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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
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カテゴリ:政治時評( 64 )

夫婦別姓訴訟をめぐる最高裁判決を読んで

些細なきっかけで夫婦別姓訴訟をめぐる最高裁判決を散読してみる。

読みながらなぜか、窃盗罪は一見倫理的に正しいが、財産を所有するものの利益のみを擁護しているとして法の階級的恣意性を指摘したマルクスの批判を思い出した。(財産を持たない者は窃盗罪の恩恵にそもそも与れない)。

法律は、その理論だけを追うと理論的に完結しているものの、経済関係やジェンダー関係など「法律外」との権力関係で見ると、法律がある種の現状維持の機能、すなわち「現状から利益を得ている人たちの立場」を正当化する機能を果たしていることがしばしばあるだろう。(法が「イデオロギー」として機能している、とも)。

最高裁は、その辺、もちろんプロなので、話を「法律の内部」にだけ限定して論理の一貫性を築いている。同時に、自分たちの論理の一貫性が法律の「内部」だけのものであるということも自覚しているようである。

でありながら、「法律外の権力関係」に口を挟むのは法曹家として「越権行為」であるとする職業的矜持か、法律外の権力関係は務めて捨象するという、良くいえば謙虚な、悪くいえば退嬰的で野心を欠いた保身も行間から感じる。

最高裁判決を読みながら、形式的権利における男女平等が実際の社会的承認における男女間の公平に必ずしもつながらないという、第二波フェミニズムが提起してきた長年の課題を強く感じた。

20世紀フェミニズムの教科書的理解では、第一波フェミニズムが両性の法的政治的権利(とりわけ参政権)を主張して登場するも、20世紀前半でおおむねその目的を達成した後、そのような形式的な権利が実現しても様々な社会構造上の不利な構造(いわゆる「ガラスの天井」)が存在することを自覚し、それゆえ第二波フェミニズムが出てきた(1960年代以降)。

現行の民法750条でもまさに、「女性は男性の姓に改姓すべし」とは書いていないし、夫婦が「協議」して決定できることになっていて、法律の上では差別はない。だが、現実的には96%の女性が男性の姓を名乗ることになっている。それには、ミクロな権力、「常識」、社会的体面、風習などいろいろな「法律外」の構造があろう。

現実には民法750条は、夫妻どちらかの氏を「協議」によって選択できるとしながら、同条文は実質的には「男性の氏による夫婦同姓」として機能している。しかし、法律にしたがえば、きちんとしっかり、なんともPC的に、結婚に伴う氏の変更は両性の「協議」によるのである。罵詈雑言の名手マルクスだったら、「なんとありがたき『協議』による決定!」と毒づいただろう。

「夫婦が『協議』によって氏を決めれば96%が男性の氏となる」という現実的なミクロな構造/社会的な磁場が歴然と存在するなかで、「協議による夫婦同姓」を法律が定め、「改姓の不利益は存在するが通称使用で緩和される」と述べることは、どのような機能を果たし、誰の利益を代弁しているか。民法750条が、「両性のうちどちらの側の既得権」を擁護する機能を果たしているかは、明瞭のように思える。

判決では、改姓に伴う不利益の度合いが社会通念上許容範囲かどうか、というところが焦点になったようで、判決が投げたように国会が議論するべきなのだろうが、とはいえ、国会の現状は司法よりもさらに「救いなし」のような感覚なのだから、これまたなんとも・・・という感覚が残る。
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by akai1127ohi | 2015-12-24 02:24 | 政治時評 | Comments(0)

2015年安保がもたらした変化:③「リベラルな政治価値」の擁護と「ネオリベラルな経済原理」への対抗

2015年安保がもたらした第三の変化は、運動の思想的性格をめぐるものであり、極めて図式的だが、さしあたり、「リベラルな政治価値」の擁護と「ネオリベラルな経済原理」への拒否との共振の萌芽と形容しておきたい。

SEALDsを媒介とした国会前デモの思想は、立憲主義の擁護にしても、国民主権の再確認にしても、またそれらを支える、それぞれが自律的に思考して自分で判断し行動する個人の形成にしても、端的に「リベラルな政治価値」の再確認であった。中野晃一は、国会前デモの特徴を「いわゆるマルキストとか、左派、革新の運動ではなくて、個人主義、自由主義のマスムーブメントだということ 」に見いだしているが、2015年安保のクラシカルな性格を言い当てるものであろう。

