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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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カテゴリ:政治時評( 64 )

政治時評(24)―政治家と「判断力」

政治家の最も重要な商売道具の一つは、「判断力」と思える。流動的かつ一回性の状況の中で、自分がまさに闘争渦中の「当事者」でありながら、可能な限り客観的な視点から物事に対して妥当な判断を下し続けること、それは政治家にとって必須でありながら、同時に獲得・習慣化の難しい資質だとも思える。

してよい妥協といけない妥協の弁別、潜在的味方と反対者の一定の識別、一人でもできることとできないことの識別、押し引きの時宜など、そういった判断力は、経験に裏打ちされたやはりある種穏当な精神、決して極端化しない心性等によって涵養されるものかと思う。「判断力」は他方でまた、責任倫理への居直りと心情倫理への固執の双方を弁証法的に昇華させる、政治家の「見せ場」の一つでもあると感じる。

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他方、妥当な「判断力」を阻害する要因としては、たとえば①経験不足、②睡眠不足、③飲酒、④過度の嫉妬や焦燥、⑤過度の疑心暗鬼、⑥(主として若年性の?)精神動揺的心性、⑦自己英雄願望などが挙げられると思える。政治の営みが人間の営みである以上、判断力喪失の理由も、かなり人間臭いはずだ。

ルス・スカーのロベスピエール伝『致命的な潔癖さ(Fatal Purity)』という評伝には、フランス革命末期のロベスピエールが、刻々変動する泥沼の党派闘争の中で判断力を失ってい様子が克明に描かれており、自分を見失い、自分を見るまわりの目を見失った政治家の悲劇的な末路が強く印象に残っている。

よせばいいのに、怖いもの見たさで、今朝の橋下市長のテレビ出演を目にした(みのもんた『朝ズバ』5/18)。相変わらず「立て板に水」の橋下氏の弁舌と、まくし立ててれば立てるほど冷たくしらーっとした空気が支配するスタジオの様子の落差が印象的だった。完全に自分を見失い、判断力を失った政治家の姿が、そこにあった。
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by akai1127ohi | 2013-05-19 00:18 | 政治時評 | Comments(0)

政治時評(23)―橋下徹 : 「米治」で切られた薄熙来

2007年以来、中国、重慶市で強力な指導力を発揮して暴力団を根絶し、同時に中国でいう所の極左的(日本でいう所の右翼的)な「紅歌運動」によって、すなわち文革を彷彿とさせる共産党復古主義によって人心引き締めを図った薄熙来。

この「実行力に富んだ潜在的危険人物」を、北京の(それなりに現実的な)共産党指導部がいかに処置するのか、注目しながら見ていた。結果的に、温家宝らを中心とする集団指導体制は、突如にいささか強引な形ではあったが、「人治」の力で薄熙来を切った。

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2008年以来、大阪を舞台に社会の耳目を集めてきた橋下徹氏は、実行力と右翼性の点で、常に私に薄熙来を想起させる存在だった。この人物を、民主主義たる日本国民は、「人治」ではなく「民治」の力で拒否しえるか、問われてきたと思える。しかし結局、橋下氏は、そのような日本国民による自力の圧力ではなく、慰安婦発言と米軍風俗活用提案を契機とした米国の圧力、いわば「米治」で切られんとしている。

相田和弘氏の指摘するように、橋下徹の政治を、日本国民の内発的イデオロギー闘争によって克服できなかったのは残念と感じる。橋下徹、それは「米治」で切られた薄熙来といえようか。

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橋下氏の一連の発言に続き、「韓国人は売春婦」という西村真悟氏の発言。「日本維新の会」は、欧米など通常の「自由民主主義諸国」の基準では、まごうごとなき極右排外政党といえよう。橋下市長辞職、西村議員辞職は不可避だ。日本が欧米等「自由社会」と価値観を共有するなら、この極右政党に衆議院の54議席を与えている、われわれの社会の「常識」を問い直す必要必至と感じる。

