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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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カテゴリ:政治理論( 8 )

杉田敦編、『「国家」は、いま』、岩波書店、2011年

杉田敦編、『連続討論「国家」は、いま』(岩波書店、2011年)。専門の異なる研究者による、福祉、市場、教育、暴力をめぐって、国家の機能と役割を見定めようとする連続討論。後期高齢者医療制度や「戦争の民営化」など、国家をめぐる現代的テーマを糸口に、現代における国家の機能の変容やあり方を位置づけるもので、大変興味深く読んだ。

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国家をめぐる20世紀の「大転換」は、「国家がしてはならないこと」と「国家しかできないこと=国家がしなければならないこと」の双方を示してきたように思われる。また現代は、「これまでは国家してきたが、今後は必ずしも国家がする必要のないもの/他のアクターがすべきもの」をめぐる政治的議論の渦中にあるともいえる。

ナチズムやスターリニズムなどの実践は「国家が絶対にしてはいけないこと」を明らかにした。これについては、比較的合意が取れやすいといえるかもしれない。

他方、市場原理主義に対する信奉、イデオロギー化した自己調整型市場への傾倒は、逆説的に、国家しかその供給源がないもの、国家にしかできないこと、転じて、「国家がしなければならないこと」を浮き彫りにさせることにもなったといえる。

また現在は、「これまでは国家してきたが、今後は必ずしも国家がする必要のないもの/他のアクターがすべきもの」の認識と峻別をめぐって、政治と学問の双方で複雑な磁場が渦巻いている状況と思える。

NGOや市民グループなど「市民社会」の幅広いアクターの興隆を受け、国家や行政の肥大化や国家施策の官僚的・画一的な性格に対する厳しい目が向けられつつある。

しかしそのような国家批判/行政批判の背後には、「市民社会」の自発性や住民/市民/「国民」の「参加」を主張するものから、国家や行政への批判を「民営化促進」へとつなげることを意図するものまで、多様な議論/意図が渦巻いている。その意味で、この点における「国家批判」の帰趨、およびその政治的帰結は、いまだ流動的だといえよう。

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いずれにしても、学問によって極めて現実的テーマを論じることで、ある意味で、学問が理論や観念の中に安住するのではなく、現実によって試される、というような読後感も感じた(たとえば「アナルコ・キャピタリズム」の論理が「現実」と直面した時に受ける「洗礼」のようなもの)。

国家機能に対する過度の信奉/過度の不信という両極端から解放され、人間本位の視点から、「国家がしてはいけないこと/しなければいけないこと」の二面性を冷静に再認識する必要、その上で、後者を確実に遂行するような国家像を定位していくことの重要さを感じる。
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by akai1127ohi | 2011-05-18 01:20 | 政治理論 | Comments(0)

ロールズ『正義論』への関心のあり方

日進月歩の political theory について、本来は言及する資格もないが、『正義論』日本語訳再版をへて、先日参加したシンポジウム『六粋人』の感想を記しておきたい。

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シンポジウムは、パネリストの専門領域が多岐だったためか、様々なロールズの読まれ方、関心のもたれ方、利用のされ方といった諸点が伺えて勉強になった。現代におけるロールズへの関心の持ち方・あり方には、あえていえば以下の三つがあるように思える。

①法哲学領域における抽象的論理の次元―ロールズ『正義論』の論理性を厳しく吟味することに関心を寄せる。この立場からすると、後期ロールズは哲学からの逃避となる。(ただしこの議論は、専門性の代償としての「秘教化」、「タコツボ化」の傾向も)。

②社会政策の理念的モデルとして―社会政策の実証畑からのロールズへの関心。自由主義的(市民的)社会民主主義の政策の哲学的理念を求めてのロールズへの関心といえる。この場合、現実政策上におけるロールズの「使い勝手」が重要となろう。(ただし、「使い勝手」がなければこの関心は放棄されよう)。

③(政治)思想史上の著作としての『正義論』への関心。ギリシア以来の(政治)思想史の古典の延長上に、「現代の古典」としてのロールズを位置づける位相。『正義論』がどう読まれ、どう解釈され、現在どう位置づけられるか、という関心がありえる。(ただし、思想家に特化してテキストを読み込む「政治思想史」ディシプリンそのものの存在意義が問われつつもある)。