しかし同時に、そのような若者の運動の背景に、「生活の不安感が増している現実」もまた広く指摘されてきた。交通費が捻出できずミーティングにも参加できない学生や、奨学金で多額の借金を背負う大学院生などの声は、安保法案反対の訴えの背後に、陰に陽に垣間見られた現実であった。その意味で、2015年安保も新自由主義的統治という経済的文脈から離れては存在しえず、したがって、「リベラルな政治価値」を擁護する運動が「ネオリベラルな経済原理」に対してどのような態度を決定しえるかは、今後の焦点の一つとなろう。

他方、元来このような「ネオリベラルな経済原理」に原則的な立場で対抗してきたマルクス主義出自の革新政党はどうだったか。たとえば共産党は、民主党政権時代からTPPや法人税減税、雇用の流動化といった課題で最も原理的な基軸を体現してきたといえる。

しかしながら、2011年の東日本大震災以降、これまでの動員型運動とは別の回路で生じた脱原発デモを受けつつ、旧来の革新政党もまた、独善性や教条主義を過去のものとしながら、新しい運動文化と順応、並存するようになった。また、民族差別やLGBTなど伝統的には「階級闘争」に従属するとされてきたマイノリティの課題に対し、その闘争の主翼を担うようにもなった。2015年安保もまた、このようなマルクス主義出自の左派政党の変化を掉さすものであったといえよう。

安倍政権という「クラシカルな反動」に直面して、デモによって可視化された世論の突き上げを受けながら、複数の勢力が一体となって「クラシカルな応答」を突きつけた2015年安保の力学は、いわば、「リベラルな政治価値」の擁護と「ネオリベラルな経済原理」の拒絶とを結びつける可能性を秘めている。そのような力学の最も政局的な現れが、来たる2016年参院選に向けた民主党と共産党による選挙協力の試みであり、安倍政権に代わる「次の政権」の枠組をめぐる模索であろう。

民主党政権が民衆的基盤を欠いたがゆえに挫折したというのであれば、それは民衆的基盤を作りえなかった民主党の責任であると同時に、民主党を自分たちの政権へと鋳り直すことのできなかった、われわれ民衆自身の責任でもあるだろう。「アベ政治を許さない」という流行語は、それが本気であればあるほど、アベ政治に代わる「次の政権」を作り出して支える民衆の力に転化するはずである。

では、そのような民衆との力とは何か?

それは、9月18日から19日の未明にかけて、議会での採決直前におよんで今なお、この国の主権者として自分たちの意志を反映させようと、デモの人波から自然と湧き起こった、あの「野党がんばれ」というコールの、その先にあるものであろう。

                    ***

2015年の夏を彩ったSEALDsの言葉を追っていると、時折、重要な局面で「賭け」という言葉に遭遇し、2015年安保の高揚がそのような「賭け」を契機としていたことを想起させられる。未来は常に不確定であり、その帰趨は誰にもわからない。しかし、未来が不確定であるということは、われわれがその帰趨を作りえるということでもあり、それは常に一種の「賭け」であろう。

そのような小さな「賭け」が大きな政治変動の巨波を生み出し、今なおその政治変動の帰趨が未来に向けて開かれている時、デモクラシーを「永久革命」と喝破した戦後政治学の言葉を、再び翻訳して見たくなる誘惑に駆られることは、おそらく自然であろう。すなわち、安倍政治が体現する「大日本帝国の虚妄」よりも、2015年安保が示した「戦後民主主義の実在」に賭けると。

2015年安保によって切り拓かれた水路を信じ、何とも見えない未来に向かって、その奔流に連なろうとする「賭け」に、私自身も参画していきたいと考えている。
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by akai1127ohi | 2015-12-09 16:00 | 政治時評 | Comments(0)

2015年安保がもたらした変化:②「政治エリート」と社会運動との結合

第二に、自民党政権に代わるオルタナティブな政治勢力を作り出す道筋をめぐって、安倍政治に対抗する側の内部においても、これまで大きく二つの立場が存在していたが、2015年安保で可視化された世論の突き上げは、この二つの立場の接近と収斂をもたらしたといえる。

安倍政治に対抗する一つめの立場は、政治家や官僚などの「政治エリート」に着目し、それらへの浸透と説得を通じて内側から政治変化を導き出そうとする立場であり、これは政治学者の山口二郎に代表されよう。もう一つの立場は、政治変革の規定因を社会運動に求め、世論や運動の圧力が「政治エリート」を突き上げることによって政治変化をもたらそうとする立場であり、2015年安保においては、「総がかり行動」の中心を担った高田健がそれを代表する位置にいたといえよう。