若干だがメディアの潮目が変わった現在、橋下氏の政治や「日本維新の会」を、それこそ時流に乗る形であれなんであれ、「われわれ日本国民」自身が、根本的に叩いてつぶす必要があると強く感じる。少なくともそれくらいは「民治」の力でする必要があると思える。
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by akai1127ohi | 2013-05-18 03:03 | 政治時評 | Comments(0)

政治時評(22)―We Hold All These Truth To Be Self-Evident

米国オバマ大統領の演説を聞いていると、オバマがしばしば次の語句を好んでそらんじる光景に出合う。

We hold these truths as self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty, and the Pursuit of Happiness.

米国独立宣言の一句です。

そしてこの一句を、かつて福沢諭吉は、日本語話者にわかりやすいように、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、といへり」と訳した。

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今年1月、初めてアメリカ合衆国を訪れ、この言葉がアメリカの政治の日常的な確認事項として強い規範力を持っていることを痛感した。彼らはこの独立宣言の原理を、ことあるごとに確認しあう。大統領演説のなかで、議会図書館で、国立米国史博物館で、ユースホステルのカード・キーの表面でさえ。

We hold these truths as self-evident, that all men are created equal.

おそろしく空疎な言葉――どんなふうにも解釈できる。
おそろしく権威を持つ言葉――誰も否定できない。

オバマはこの言葉を、たとえばゲイやレズビアンの権利の直前に持ってきます。そのような作法で、オバマは、「all men are created equal」という言葉の「意味内容」を方向づけようとしている。それはまさに、「人間は平等に作られた」という文句の、その「平等equal」の意味を決するイデオロギー闘争であり、それを「自明 self-evident」たらんとする、オバマの主観的自己信条であろう。

アメリカ政治が、今なお、自負と誇りを込めて、反復的に We hold all these truth as self-evident とそらんじる光景に、率直に言って、「糞アメリカ、天晴れ!」という思いがした。

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5月3日の憲法集会@日比谷公会堂で、共産党と社民党の委員長/党首が、はからずも揃って1776年の米国独立宣言に言及したのは、私にとって大変印象的だった。

元来、自由主義思想の乏しい日本で、輪をかけてリベラル勢力が全般的に退潮化した今、社会主義派生の「革新政党」が、個人の自由や人権といったリベラリズムの価値を担っている。

安倍首相は――北朝鮮や中国の「異質性」を喧伝しつつ――日本と米国の「価値観の共有」を述べる。しかし、国家の名の下に基本的人権を制約し、個人の人権を「自明self-evident」とすることを拒否した『自由民主党』が、独立宣言の精神の下に政治共同体を建設したアメリカ合衆国と、いかなる「価値観の共有」をしているのだろうか。

We hold all these truth as self-evident――.

アメリカの有権者が彼らの建国原理を自負を込めて口ずさむのと同じ作法で、
「われらは平和を維持し、専従と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」というわれわれ自身の憲法を、臆することなく自負を込めて口ずさみたい思いがした。



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by akai1127ohi | 2013-05-07 01:03 | 政治時評 | Comments(2)

政治時評(21)―暗闇のなかに屹立する日本国憲法

「イデオロギー」についての定義の一つは、「(ある言葉の)意味をめぐる競合を決着させようとするもの」、「それは、『自由とはこれを意味し、正義とはあれを意味する』と断言する」行為や力であるとされる(M・フリーデン)。

ある象徴的言葉の意味を決定する支配的力をめぐる闘争を「イデオロギー闘争」とすれば、オバマ大統領は、「イデオロギー闘争」の名手だろう。例えば「アメリカ」という言葉で何を意味する/させるかという闘争は、オバマ就任後、オバマが意味させんとする意味に向けて、基本的にオバマ優位で変容してきた。

