄弁家のサヴォナローラが、極めて容易に煽動されながらもその方向性において予測不可能な群衆によって、救世主から涜神者として一気に火刑にふされる様子が想起される。

ウフィツィ美術館の前はすごい列だ。
美術が好きな人にとっては、一週間通い詰める場所なのだろうが、私にとっては、キケロを見つけて、キケロとtwo shotを撮ったら満足してしまった。何しろミケランジェロに恋に落ちているShizukaは、隅からすみまで見ている。そして、何気なく買った絵葉書に書かれた、ダンテの逸話や聖書のシーンについて、よく説明してくれた。Uffiziの一番上の展示室の端にカフェがあって、そこから市庁舎の時計塔がまじかに見えた。イタリアの旅に携行する書として、Q.Skinner、Foundations of Modern Political Thoughtは適切な書だったと思う。僕はShizukaが見入っているあいだ、Uffiziのカフェでそれをめくったりしていた。

ヴェネツィアに行ったとき、その教会建築を支える基礎として東方貿易による富があることを認識した。今回の旅では、富と並んで、かかる教会建築の創造性のもう一つの基礎は、自由でもあることがわかった。イタリアの都市共和国は、教皇権の介入にたいしては自治都市としての自由を、自治都市における政治の独裁化にたいしては政治参加による個人の自由を維持した。

個人の奇矯や独創性、非常識さが放任される社会的風潮がないところでは、芸術は育たない。ある種の毒がないと、だめなのだ。共和政ローマの最盛期においては、市民はモニュメントや彫刻、偉大な公共建築物を競い建てることによって都市への貢献と、自己の名声を高めた。芸術的創造性の基礎として、政治的な自由も不可欠だろうし、それによって、政治と芸術の幸福な結婚が可能になるのだろう。そして、北朝鮮とシンガポールにノーベル文学賞作家が出るには、まだかなり時間がかかるだろう、とも思った。

夕暮れのアルノ川の河岸を歩くと、高校時代によく自転車で通った、広島は牛田のあたりから眺める太田川の様子にも似ている。夕陽のせいかだろうか歴史のせいか、街全体が染まっているように見える。人生のなかで、いつかもう少し先に見るために、取っておいていても良かったような、そんな光景のような気もする。夕食は、学生の旅行にしては奮発して、フィレンツェのドゥオモのすぐ側面に位置し、カフェテラスからまさにドゥオモが見える位置にあるそのテラスで食べた。

僕らがフィレンツェで泊まった場所は、その名もMichelangeloというキャンピング式のホステルだった。市の中心部からバスで10分程度走った小高い山の上にあるのだが、山道がらせん状なため、直線距離では街からさほど遠くなく、丘の上からは、ドゥオモが手を伸ばせば届きそうな位置にたたずんでいる。一泊7ユーロで、二人ベッドのキャンプ小屋が東京ドーム大の大きさの敷地に広がり、衛生と若干の娯楽設備が保障された難民キャンプといった様相さえ呈している。

丘の頂上にはミケランジェロ広場という公園があり、夜でも若い人たちで大変にぎわっていた。展望台があり、そこから見える景色が素晴らしく、眼下にアルノ川が横切り、ライトアップされたUffiziの建物が浮かび上がり、その向こうにドゥオモが泰然として座っている様子が見渡せる。

そこに座って、ShizukaとNingningはアイスクリームを、僕は昼間に買った安いビールのボトルを飲んだ。三人で、フィレンツェにふさわしい形容詞を3つずつ挙げよう、と僕が言った。誰がどれを言ったかは忘れたが、それらは、若返らせるrejuvenating、気晴らしのrecreational、酔っぱらったintoxicatedだった。
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by akai1127ohi | 2007-12-07 21:36 | 「持続的な瞬間」 | Comments(0)
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