山口はかねてより政治家や官僚を相手に政権交代の必要性を説き、2000年代以降は民主党のブレーンとしてリベラル路線の明示による安倍政権との対決を提言してきた。しかしその山口にとって、2015年安保は「政治エリートを相手に民主主義を説くことの限界」を感じさせるものであったという。民主党政権の失敗の原因は、民主党が「社会における根を持たない点」にあり、換言すれば、「永田町しか見ていなかったから」であった(山口二郎「“不断の努力”がデモクラシーを進化させる」『世界』、2015年11月号、p59)。

そこにおいて、2015年安保の巨波は民主党の姿勢を変化させ、「少数の学者が政策や路線を献策するよりも、数万人のデモで憲法守れと叫ぶ方が、遥かに強力に政党を動かすことができた」。山口は、2015年安保を通じて、「社会が主で政治は客」という言葉の真意を痛感し、「自分の政治学者としての活動について反省を加え、今後の課題を設定しなおす契機となった 」という。

人間が変ることは容易ではなく、まして山口のようなベテラン政治学者が率直な自己変革の姿を曝すことは(いかに繰り返されているとはいえ)勇気のいる行動であり、筆者としては、そのような山口の率直な態度に高い倫理性を感じるとともに、その鮮烈な精神を学びたいと考えている。

しかしながら、2015年安保の凄味は、政治家や官僚など「政治エリート」に着目してきた山口とは対照的に、これまでもっぱら社会運動に従事してきた運動側にもまた地殻変動をもたらし、その自己変革を誘発したといえる。

「総がかり行動」の事務局を担った高田健は、2015年安保の中間総括のなかで、「今回、市民運動が、政党との関係を一貫して追求したことも大きかった」と述べている。高田によれば、「私たちの世代の市民運動は、政党との関係は非常に苦手で、少し引いて見るところがあった」が、今回の安保法案反対運動は「政党との連携を大事にする形で」進められており、そこが2015年安保の新しさであった。高田は、「これからの戦争法廃止に向けての取り組みにしても、安倍政権に代わる政治という問題にしても、市民運動と政党との共闘はさらに重要になる 」だろうと展望している(高田健、「連帯を拡げ、共闘を次のステージへ-『総がかり』で戦争法廃止に取り組んでいく」、『世界』、岩波書店、2015年11月号、pp104-5)。

2015年安保は、「政治エリート」の変化を重視してきた山口のような論者を変えただけでなく、世論による政治変革を追求してきた運動側にもまた、運動と政党とが連携し、議会を包囲するデモと議会内の「よりまともな勢力」とが繋がる回路の重要性を認識させたといえる。そして、運動側が新たに連携を模索した「よりまともな勢力」こそ、山口などの政治学者がこれまで肩入れしてきた民主党リベラル派などであり、その意味で、政治変革をめぐる二つの立場は、2015年安保の過程でそれぞれの自己変化を通し、互いに収斂していったといえよう。

9月18日深夜から19日未明にかけて、国会正門前のデモの渦から、ほぼ自然発生的に「野党がんばれ」の応援コールが生じた。それに応えるように、議会内では民主党、共産党が踏ん張り、投票が締め切られる直前、山本太郎は「外の声が聞こえないか!?」と議場で咆哮した。「運動による野党への応援」は、運動側にとっても「初めての経験」であり、それはまさに、多数の有権者の総意を背景に、議会内の「よりまともな勢力」と社会運動の奔流とが繋がる、わずかな、しかし確実な水路が切り拓かれた瞬間でもあっただろう。
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by akai1127ohi | 2015-12-09 02:08 | 政治時評 | Comments(0)

2015年安保がもたらした変化:①知性と感情との新しい関係

今年の夏を彩った「2015年安保」の性格は、私なりに表現すれば、「クラシカルな問題に対する、クラシカルな応答」であった。すなわちそれは、安倍政権が時代錯誤的に突きつけた極めて「クラシカルな反動」に対し、いささかの奇を衒うこともなく、極めて「クラシカルな応答」を正面から対峙させた運動であったといえよう。

しかしながら、そのようなクラシカルな応答は、それがクラシカルであるがゆえ、法案成立をへてなお、日本社会に極めて根本的な、すなわちラディカルな政治変動を招きよせている。2015年安保は、その広汎な運動の過程で、私自身を含め多くの人を変え、異なるものを結びつけてきた。以下では、2015年安保がもたらした三つの政治変動を指摘したい。

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第一に、主としてSEALDsの運動スタイルに見られた、知性と情念との、あるいは理性と情念との新しい結びつきとでも呼べるものである。SEALDsの運動を契機として広く認知されたのは、感情が持つ価値を再確認し、絶叫や罵倒、熱唱や感極まった感涙を含めてその放出を肯定するスタイルであり、SEALDsの牛田悦正の次の言葉は象徴的である。「『感情的にならずに云々』って、俺もすごいわかるんだ。いまになって告白すると、反原発デモの頃とか、デモ自体が嫌いだった。感情的で、ものを考えてないように思えて。でも、いまになって反省している。『感情』の価値を低く見積もりすぎてた 」(『SEALDs 民主主義ってこれだ!』大月書店、2015年、p83)。