「アメリカ」という言葉は、「自由社会のアメリカ」、「ビジネス文明のアメリカ」から、「リンカンのアメリカ」、「ニュー・ディールのアメリカ」、「ケネディのアメリカ」、あるいはさらに言えば、「キング牧師のアメリカ」へと変容してきた。少なくとも、オバマが「アメリカ」を使うとき、その言葉が置かれる文脈を、慎重にかつ繰り返し、後者の側にずらしながら使っていることは明白だろう。

他方、「日本」という言葉で何を意味するか、という「イデオロギー闘争」は、まともに行われてこなかった。戦後のある時期以降、一方の側が「日本」の意味を恣意的に独占し、他方はその闘争に負け続けてきた、否、闘争には不参加の態度をとってきた。闘争不参加/闘争禁忌ゆえに、結果として「名誉の不戦敗」をしてきた。「日本」をめぐる「イデオロギー闘争」は行われてこなかった。

そのあいだ、日本国憲法だけが存在していた。
日本国憲法だけが、暗闇のなかに遠く屹立していた。
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by akai1127ohi | 2013-05-02 13:08 | 政治時評 | Comments(0)

政治時評(20)―安倍首相の「書生論的タカ派主義」と民主党のバランス感覚

山口参院補選で民主党敗退(4月28日)。

やや予想以上の大差(江島氏29万:平岡氏13万)とはいえ、安倍政権の比較的「順調」な政権運営、首相地元、自民支持率46%の山口県という条件では、結果自体は元来予測可能だったと思える。であればこそ、「自民圧勝」、「参院選へ自民加勢」、「無残に散った平岡氏」という読売産経メディア報道は認識として単純すぎるし、それ自体が世論を作りだす一つの意図と思える。

昨年の山口県知事選(山本氏25万、飯田氏18万)同様、今回の補選でも、山口県の岩のように固い保守地盤を感じさせる。だが同時に、県知事選後も山口に腰を据えて地域に根差した活動を展開し続ける飯田哲也氏、民主党リベラル派の代表的人物であった平岡秀夫氏、そして脱原発ミニ集会を繰り返してデモの先頭を歩いた菅元首相の姿など、硬い保守地盤を打砕く、「涓滴岩を穿つ」がごとき動きも生まれており、それらの意義に大に期待したい。

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「安全運転」はどこへやら。自民党の風向きは、もはや右傾化へ傾斜する安倍氏を牽制する自制能力、自重機能を欠いている様相である。安倍氏の政治に並々ならぬ危険を感じるのは、そのタカ派思想が遠大深淵からというより空疎観念的だからであり、現場的ではなく書生論的なゆえだ。戦争を知ったもののタカ派主義ではなく、知らない者のタカ派主義、本当は脆く空疎凡庸な人間の軍事傾斜主義と感じさせるからである。

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他方、民主党の細野幹事長はあいかわらず慎重に立ち位置をめぐり行ったり来たりのバランス感覚をとっているが、右傾化に対する批判的言明は比較的基軸が定まってきた。海江田代表も96条改正反対を明示化するなど、相対的にリベラル路線への傾斜を比較的強めている。もちろん、長島氏や(表向き沈黙の)前原氏など保守系議員の反発はあるが、参院選までは相対的にリベラル傾斜しつつあるプラグマティスト執行部が乗り切るのではないかと感じる。

三年間の民主党施政の「混乱」を積極的に擁護する立場ではないが、新参者の民主党による政治「混乱」なるものは、保守系メディアやネットなどいわば「文化装置」によって作られたものという側面があった。加えて、その「失政」に対する世論の制裁は十分すぎるほど受けてきた。

リアリズムを欠いて著しく右傾化した自民党に対し、民主党はかろうじてバランス感覚を保っている。腐っても野党第一党にいる。そろそろ民主党に対するメディアや有権者の風向きも変わってしかるべきと感じる。
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by akai1127ohi | 2013-05-02 13:07 | 政治時評 | Comments(0)