議論の中で、ロールズ『正義論』の「専門化」「哲学的洗練化」(①)と、現実政策の場におけるロールズ『正義論』の汎用性あるいは「使い勝手」(②)とが、反比例の関係にあるような印象もうけた。学問および出版における「正義」の活性化と、現実の政治におけるそのような理念的機軸の完全なる消滅という驚くべきギャップを目の前にして、『正義論』という哲学的素材を、いかにして現実に活かしていくか、持続的課題といえよう。
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by akai1127ohi | 2011-02-11 02:11 | 政治理論 | Comments(0)

「社会民主主義Social Democracy」を問いなおす

Don't give up till it's over, don't quit if you can
The weight on your shoulder will make you a stronger person

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10月9日~11日にかけて名古屋、中京大学で行われた日本政治学会2010年度研究大会に、「社会民主主義」に関する自らの報告を含め、参加してきた。

報告準備のための二週間は、首が回りませんでした。しかも、書けば書くほど自らの無能さと凡庸さを自覚させ、真夜中にパソコンに向いながら、六大学野球の一番勇ましい応援歌をやをら歌い出しては自らを叱咤しつつ、何とか報告用原稿を完成させた、というのが実情です。ふたを開ければ、それなりに準備した甲斐はあったと思います。が、同時に、ベテラン勢の報告に学ぶ所が多く、汗顔、精進の気持ちも新たにしました。

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私の報告内容とは直接は関連ありませんが、戦後日本でなぜ「社会民主主義」が根付かなかったは、それなりに共有されつつある問題関心と思える。

戦後日本政治の磁場には、二つの「レッテル」があったと思います。第一に、保守の側における「反共」。「反共」がひとたびレッテル化、スティグマ化されると、政治イデオロギーの硬直化が進み、保守の側における一種の思考停止を招いてきた。保守の側は、「反共」というレッテルの上に安住し、イデオロギー化された「自由社会」を自己反省しようとする姿勢が消えていく。また、「共産党」が唱える現実的な提案さえ、その内実を吟味せんとする労苦がたやすく放棄されます。

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しかし、マルクス主義や共産党の側にも、同様に病理的なレッテルがあったと思いますん。それが「社民/シャミン」です。「社民」という言葉の前に、こちらも一種同様の思考停止に陥っていたと私は思います。その言葉が出ただけで激しい拒否反応を示し、その概念や政策の内実を問うことなく、条件反射的に「日和見」、「裏切り」、「右翼修正主義」といったイメージで議論を停止させてしまったのではないか。その結果、「社会民主主義」概念がそのうちに孕んでいた豊穣な政策理念を、1955年以降の日本の共産主義勢力は、みすみす不毛なものにしてきたように思う。

保守の側での「反共」、教条的マルクス主義の側での「社民」という二つの「レッテル」は、戦後日本政治の思考停止に大きく貢献し、その結果、戦後の日本社会は多くの未発の可能性を逸してきたと思います。

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「社会民主主義」は失敗した、だからその言葉は捨てればいい、というのではなしに、positive な言葉としてそれを再利用する道を、冷戦後の状況で模索する意義があるように思う。
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by akai1127ohi | 2010-10-20 07:18 | 政治理論 | Comments(0)

ホブズボームあれこれ

8月後半は数本の「書評論文」に苦しみ、意外に時間を取られてしまった。
そのなかの一つ、イギリスの歴史家ホブズボームのものあれこれ。

E・J・ホブズボウム、『帝国の時代』(上・下)、野口建彦・昭子訳、みすず書房、1992
E・J・ホブズボーム、『ナショナリズムの歴史と現在』、浜林正夫他訳、大月書店、2001

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研究者が自らもある「ネイション」に帰属していながら、ナショナリズムを研究することは可能なのだろうか?自らも「ネイション」に所属している事実は、その研究者のナショナリズム分析にいかなる影響を与えるだろうか。

「私は、ネイションやナショナリズムを真摯に研究する歴史家は、明確な政治的意志を持ったナショナリストではありえない、ということを付け加えないわけにはいかない。・・・・・・ナショナリズムは、明らかに間違っていることを信じるように要求することがあまりにも多い。ルナンが述べたように、「自己の歴史を誤解することは、ネイションたることの一部である」。歴史家は職業上誤って解釈しないこと、あるいは少なくとも誤って解釈しないよう努力することを義務づけられている」。(『ナショナリズムの歴史と現在』、p15)

ホブズボームは、フェニアン派あるいはオレンジ党員であることは、アイルランドの真面目な歴史研究とは両立しないという。「それは、シオニストであることが、ユダヤ人の本当にまじめな歴史を書くことと両立しがたいのと同様である。歴史家は、書庫や書斎に入るときには、彼あるいは彼女の信念を置き去りにしなければならない」。