しかしながら、このような直接的な感情表出の肯定は、同時に、反知性主義をしぶとく斥ける意識に支えられている。「安倍晋三がめっちゃムカつく!」という剥き出しの感情放出と、そのような方法によって表現される主張内容の規範性とが共棲する点に、SEALDsの戦略性を感じることができる。SEALDsが「自由と民主主義」を自らの基軸価値に据えたのは、「何と言っても規範的なものは必要だよねってことは言いたかったから 」(奥田)であり、芦部信喜や樋口陽一などの著作を村上龍でカモフラしたSEALDsの「推薦図書(Books Selection)」 は、「それと、学問をバカにしませんよ、ってこと 」(奥田)という姿勢を如実に表すものであろう。

このようなSEALDsによる学問の尊重は、しかしながら同時に、知性の偶像化を斥ける姿勢も含んでおり、そこには常に、学者の判断放棄に対するまっとうな注文や研究者の衒学的な態度に対する健全な茶化しの要素が把持されている。筆者も、SEALDsと「学者の会」との共催集会(10月25日@法政大学)に参加した際、観念的な法理論を展開する長谷部憲法学の「難解さ」を褒め殺し、小熊英二の著作の「長さ」に皮肉を入れる奥田愛基の発言が印象的であった。

また同じくSEALDsの大澤茉実が、「ファッションにしか興味のなかった学生が政治について語り出した」のと同列に、「本とパソコンの前を動かなかった学者が、路上に出てきて雨に打たれた」ことを評価して会場を沸かせた。学生や市民と大学教授とのこのような関係性は、一定の「知識人」が「オピニオン・リーダー」として世論を牽引した60年安保闘争には見られなかった現象といえるだろう。

反知性主義に陥らない情念の解放と、知性の偶像化を拒否した学問の尊重――。2015年安保を牽引したSEALDsのスタイルには、そのような絶妙なバランスを窺うことができ、運動における理性と感情との、知性と情念との新しい関係も、そのような感覚を研ぎ澄ませていく先に導かれるように思われる。
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by akai1127ohi | 2015-12-09 02:07 | 政治時評 | Comments(0)

「第三次国共合作」と2016年総統選挙の行方

馬英九と習近平の中台首脳会談を、歴史的な会談とは思いつつ、どこかそのインパクトが相殺されるのは、2005年の野党時代の連戦と胡錦濤の国共会談の記憶が個人的に鮮明だからだろう。

中台の対立が、何より「国民党と共産党との対立」であるとすれば、野党時代の連戦と胡錦濤との両「党」トップ会談は、本来大きな意味を持っていたと思える。

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2005年に連戦と胡錦濤の国共トップが中国で会談した際、姜尚中氏が「朝生TV」でそれを「この度の第三次国共合作は…」と形容していて、あらためて姜先生の歴史と現代との「チューニング」の力に思わず笑った。もちろん、それは皮肉だったはずだが、その場の番組パネリストが誰もその「妙味」をつつかず、話がそのまま進んでいってしまった。

第一次国共合作(1924)&第二次国共合作(1937)は、いずれも「対日」を目的とした漢民族の団結であり、それゆえ「処女性」を持ったナショナリズムに光り輝いていた。孫文の「連ソ容共扶助工農」など、高校世界史で習って以来、今でも忘れられないスローガンだ。

他方、現下の中国共産党と国民党との「第三次国共合作」は、もちろん緊張緩和に資すなら朗報だが、実現にいたる過程は、それなりに腐敗・動脈硬化した中台の老舗政党が、「対民進党/対蔡英文」を目的として魚心水心的に党の都合で求め合った相互依存と感じる。

それは同時に、中国と台湾をめぐるイデオロギー対立の様相が、この半世紀で大きく変化した/している軌跡をよく示していると思える。

第二次大戦後に国共内戦が再開されて以来、国共対立は少なくとも建前上は「共産主義をめぐるイデオロギー対立」であり、その対立構図は、第二次大戦後は冷戦構造のなかで東西対立と重なってきた。

しかし、冷戦終結後、そのようなイデオロギー対立の重要性や切迫性が希薄化していき、2000年代に入ると、すでに「保守的な体制政党」へと変質して久しい共産党と国民党が引き合っていく反面、戦後の台湾の民主化を通じて形成された「台湾人意識」の成長とともに、民進党がいわば新たに形成された「台湾ナショナリズム」を代表する形で台湾の「もう一つの体制」を形成する。