政治時評(19)―「誰得?」の4・28主権回復行事と安倍政権「信条ファナティズシム」への危惧

4・28「主権回復の日」式典は、「安倍色は参院選まで自制」のなかで見せた「勇み足」なのか、それとも、一つ勇み足した途端、やはり自己信条へどめどなく傾斜してしまったのか。安倍氏は案の定、なぜ前回の政権が失敗したのか学ばないまま、結局、空疎な自己信条を幼稚に吹聴した「一回目」に戻りつつあると思える。

4月28日「主権回復の日」行事は、沖縄に対して言語道断の発想であるのはもちろんのこと、米国との関係で見ても、米国による占領施政から、第二次大戦の連合国(United Nations)の正統性、あるいは「東京裁判の見直し」にもつながりかねない方向性で、米国に対しても「無用の」刺激や一抹の危惧を与えるものと思える。「主権回復の日」式典は、方々を刺激するだけで益のない、いわば「誰得?(誰が得する?)」の行事といえよう。

それにもかかわらずかかる発想を打ちだす点に、安倍政権が、功利打算に基づく「リアリズム」で(すら)なく、むしろ、相変わらず産経文化人のイデオローグに囲繞されて自分たち特有の「物語」に心酔していく、「自己信条ファナティシズム」に近いことを示唆していると感じる。

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安倍氏はこれまで、現行の日米安保体制の「片務的性格」(日本が一方的に守ってもらっていて、アメリカを守ってやっていない性格)を「双務的」なものに変えなければいけない、という論理から、集団的自衛権や憲法改正を口にしてきた。この論理はやや理解できまいままでいたが、しかし結局、それも「祖父岸信介の意志を継ぐ」というような、極めて個人的な思い入れによって、岸の使った「片務性」「双務性」議論を口にしているだけだであろうと拝察する。

岸信介は古い時代の政治家だから、日本を米国と軍事的に「双務的」関係にしたい、できるものなら言葉通り互角対等の関係で覇権を競い合いたいという、いわば「大東亜共栄圏主義」の名残/地金があった。首相就任後、訪米の前に東南アジアを歴訪して関係強化を図ったのも、経済的理由と同時に、「アジアの盟主」としての日本を再構築したかったものと思える。

その後、状況は大きく変わった。アメリカは唯一の超大国で、日本がそれと軍事的経済的に「伍す」というのは、常識では考えられなくなった。中国の台頭によって、日本が「アジアの盟主」なる自己認識を吹聴するのも憚れるようになった。安倍氏は、このような変化にやや鈍感なまま、ただ岸のヴォキャブラリーを口真似している。

だから、今、状況を無視して安倍氏が日米同盟の「双務的性格」をいうことは、そんなことは全くありえないのに、論理的には皮肉にもチョムスキー氏が主張するのと同様、ニューヨークやパールハーバーに日本の自衛隊(安倍氏流には「日本国防軍」)の在米基地を要求することになると思える。現実的にはありえないのに、その方向に向いた理屈を使っていることになる。

それゆえ、安倍氏の発言は、「日米同盟」の深化といいながら、ところどころでアメリカをイラっとさせている。

安倍氏の発想は基本的に空虚で、何より現在日本がおかれた時代的状況をほぼ無視している。一部の「お友達」や産経文化人と共有された特殊な「物語」のなかに生き、国政をその「物語」の実現手段にとして個人的に利用している。安倍政権では、日韓・日中はもとより、米国との関係も最終的には大変危くなると、強く危惧し警鐘したい。
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by akai1127ohi | 2013-04-27 12:14 | 政治時評 | Comments(0)

政治時評(18)―民主党の政治理念と「友愛/博愛」の行方

民主党はその立ち位置をめぐる混迷を続けている。しかしそれは、換言すれば、「民主党のあり方」は依然として流動的可能性を孕んでおり、それゆえ、民主党の理念的姿勢をめぐって、ひいては日本政治の今後の理念的対立軸のあり方をめぐって、論壇やメディアでの議論が比較的活発化しているように思える。