しかしながらこのことは、ホブズボームが「ナショナリティ」に関わるすべての同時代的状況からdetachしていることを意味しないだろう。

ホブズボームは本書の最後で述べる。
「結局のところ、歴史家が少なくともネイションとナショナリズムの研究と分析においていくらか前進を見せ始めているというまさにその事実が、よくあることだが、当の現象が頂点を越えたということを示唆しているのである。ヘーゲルは、叡智を運ぶミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ、と言った。今やネイションとナショナリズムの周りをミネルヴァのフクロウが旋回しつつあるが、これは願ってもない前触れである」。(同、p247)

ホブズボームの言うようにネイションという現象に夕暮れが来たからフクロウが飛ぶのか、それとも、フクロウが飛ぶことそれ自体がネイションという現象の夕暮れを招来しているのか、議論のあってしかるべきところではないだろうか。そしてそこに、自己に特殊な「ナショナリティ」からはdetachしつつも、「ナショナリティ」それ自体が問題となっている同時代的な状況設定それ自体からはdetachしえない歴史家の存在があるようにも思える。
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by akai1127ohi | 2008-09-12 21:45 | 政治理論 | Comments(0)

井上達夫、『自由論』、岩波書店、2008年

「自由の秩序」という問題設定の上で、その構想を可能にする状況として、国家・市場・共同体のトゥリア-デが提示される。

「必要なのは、国家・市場・共同体という三つの秩序形成装置を並存させて、相互の「抑制と均衡(Check and balance)」を保持するということです。・・・・・・国家の組織的暴力と集権化が孕む脅威に対しては、分散的決定システムとしての市場と分権的秩序としての共同体が保護膜となります。共同体の社会的専制に対しては、国家は人権保障と法の支配の貫徹によって、市場は共同体外での生活機会の提供によって自由を救済します。市場における経済権力の専制や搾取に対しては、国家は独占規制や社会保障によって、共同体は契約とは異質の互酬性原理に基づく相互扶助によって、自由と賃金奴隷になる自由や餓死する自由以上のものへと高めます。」(pp58-9)

かかる国家・市場・共同体のトゥリアーデは、しかし、そのうちの一つが不当に肥大化したとき、専制の危険性をもたらすとされる。国家が肥大化して、中間的な共同体を破壊したり吸収してしまった場合に生じる「全体主義的専制」、経済権力が不当に巨大化して生活を支配する場合の「資本主義的専制」、中間団体の専制や日本の「会社主義」など、共同体が個人を抑圧する場合に生じる「共同体的専制」、を指摘する。よって、国家、市場、共同体の分権的秩序構想は、相互の適切なバランスと抑制がとれたときに、「自由の秩序」の条件となるという。

最後の、(いちおう)仮説的な「場外補講」では、「根本」という人が井上先生に質問する。その内容は、国家・市場・共同体のトゥリアーデは、「自由の保障手段」についての議論であり、それによって保障されるべき自由それ自体については述べていない、したがってまた、国家・市場・共同体の相互的な関係は述べられていても、相互の適切な均衡点が示されていない、というものである。そこから、リベラリズムの基礎には「正義」がある、とする井上先生の正義論、いわば持論を展開する、という内容。

結果的に議論の筋道はよく通っていて、一気に読めた。
最後の神保町のビアホールでの議論という設定では、参加者は仮名ながらも、何となく想像がつく。「快楽的功利主義者」という設定の「伴藤」氏・・・・・・。最近、安藤馨、『統治と功利』が出たなあ。愚問ですが、という感じで発問する姿勢の「麦村」くん・・・・・・。最近会ってないけど、ご活躍のようだ。
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by akai1127ohi | 2008-03-28 14:04 | 政治理論 | Comments(0)

鬼はぁー外、福はぁー内、豆はぁー口

連日ギョーザの報道があるので、その分、ギョーザが食べたくなった。
「チャングムの誓い」でハン尚宮の言っていた、「味を思い描く能力」を使って、豚肉の細切れをギョーザに包んで揚げてみた。思い描いたとおりの味で、好物になった。

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法学部で、おそらく最後の私のテスト――「行政学」
テストのときの25番教室の独得の雰囲気も、これで最後だなあ。

席について驚いたことに、試験監督の一人は、同じ入学年度で、駒場でフランス語のクラスが一緒だったO嬢だった。そういえば先日、生協の前の銀行ATMの列で会ったとき、助手か何かになったって言ってたっけ。