この度の「第三次国共合作」で、国共がともに政局的には民進党を対抗相手においているとすれば、両岸の対立は国共間の「冷戦イデオロギーをめぐる対立」がほぼ実質的に終焉し、むしろ、互いに魚心水心の国共両党と、新しい形での「台湾人意識」を担う民進党との、いわば「台湾ナショナリズムをめぐる対立」の様相を帯びているように思える。

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ちなみに、今日(11/8)の産経を読んでみたが、産経は「反中」の立場から今回の中台会談には比較的否定的な態度を滲ませていたが、とはいえ台湾の民主化を担ってきた民進党とは、言葉の上では「反中」で応援するものの、本質的に趣味が違うことは自覚しており、その曖昧で流動的な布陣のあり方にも、また興味深いものを感じる。

もちろんこれは過度の図式化で、おそらく「妥当な現状分析」は様々な修正やと相対化が必要と思うものの、いずれにせよイデオロギーが大きな機能を果たす政治磁場であることは確かのように思える。
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by akai1127ohi | 2015-11-09 02:24 | 政治時評 | Comments(0)

「幻想を持つ権利」

日本の「運動」、市民派や左派の中で最も欠けているものの一つは、「政治における小さなポジティブな変化をポジティブに語る話法の恐るべき不在」だろう。今夏、広島でいくつかの集会に参加し、そのことを痛感した。

政治を批判することは大事で、その重要性を認める点で私も人後に落ちない。しかし、「政治の小さなポジティブな変化をそのままポジティブに語る話法」も必要であり、それが今の日本の運動圏においてあまりに欠落している。

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政治を批判することは大事だが、それは一面で、責任を問われない。政治は常に「悪さ加減の選択」であり、政治が「成功」することなどないのだから、批判は常にいつも一定正しい、ということになる。

他方、政治をポジティブに語ること、「○○は良い」「支持する」「応援する」と語ることは、それが万一失敗した時、責任を問われやすいので、リスクがある。それゆえ、それは勇気のある行為である。

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日本の市民運動や左派の論客のなかで、流動的で曖昧な対象(民主党であれオバマであれ明仁氏であれ)に対する批判はきわめて分厚いのに対し、それらを「ポジティブに語り、こちらに引き寄せようとする話法」が全然根付いていない。

この話法の不在は、結局のところ、個々人の勇気のなさに由来するだろう。
何かポジティブな変化に期待を表明する発言をすると、それを封じ込めて押し殺さんとする潔癖かつ知的武装した「論客」みたいなのが出てきて、「スーツの青木の七点セット」みたいなパターン化された批判が一気呵成に寄せられ、それがゆえに多くの人が萎縮して言えないのである。

何か、政治のポジティブな変化について肯定的に言及する発言をすると、「それは甘い」「幻想だ」「騙されてるなよ」という意見が矢継ぎ早に発せられ、「小さなポジティブな変化をポジティブに語る話法」を未発のまま摘み取っていく、そういう磁場がある。

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しかし、政治の変化の中では、白黒つけかねる様々な変化が生じ、ある対象をめぐる評価も常に流動的である。それは、現在のように既存の「イデオロギー配線」が大きく溶解変動している状況ではとりわけそうである。

そこにおいて、ある対象の性格や機能も、常に流動的である。権力内部の力関係やフォーメーションの形成の具合、あるいは運動や外圧など様々な圧力を持けて、ある対象の政治的な性格や機能は変化する。

したがって、その状況では、政治的性格が流動的な多くの対象が浮き上がる。たとえばオバマ、民主党、天皇、良心的創価学会員、小林節etc・・・・・・。これらの政治的性格を、100%「幻想」だと断言することも、100%支持すべき肯定的要素だということもできない。それは現在進行中の流動性のなかにあるので、端的に言ってわからない。認識としてはこれ以上言いようがないだろう。

しかし、現在進行中ということは、その先が未定ということである。換言すれば、その性格が流動的な勢力について、それを「われわれ有利に」受け止め、解釈し、方向づけ、それによって対象それ自体の「行動範囲」を「われわれ有利な方向に」限定させていく余地が存在する、ということでもある。だから、現在流動的でその帰趨が未来に向けて開かれている対象を論じる時は、それを論じる言葉自体がその対象の「これからの姿」を方向づけることになりだろう。