政治理念やイデオロギーは、(「実体」としての運動に比べ)「表象」としての観念・言葉の領域ではある。しかしそれが人々を結集し組織化するシンボルとなり、政治的対立軸を作りだすという点で、とりわけ政治的対立軸が不在化した現在、今更ながらその重要性を感じる。

民主党には明確な政治理念が欠けていたことは周知の事実だったが、2009年政権交代の際は、それでもうまくいくかもしれない(=明確な政治理念やイデオロギーのないプラグマティズムの方が実際は良く統治できるのかもしれない)という憶測もあった。しかし、3年間の民主党政権は、一定程度にソリッドな体系的政治信条を共有しない政治集団が、「自民党に代替する政権党」として存在することの困難を示したと感じる。

たとえば鳩山、菅、野田氏ら民主党政権期の主要政治家のインタビューを踏まえた、山口二郎氏のコメント。

「彼らに共通しているのは、『自分たちが何をやったのか』についてあまりよく理解していなかったということです。子ども手当や高校無償化など、社会民主主義的路線を主張した者が要求したことは断片的に政策化しましたが、『何のためにその政策を実現したのか』『その政策を実現することによって、日本の社会をどうつくり変えていくのか』という、より次元の高いレベルでの意味づけができていない。だから当時の野党やメディアから『ばらまき』と批判されたら十分な反論もできないままずるずると後退した。……政治を担った当人が、明確なビジョンや目標を理念のレベルで認識していなかったところに根本的な問題があった」(山口二郎氏、「お任せ主義を越えていま『リベラル』を獲得し直す」、『世界』、2013年3月、pp156-7)。

菅内閣の(ブレア政権を真似た)「雇用、雇用、そして雇用」も、野田政権の「チルドレン・ファースト」も、方向性としては日本社会の現状の必要性と一致していたと思うが、そのような個々の政策を確信を持って支える盤石の理念的大義に基づいていないため、大変表層的な、「口をついて出た」程度の掛け声になってしまった。

2009年政権交代の失敗以後、あらためて、「自民党的保守」に対抗する、「社会民主主義的理念」あるいはそれを基盤としつつそこから派生したイデオロギーの「日本における」確立作業の必要性を強く感じる。

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民主党はこの点、依然として複雑な存在としてあり続けている。

たとえば細野幹事長。
昨今の細野氏は、民主党の政策や政治的理念に関して、憎いほど慎重に言葉を選んでいる。細野氏は、最新の『中央公論』(2013年3月号)で、田原総一郎に民主党の基本姿勢を問われ、次のように述べている。

「フランス国旗の三色はご存じのように『自由、平等、博愛』。この最後の『博愛』が政治の枠組みのなかでどんな位置づけになるのか、よくわからなかったんですが、特に政権を担うようになってから、非常に大事なものだと実感したのです。……自民党の人に三つからどれを選ぶかと聞けば、やはり『自由』だと思うのです。そしてかつての社会党は『平等』。では民主党は?というところで、今まで『自由』も大事、『平等』も大事、と揺れてきた面があるのですが、『博愛』を『共生』と言い換えて、この価値こそ重要で、そこに党が依って立つ基盤があると考えたんです」(細野豪志氏、「民主党は何を掲げて闘うのか」、『中央公論』、2013年3月号、pp51-2)。

2009年の民主党政権交代直後、民主党の性格について政治学の宇野重規先生が、旧社会党系の社会民主主義、小沢氏に代表される地域重視の保守主義、鳩山由紀夫氏の「友愛」に象徴される道徳主義的な自由主義という、いわば「民主党のトゥリアーデ」を指摘されていた。