あちらは、25番教室の講壇を背にして、こちらを見ている。
そうか、彼女はすでに黒板を背にして180度回転したのか……。

彼女が、問題用紙を配りに、私の横を通り抜けた。
なんとも複雑なシチュエーションだが、こういう時こそ、作り笑顔が大事。

試験中は、こちらとしても涼しい顔でエレガントにやりたいけど、そんなことなど忘れて解答用紙と格闘する。

そうして、時おり思った。
こういう諦念みたいな、でも腹の据わった気持ちは、どこから湧いてくるのだろう。
いろんな気持ちは差し置いて、とにかく黙ってやるしかない、という覚悟。やるべきこと以外のいかなることも、余計で、ただその人を冗長なものに映してしまう。

試験が終わって解答用紙を前の箱に出しに行くとき、O嬢は教室の脇のほうに退いていてくれた。私のためかどうか知らないけど、表情を作らなくていい分、とりあえず助かる。

とにかく、卒業に関する試験はこれで終わった。
さあ、3月まで、残った課題は一つとなった。

              ***

西尾勝、『行政学』、有斐閣、2001年
真淵勝、『現代行政分析』、放送大学教育振興会、2004年

もちろん、参考になる点は多い。しかし試験勉強を終えてみて、現在の行政学が、行政の現状のあり方をそのまま追認する機能を果たしていないか、とも思われる。

東大法学部では、行政学も民法も政治学も、辻清明や川島武宜や丸山真男など、おしなべて日本社会の現状に反省的な立場からの先行研究にたいして、それらを「実証主義」の観点から批判的に再検討することが主流になっている。憲法はそのなかでもまだ頑張っているほうだと思う。

戦後啓蒙や「近代主義者」と呼ばれる人たちが、それぞれの専門分野において担った研究はたしかにその分野での権威なのだから、後続の研究がそれら批判的に対峙するのは理由のあることだろうと思う。けども、後続の「実証主義」のトレンドが、逆に、日本社会の現状を追認するためのイデオロギーになってはいないか、とも感じられる。
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by akai1127ohi | 2008-02-07 19:29 | 政治理論 | Comments(0)

鈴木道彦、『越境の時―1960年代と在日』、集英社新書

鈴木道彦、『越境の時―1960年代と在日』、集英社新書、2007年

日本におけるPolitical Theoryや政治哲学の、生きたテキストたるべき問題提起の良書であると思う。

1954年のフランス留学とアルジェリア戦争への関わりから、帰国後の小松川事件とその李珍宇の言葉の分析、金嬉老事件とその後の裁判闘争への関わり―――――これらが著者の連続した内面精神の自叙伝として綴られている。小松川事件など、知らないことも多々あった。

本書が問いかける問題も多いし、読者が感じとる問題も、その人の経験に応じて、各々多いだろう。

李珍宇は、自発的な悪を犯すことで自らの自由を確認しようとした青年、日本社会によって与えられた悪という自我から、自ら主体的に絶望的な巨悪を選びなおそうとした人間といえるだろう。著者の言う「否定性の自由」とはその意味だろう。しかし李珍宇は、それを日本社会という環境の責任を追及するのではなく、徹底的に自らの責任として望む。犯罪が自らの自由の確認のためであれば、当然、それは自らの責任を欲するだろう。そうすることによって、李珍宇の最大の敵である日本人と日本社会は、「無視という侮辱」を与えられる。ここに筆者は、一人の在日朝鮮人の青年をこのような境遇においた「日本社会」の責任と、「日本人」自らによる責任の解明の必要を見る。

だが筆者は、金嬉老とは、最終的に離れていった。
それは、裁判闘争における筆者の助言が、金嬉老から「権力者の言葉」といわれたことも関係している。筆者は率直に、日本人の「『民族責任』の意識が皮肉なことに「その責任をいささかも追及しない李珍宇の刺激で形成され、その責任をひたすら追及する金嬉老によって、かえっておびやかされた」」とさえ述べてもいる。

それぞれがその立場で正対せざるえない局面があるとして、「日本人」と「在日朝鮮人」との関係はいかにあるべきなのか。問われるべき問題は、双方に多く、答えもなければ、共通理解も得られていない。しかし、これが日本の文脈において、「日本人」が問うべき問題であるということだけははっきりしている。
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by akai1127ohi | 2007-12-22 13:46 | 政治理論 | Comments(1)