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端的に言って、オバマはダメだ幻想だと断言していれば、実際のオバマ政治もそうなりがちだろう。少なくとも、そこからは、現在流動的な変化のなかで「オバマをこちらに引き寄せよう」とする試みが放棄される。結果として、実際のオバマもダメな反動政治家になりがちになるだろう。

日本の民主党もそうで、その性格は流動的ながら、ダメだ幻想だと断言していれば、「民主党をこちらに引き寄せよう」という流動的ダイナミズムは生まれない。結果として、民主党の性格や機能も、ある種それ自体が「予言実現的に」、すなわち民主党はダメだ幻想だと言うまさにそれゆえに、本当にダメで幻想の政党になるだろう。

8月15日の予定されているらしい明仁氏の「談話」についても、その「談話」が政局のなかでどういう機能を果たし、安倍政権との関係性のなかでどういう性格を帯びるか、それは端的に言ってわかりません。わからないからこそ、それを可能な限り「こちら側に有利に=あちら側に不利に」解釈する言葉こそ必要になる。幻想だと断言することは、その可能性を自ら摘むことになる。

私は、これらを全面的に肯定しているわけではありません。オバマであれ民主党であれ明仁氏であれ、それらの政治的機能や性格に関する私の認識は、端的に言って、現在進行形で流動している以上、「わからない」。

しかし、現在進行型で流動してるということは、その性格や機能に私たちが直接間接に影響を与えられる余地がある、ということでもある。

                ***

それだからこそ、私は、「幻想を持つ権利」を行使したい。「政治のポジティブな変化に期待する権利」、「率直に幻想を公言する権利」を行使したい。さらにいえば、「率直に幻想を表明しても、『幻想』だと批判されない自由」をさえ、獲得陶冶していきたいと思う。

政治の現実には、その帰趨がわからない多くの流動的要素があるからこそ、その流動的要素に期待を寄せ、「幻想」を寄せることに意味がある。「幻想を持つ権利」など、およそそれを宣言すること自体可笑しな権利をあえて自分から「宣言」することの意味は、そこにこそある。
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by akai1127ohi | 2015-08-09 00:22 | 政治時評 | Comments(1)

大田さんへの応答(その2):批判的知性のあり方をめぐって

20世紀には「知識人」といわれる思想家が、自身の思想的原理を持ちながら、様々に現実にアンガジュマンしたが、そのような20世紀の知識人が示した「批判的知性」とは何か。

先日、目下の論文作業のため、グラムシからサルトル、サイードなどの「知識人論」を概観することがあったが、あらためて、知識人が個々の状況で「同時代的態度決定」をする際の基準の複雑さと適切さに舌を巻く思いがした。

                ***

知識人の定義は複雑多岐ですが、たとえばその一つとして、人権や平和といった「普遍的な原理」に忠実で、常にそこから思考を出発させる人、というのが当座挙げられよう。

しかし同時に、知識人の同時代的関与は、その「普遍的な原理」をアプリオリに固定化させ、それによってすべての同時代的判断を導き出す人たちではない。批判的知性と言うのは、「普遍的な原理」に反することをなんでもかんでも批判するということではない。批判的知性とは、一方で普遍的な原則を確固として把持しながら、他方で、眼前の個別具体的な政治の力関係をしっかりと見据えて、普遍的原則から発した思考をそこに「チューニング」させる、そういう鋭い能力をもった意識のことだと思います。

               ***

大田さんの重視される、「日本がその侵略行為に対して歴史的道徳的清算をすべきこと」という主張は、その限りでは常に正しく、いわば「普遍的な原則」であり、それが重要な課題であると考えるにあたって私も人後に落ちません。

しかし、そのような批判や注文を、安倍政権や右派メディアに対して行うのと、隆盛してきたばかりの学生主体のデモ運動に対して行うのとでは、現実の行為の意味としては、同じではないだろう。端的にいえば、前者は建設的な意味を持つのに対して、後者は必ずしもそうでない。

批判する側にその意図は全くなくても、「植民地支配清算を宣言せよ」との立場からのシールズ批判は、自分自身を現在の安倍氏の立場に置き換えてみればわかることですが、安保法制も植民地支配反省もいずれも度外視する政権にとって、好都合な政治的現実を作り出す可能性が高いだろう。また、シールズは、いわば萌芽期の運動であり、それを本当に「強化」しようとするなら、その欠点や弱点を批判することによってそうするよりも、今はまだ支持、応援して可能ならその一部になろうとすることによって強化するべき、そういう段階である。