そのようなトゥリアーデは本来理想的なものであったが、民主党政権の3年間を見ると、たとえば鳩山氏的な「友愛」は思想的に寄り合い所帯の民主党を纏めることができなかった。

現在の民主党がなお「博愛/友愛」「共生」を唱えるとすれば、それは、その「博愛/友愛」を、「自民党的保守」に対抗しえる確固とした理念へと鍛え上げる作業を伴わなければならないだろう。ゆめゆめ、「リベラル」「社民」といった言葉は嫌だという保守系議員への配慮から、曖昧模糊とした「友愛/博愛」でお茶を濁しましょう、という方便であってはならないはずだ。
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by akai1127ohi | 2013-04-20 00:47 | 政治時評 | Comments(0)

政治時評(17)―民主党の勢力構図とその政治的機能

民主党は、やや接近して見れば、「民主党」という名前で一つの団体と括ることの妥当性そのものが問われるほど、内部に混迷した多様性を抱えている。「民主党」一般を語ることの難しさ、「民主党」という言葉で想起する相互イメージの差異も、この多様性から来ると思われる。

以下、私の独断と偏見によって、民主党の57名の全衆議院議員を、「リベラル」から「保守タカ派」までの九つの立場に区分してみた。民主党に対するより妥当な認識と、それに基づいた政治的に妥当な判断のための材料となりえれば幸いと感じる。

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【リベラル】(9条護憲、脱原発、市民運動、ネオリベ路線への抵抗力やや弱)
荒井聰、生方幸夫、菅直人、近藤昭一、辻元清美、袖木道義、若井康彦

【社民系】(旧社会党出身者を中心、護憲)
横路孝弘、赤松広隆(衆院副議長)、郡和子(「リベラルの会」にも参加)

【プラグマティスト福祉派】(三位一体改革+「福祉重視」的立場。消費増税への抵抗力弱)
長妻昭、山井和則

【プラグマティスト主流派】(官僚出身者多。状況依存的な政治的機能)
安住淳、枝野幸男(ややリベラル)、岡田克也、海江田万里、菊田真紀子(ややリベラル)、岸本周平、後藤斎、近藤洋介、階猛、田嶋要、中川正春、中根康浩(ややリベラル気味)、古川元久、細野豪志、馬淵澄夫(やや独立系)、山口壮

【プラグマティスト保守派】(非自民党出身者による「保守」政治)
原口一博、松本剛明、渡辺周

【松下政経塾系保守】(ネオリベ的傾向やや強し)
玄葉光一郎、武正公一、野田佳彦

【民社系】(民社党出身者を中心に形成。かつての「反共色」はやや後景化)
大畠章宏、高木義明、古本伸一郎

【保守穏健派】(穏健保守)
黄川田徹、福田昭夫

【保守タカ派】(自民党右派と同等ないしそれ以上のタカ派)
長島昭久、前原誠司、松原仁、笠浩史

【分類留保ないし分類不可能】
泉健太、小川純也、大串博史、大島敦、大西健介、奥野総一郎、後藤祐一、篠原孝、玉木雄一郎、津村啓介、寺島義幸、三日月大造、吉田泉、鷲尾英一朗

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上記のうち、「リベラル」、「社民系」ならびに「プラグマティスト福祉派」は、自民党とはかなりカテゴリカルに異なる政治勢力といえよう。

民主党のイデオロギー的立場を最も示している「プラグマティスト主流派」については、その政治的立場・イデオロギー的機能は状況依存的であり、したがって彼らに対する政治的評価もまた状況依存的と思える。自民および維新の膨張を背景に憲法改正を含めた議題がアジェンダ化される現在の状況では、これら民主党の「プラグマティスト主流派」の動向が趨勢を方向づける主要因と思える。現在のところ、「プラグマティスト主流派」の動向は、自民・維新によって右方面が飽和状態にあるイデオロギー布置のなかで、相対的にリベラル/護憲派として機能する可能性がある。