山脇直司、『公共哲学とは何か』、ちくま新書、2004年

同書は、加藤先生の『統治二論』(岩波書店)と並んで、今年の三大収穫の一つになるだろうと思う。サントリー学芸賞をあげたいと思う。

本書は、conceptuallyに豊かで、消化するのに時間がかかる(なので、以下、私のコメントも、conceptuallyに分散的になってしまう)。また、「公共性」を概念軸とした、大きな枠組なので、内省をへないと、頭のなかで整理がつかない。「グローカルな公共哲学」、「活私開公」など、微妙な新語、造語もある。しかし、「専門化」という言い訳のもとで、それぞれの学問的ディスプリンが、totalな現実世界の把握から逃避している現状にたいして、きわめて規範的な問題意識とともに立ち向かっている、良書だと思う。

以下、いくつか本書と「公共哲学」のキーワードに沿ってコメントしたい。

1 公と私
本書は、戦前の教育勅語に見られた「滅私奉公」の考えで現代の公共性を再構築することを、何よりも否定・批判する。これは揺るぎない前提として一貫している。他方で本書は、ミーイズムや「原子化」、「私化」に向かう個人主義など、「滅公奉私」的思考も批判する。ひきこもり、低投票率、政治的無関心など、残念ながら、かかる意味での「滅公奉私」的思考が見られるのも現代日本の現実といえよう。

しかし慧眼なのは、現代日本において、復古的な滅私奉公と若年層のあけすけなエゴイズムが、実のところ結びついているという本書の分析だろう。

「この滅私奉公と滅公奉私という考え方・ライフスタイルが、対極にあるようにみえながら、どちらも個人の尊厳や他者感覚と切り離せない「公共性」の次元を欠いている点で、共通していることです。・・・・・・滅公奉私的な風潮が瀰漫する現代日本で、戦前の滅私奉公を美化するマンガ本が何十万部も売れている現状は、その端的な証しだといってよいでしょう。」(pp30-31)

およそ公共的責任とはかけ離れた「2ちゃんねる」の若者たちが、その無意味さを悟ると、急に国家や日本の国柄に自己投影しだして、小林よりのりや麻生太郎に連結する現状を想起する。

共通して公共性や他者感覚を欠いた「滅私奉公」、「滅公奉私」に対して、筆者は、個人の自発性や創造性を発揮させて、新しい公共空間を構築する「活私開公」という理念を対峙させる。「活私開公」という思想の内実については、これから実体化される作業であろうと思うが、基本的な方向性としては、意義のあるものだと思う。

公と私、全体と個人という関係性について著者のとる立場には、ほぼ全幅の信頼を置くことができるように思う。筆者は、南原の「民族共同体」の思想に立ち返って、南原の関わった「旧教育基本法」につき、それが利己的な個人主義を放任するものだとする保守派の思想に、間接的に反駁している。思い返してみれば、そのなかに「個人の尊厳」が二回も出てくる「旧教育基本法」は、フィヒテ哲学を援用して、戦後日本社会を「民族共同体」として再建しようとした南原によって起草されたのだ。「旧教育基本法」は、そのような、個人と共同体の関係をめぐる真摯な営為の産物であったという思いを強くする。そしていまさらながら、その「教育基本法」を改定して国家の「共同性」を回復したかのごとく手柄にしている安倍の、途方もない浅はかさと愚かさに、もう、「げんなり」とせざるをえない。

2 日本における「革新的公共哲学」の伝統
本書は、「公共性」という視点からプラトン以来の思想史を簡潔に再叙述するのだが、日本においては、「革新的公共哲学」の担い手として、丸山と南原が言及されている。そして丸山以後、その「革新的公共哲学」の伝統が、継承されていないと述べる。

具体的には、政治的現実のレベルでは、全共闘運動が、その甘えと不毛さによって、日本の市民運動の持続的で公共的な発展へとつながらなかったこと、学問的レベルでは、政治学でも経済学でも実証主義が席巻し、古典的な哲学の営為を現下の社会状況に活かそうとする学者を異端視さえするという事態が、今日に至るまで再生産されていること、を指摘する。

「かくして、70年代以降、社会科学界や哲学界は著しく創造性を失いました。それを本書は、「学問の業界化」と呼びたいと思います。そもそも学問の世界は、「それまでの蓄積をもとに批判と想像によって不断に更新されていくべき公共知」が主に追及されなければなりません。しかし、そのようなダイナミックな公共知が展開されず、同業者仲間のピアレヴュー(仲間うちの評価)やネポティズム(縁者びいき)によって、学問がなかば「私化」されていくような状態は、学問の業界化にほかならないでしょう。」(p121)