20世紀を代表する批判的知性たちは、一方で「普遍的な原理」を把持しながら、他方で、政治の現実におけるそのような差異をしっかりと認識して、その上で態度決定を行う能力を持った人達だったように思います。状況や文脈を無視して、ただただ「普遍的原理」に忠実に、それを杓子定規に掲げた人たちではないだろう。むしろ逆で、そのような「普遍的原理」を把持しながら、複雑で流動する現実の力関係を極めて鋭敏に見極め、政治的に間違いのない態度決定を必ず選択、実践してきた人たち、と思います。

すなわち、批判的知性とは、一方で「普遍的な原則」を確固として把持しながら、他方、それを2015年6月の日本の政治状況にしっかりと「チューニング」させる、そういう鋭い方法の意識を持っていることだと思います。

もちろん、上記のように述べることは、「植民地支配の道徳的歴史的清算」という課題を軽視することではありません。また、「侵略戦争の道徳的歴史的清算」を求めてのシールズ批判を止めろと言っているわけでもありません。ただ、そういう『批判』は、「批判的知性の仕事」とはいえないのではないか、ということです。

もちろん、「現在」の状況での、「安倍政権」にむけた、「植民地主義清算を求める批判」には、私は満腔の同意でイイネボタンを押します。

               ***

たとえば、今この状況における「批判的知性」のあり方とは何か。あくまでたとえばですが、たとえばサルトルや加藤周一などが、今生きていたらどうしたか――。

彼らは20世紀において「植民地主義の歴史的道徳的清算の必要性」に真摯に取り組んだ批判的知性ですが、彼らが今生きていたら、自らが把持するその普遍的原理を何ら損することのないまま、国会前に行ってデモの一部になり、自らシールズのデモに駆け寄り、求めてマイクを握り、連帯と共鳴の挨拶をしただろうと思います。
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by akai1127ohi | 2015-06-27 13:00 | 政治時評 | Comments(1)

大田さんへの応答(その1):金芝河と大江健三郎との講演を思い出して

Sealdsの声明をめぐり、大田英昭さんと一定の議論が生じました。これまでの議論の経緯は以下です。

・大田さんの意見と私のコメント(https://www.facebook.com/hideaki.ota.54/posts/425087257670895?hc_location=ufi)
・私のコメントへの大田さんの応答(http://datyz.blog.so-net.ne.jp/)

以下、あらためて、大田さんに応答します。

大田さんのご意見だと、Sealdsの声明のように、旧日本帝国のアジア侵略の責任に一言も触れないまま日本で平和運動を行なったり、日本が東アジアの軍縮や民主化をリードする責任があると主張することは日本人の傲慢な独善性である。また、戦後の沖縄の現状を度外視したまま、日本における「戦後70年の自由と民主主義の伝統」をいうことは欺瞞にすぎない、とのご趣旨です。(要約はそれ自体「暴力」ですので、原文は上記から各自確認してください汗)。

               ***

「アジア侵略の責任の清算」なるものは現在まで未解決で、また極めて重要な課題であり、その点では太田さんに満腔の同意です。この点に何の異論もありません。

とはいえ、だからといって、「それがなされないならば日本の平和運動は空念仏だ」とはならないだろうし、「戦後70年の自由と民主主義の伝統」など欺瞞で独善だ、ともならないだろう。また、日本には「東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルが」ない、ともならないだろうと思います。

               ***

大田さんの意見を拝読して、すぐ思い出したのは、1995年の『世界』臨時増刊号「敗戦50年と解放50年」の収録された、韓国ソウルで行われた、金芝河と大江健三郎の講演です。

ここにおいて、「日本が過去の侵略責任を清算し、道徳的な純潔性が保障されなければ、アジアの未来に参加する資格はありません」と述べる金芝河に対し、大江は、それを真摯に受け止め、「立派な姿勢で正座しつつ語る金芝河さんの前で、憐れにうなだれ背をかがめて耳をかたむけ」ながら、次のように述べている。

               ***

「私は〔歴史的な過ちを〕記憶しつづけたいと思います。そして日本自身の道徳的な清算、歴史的な清算のために努力したいと考えます。しかし、その清算が完了することは、私自身が生きてる間には来ないのではないか、と考えています。それゆえにこそ、記憶しつづよけよう、とするのでもあります。

私がねがうのはこういうことです。日本人は、過ぎ去った時代の歴史的過ちを清算しえていない今も、それを自覚しながら、新しいアジアに対して構想を持つことをつとめねばならぬ、ということです。日本人が、道徳的な純潔性を保障しえない今も、それを自覚しながら、アジアの未来に参加する資格はあたえられねばならぬ、ということです。