「プラグマティスト保守派」ならびに「保守タカ派」は、民主党を「中道左派/中道リベラル」化しようとする外部からの働きかけに対する抵抗要素であり、民主党の「リベラル左派」政党化を押しとどめる主要因となっている。
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by akai1127ohi | 2013-04-20 00:19 | 政治時評 | Comments(1)

政治時評(16)―民主党綱領と「民主党的日和見主義」の可能性

今年(2013年)2月、民主党の「綱領」が発表された。

率直な感想は、毒にも薬にもならない文章。綱領作成の過程では党の理念や方向性をめぐる同床異夢も示され、下野してなお民主党の混迷は深い。しかし、その民主党がなければ、野党第一党は日本維新の会である。そのことが、目下の民主党に対するよりプラグマティックな判断を依然として迫ってもいるとも感じる。

民主党の綱領作成作業では保守系議員の反発により「民主中道/中道リベラル」は不採用となった。これは単なる「言辞の問題」であると同時に、否それ以上に、それを通じて「どの言葉象徴を採用するか」という民主党内のイデオロギー的力関係(の錯綜)を反映するものとも感じる。

現在の民主党には、理念的には「保・保二大政党」と「保・中道リベラルあるいは中道左派の二大政党」をイメージする議員が混在している。しかし「保・保二大政党制」などあるのだろうか。二大政党のモデルらしき米国でもオバマ政権は日本の民主党より所謂「リベラル」といえよう。「中道」や「リベラル」という言葉に対してさえ(「イデオロギー的」「どちらかといえば左翼的」であるとして)拒否感を示す民主党議員の保守性は度し難いものがあり、本来、これらの議員は即刻民主党から去れと言いたい。民主は分裂を辞さぬ党理念の明確化が必要であろう。

このような党理念の不一致、とりわけ保守系議員の抜きがたい頑迷固陋からして、民主党はその内部から自律的内在的に「リベラル左派」政党へと脱皮変容することは、比較的困難と思える。

他方、民主党は、他の政党勢力との関係性のなかで、他律的外在的に「リベラル左派」政党らしきものになりうる可能性は依然として存在していよう。他の政党とのイデオロギー的布置のなかで、相対的にそのイデオロギーを担う政党が不在の地点に、得票を誘引とする戦略上の理由から、他律外在的に移動していくことである。

右傾化した自民党、日本維新の会など、右方面のイデオロギー分布が飽和状況の現在、それとの戦略的対応上、民主党が「リベラル」ないし「リベラル左派もどき」へ移動していくことは多いにありえる。民主党と日本維新の会との選挙協力は消滅したが、これは民主党が明確に拒否してそうなったというより、明確に「拒否された」からという側面が強い。とはいえ、そうなった以上、民主党は自民や維新との差異化を図るインセンティブは比較的強まるであろう。実際、昨今の民主党の幹部政治家の発信は、その萌芽を感じさせるものが多い。

たとえば細野幹事長。
細野氏(および枝野氏)はこれまで、全くのプラグマティスト、「中間動揺派」だった。しかし、細野氏自身の思想信条からではなく、増長する日本維新の会、参院選まで自制とはいえ右ブレ止まらぬ自民党を前に、他律外在的に、政党戦略的に、頼りなく芯を欠いた日和見主義的に、今更ふうに、「リベラル」ポジションを比較的明示化する発信を続けている。そしてこのような、「何とも頼りない右往左往しながらの日和見主義」は、「実行力に富み確信と行動力に溢れた右翼国家主義」より、いくらも良いであろう。私はかかる「民主党的日和見主義」を、確信的左派と比して否定的に語るより、なるべく、確信的右派と比して肯定的に、in the affirmativeに語りたい。

民主党は下野してなお混迷深く、アイスクリームのように形の定まらない日和見主義者の集団である。しかしそのことは、確信に満ちた右翼軍国主義者の巣窟に成り下がった自民党や、石原と橋下の二枚看板でゴロツキルンペンプロレタリアを束ねた維新の会とは決定的に異なり、日和見主義的に右往「左」往する可能性を残しているということでもある。