3 「学問の構造改革」
本書の区切りによれば、19世紀末葉から、社会科学の専門科学化が始まる。
学問や学科体制が細分化され、知的営みは極度に専門化された同業者内部での競争や評価によって再生産され続けている。ここにおいて「公共哲学」がめざすのは、専門分化した個別科学の成果を踏まえつつ、再度、社会研究の統合、社会の全体像の追及の志向である。
学問の構造改革、専門化された諸学の再統合と、それによって再び学問が、現代社会との緊張関係と、現代社会の全的認識への目標を回復すること、これが「公共哲学」の学問的狙いであるように読める。そしてそれは、以下のような現状認識に基づいている。

「冷戦体制下の戦後日本はマルクス主義や社会主義という理想が熱っぽく語られましたが、それは多くの場合、リアルな現実との対応関係をもたないという意味で、どうやら理想主義的理想主義、つまりは観念論、単なるユートピア主義に終わったようです。そして今度は、そうした観念論やユートピア主義への反動として、実証主義が学問界を、シニシズムが現在の日本社会全体をそれぞれ覆っているような印象を、筆者は抱いています。しかしそうした閉塞状況を打破するために、一部の論者によって、公共哲学ならぬ「国家主義的公共哲学」が喧伝されている現状は、時代錯誤以外の何ものでもありません。」(pp225-6)

ちなみに、著者によれば、丸山が批判した学問の「タコツボ化」は、皮肉なことに、「東京大学本郷キャンパスの学部学科体制の現状をみてもよくわか」るという。

以下は私の印象だが、政治思想史は、日本の学問のdisciplineのなかでは相対的に、「専門化」が進んでいる領域だろう。とくに本郷の政治思想史は、その「専門性」の代償として、文献研究の精緻さや、「定説を裏返すことの興味」のみに尽きている職業的な作業になっている。政治をtotalに把握しようとするスケールでの「認識への欲求」ではなく、単に職業的な論文を書くという卑小な目的のみが、なすべき仕事になっているように思える。そして、そのような職業上のメソッドに順応することが、職業的研究者の領分であるという認識さえあるように思う。(倒錯だと、今は思うけれども)。そこではもはや、政治や世界についてのtotalな認識など、二の次つぎ三のつぎなのだ。ましてや、現実の政治や、政治的運命と自己の研究との緊張関係など、研究の評価とは無関係となってしまう。だから、選挙に行かない政治学者のような、途方もない愚か者さえ容認されてしまう。選挙に行かないルソーイアンのような、噴飯ものの倒錯さえ、問題視されなくなってしまう。何とも情けない本末転倒のように思える。

4 公共哲学と戦争
本書で著者は、イラク戦争にたいする言論をめぐって、政治学者の反応を「御用学者」として厳しく批判している。他所では、本郷の、国際政治のT教授と日本政治外交史のK教授を、「御用学者」として痛切に批判しておられる。

5 価値的前提
アリストテレスの女性差別はプラトンよりも「後退」していた、それはアリストテレスの「限界」であった、というような記述において見られるように、本書は、歴史における進歩や、ある種の目的論的前提を公言している。それに固有の問題もあるだろうけれども、むしろ、歴史における進歩や普遍的な共通認識の構築を放棄した、「寛容な」相対主義こそ、現在の日本の社会科学の不毛さ、これから先の方向性についての展望のなさの原因であろうと思う。

6 公共哲学とカント
公共哲学という営為をなす上で、本書において最も示唆的な思想として言及されているのは、やはりカントだ。学問の専門分化・職業学問化を乗り越え、現実と切り結んで、totalな社会認識、世界認識に達しようとするならば、やはりカントにおける「理性の公共的使用」というideaが、頼るべき支柱とならざるをえない。また、当然ながら、公共哲学は、国民国家を超える枠組での認識を要求する以上、カントのコスモポリタニズム、世界市民的公共性という方向をめざすものにならざるを得ないだろうと思う。

7 私の感想
本書は、言うなれば、「公共哲学」のmanifestoだ。
manifestoは、問題提起としての大きな意義があるが、同時に、総花的すぎたり、達成可能性についての疑問符がつきやすい。しかし、問題提起が大きすぎるからといって実現不可能だと決め込むのではなく、その問題提起を真摯に受け止め、実体化するような姿勢で、「公共哲学」と接していきたいと思う。
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by akai1127ohi | 2007-11-18 03:45 | 政治理論 | Comments(5)
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