どちらの風が吹こうが右を向いている自民・維新に対して、日和見主義の民主党は、風の方向如何で右に向いたり左に向いたりするのである。常時右を向いた「一貫性」より、風向きで右に向いたり左に向いたりする「右往左往」の方が、いくらも良いであろう。少なくとも、そこにはカテゴリカルな違いがある。したがって、民主党を左を向かせる風を、有権者が送り続け、意識させ続け、アイスクリームの形をわれわれの望ましい方向へ変えていくことが肝要だろう。

その意味で、安倍首相のおひざ元である山口県から、平岡秀夫氏が参議院補選への立候補することになったのは、これからの民主党の性格を規定する上で、一つの試金石となると思える。山口県の参院補選ならびに平岡氏については、稿を改めて述べたい。in the affirmative に。
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by akai1127ohi | 2013-04-07 06:32 | 政治時評 | Comments(0)

政治時評(15)―民主党政権の「混乱」と自民党政権の「安定」

2009年政権交代以後、民主党による政権運営は実に素人政治だった。そんな素人政治であったがゆえ、多くの人が政治に関心を持った。こんな不慣れな連中で大丈夫だろうか、結構いいことやるじゃないか、いやいやそれじゃあ駄目だ、いやいやここは選んだんだからやらせてみよう、いやそれでもあまりに稚拙だ……などなど。2011年の地震と原発事故もまた、多くの人に社会的関心を引き起こし、開発型国作りからの転換や自然エネルギーなど、この国のあり方の原理的な問題について、多くの建設的提案も湧き起ってきた。

民主党政権の三年間は、政治が大変喧しかった時期と思える。多くの人が政権の帰趨に関心を持ち、右往左往する民主党の頼りない政治を、批判的にであれ共感的にであれ、なんであれ、かなり注視して議論した。そのやり方ではだめだ、もっとこうしろ、もっとああしろと、民主党に対する注文という形でも、今から思えば、政治的な意見の高まり、表明、議論があった。

昨年(2012年)12月、自民党に政権復帰して以来、政治は本当に「安定」した。
そのことをつとに感じる。さすが自民党だ、「統治に相応しい党(natural party of government)」 (Y口二郎氏)だ。政治が本当に「安定」した。政治は自民党に、職業政治家に任せるに限る。不慣れな連中が政治をやると混乱する。政治は自民党に、一部の職業政治家に回してもらうに限る。そういう感じで、日本の政治は再び、本当に「安定」した。

このような自民党による政治の「安定」を目の当たりにしながら、むしろ私は、政治が「混乱」し、政府も有権者もともに右往左往しながら、未熟成熟含めて多くの人が政治に対して関心を高め、様々に議論した民主党の三年間の方が、はるかにデモクラシーの実践であったと思う。日本有権者が初めて経験する本格的政権交代に未曽有の大震災と原発事故。わかりきった解のないなかで、政府も有権者も、みんなが右往左往しながら、行き過ぎや行かな過ぎや、滑稽も非効率もありながら、多くの人が政治に関心を持ち、声も上げるようになった。

自民党政権復帰による政治の「安定」への回帰は、やはり政治は自民党に任せるに限る、職業政治家に任せるに限る、訳の分からん未熟な新参者では困るわな、という諦念に基づいた「安定」だろう。このような卑屈な民衆的智慧によって再来した自民党的「安定」よりは、右往左往するアマチュア政治に対して、滑稽な提案から玄人風の提言まで有権者が自然と喧しく声を挙げる、けたたましい政治の「混乱」こそ、今から思えば、デモクラシーとして当たり前の姿があると思えてならない。
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by akai1127ohi | 2013-03-30 02:15 | 政治時評 | Comments(0)
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