それは私たち日本人が過ぎ去った時代の歴史的な過ちを忘却して、というのではありません。その逆に、私たちはその痛苦にみちた記憶を更新しつづけながら、その重荷を担って未来に向かおうとしている、ということなのです。まだ償いをすませていない者と、まだ本当には相手を許していない者との、しかし未来の共同に向けての協力はありうる、と私は信じます」(大江健三郎、『世界』「敗戦50年と解放50年」、pp63-4)。

               ***

金芝河と大江は、いわば、太田さんとSealdsとの立場(?)とそれぞれアナロジカルになっているように思います。

しかし、大江と金芝河は、この局面で対立しているわけではない。金芝河の批判はいわば日本の良識派に対する外からのエールだし、大江はそれを受けて改めて決意表明し、その上で「まだ償いをすませていない者と、まだ本当には相手を許していない者との、しかし未来の共同に向けての協力」を求めている。

そしてこれはもはや、認識といより態度決定ですが、やはり私としては、大江の態度は実に建設的だと思います。

「植民地支配の歴史的清算」は必須の課題であり、それは未解決である。しかし、それが未解決であるにもかかわらず、韓国の民主化などでは、日本の民衆が、分をわきまえながらも声をあげたり、あるいは向こうの民衆と提携したりと、そういう課題は否応なく生じてきた。それは、中国をめぐっても、今後生じてくるだろう。

その意味では、現在のわれわれは、いわば、「植民地支配の歴史的清算」を求めることと、それは未解決であるにもかかわらずアジアに対して積極的な構想を示していくことの、二つの課題があるように思います。
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by akai1127ohi | 2015-06-27 12:57 | 政治時評 | Comments(2)

ヒラリー・クリントンの政治スタンスと2016年米国大統領選

来たるべき2016年アメリカ大統領選でヒラリー優勢という時局報道断の下、次期大統領について先回りして知っておこうと、ヒラリー・クリントン『リヴィング・ヒストリー(上・下)』(ハヤカワ文庫2007)を読了。感想を羅列しておきます。

               ***

『上巻』を一読して、中産階級出身の優等生少女の政治的成長が、古き良き戦後アメリカ社会の雰囲気を背景に浮かび上がる。

ヒラリーの政治的覚醒の前半は、共和党支持で政治好きな父親といつも討論し、キング牧師の演説のために都市に足を延ばせば、ソ連からの亡命者の過酷な話を聞いて『反共』主義の思いを強め、女子大で化粧の労なく勉学に励み、アメリカを愛すがゆえにベトナム反戦に加わり、イェール大学ロースクールで「北欧のバイキング」のようなビルとの出会い、州知事の妻としてアーカンソーへ赴く……と、まあこんな感じである。どこか「マイルドな樺美智子」という気もする。

『下巻』はファースト・レイディ時代の活動が中心で、共和党キングリッジへの批判、1997年の北京での世界女性会議での演説、ブレア政権との政策的思想的親近関係、上院議員への挑戦、祖国アメリカへのつきることのない愛など。

ビルの不倫問題と弾劾裁判の箇所では、かなり率直に強い言辞でビルに対する怒りを表明し、「長い謝罪の旅」に出るビルを「自業自得」と突き放しながら、その後の長い夫婦のカウンセリングや煩悶をへて、ともに結婚生活を続けていくにいたる関係の再起が描かれている。

また、ヒラリーにとって、苦境に立たされた時の相談相手として、ケネディ・オナシス(ケネディ大統領未亡人)とともに、心の中での「対話相手」としてエレノア・ルーズヴェルトというのも興味深い。

               ***

政治における夫婦=男女のパートナーシップということも考えさせられる。

『金大中獄中書簡』(岩波1983)での金大中の手紙の多くは妻であり同志である李姫鎬に宛てたものだが、その手紙はすべて、「愛し尊敬するあなたへ」で始まる。F・ルーズヴェルトとエレノアの関係も、「この人ありてこの人あり」という思想的な相互関係がある。

ヒラリーとビルの関係も、信頼関係が決定的に破壊される局面もあったようだが、総じて、時代の過酷さは大きく異なるが、金大中と李姫鎬、あるいはルーズヴェルトとエレノアをの関係彷彿とさせるものも垣間見える。

               ***

ヒラリーの政治スタンスを日本政治で翻訳すれば、児童権利や女性権利、LGBTなど社会的価値観では極めて進歩的で、日本でいえば福島みずほ氏だろう。経済政策は分厚い中間階層への支援と国民皆保険制度が念願で、日本で言えば民主党の長妻グループといったところか。

試みに、ヒラリーについて、ヨーロッパ政治の語彙でもって "Is she left?" と聞かれれば、さしあたりは"The answer is arguably YES” と応えてよいだろうと思う。

とはいえ、米国大統領となれば、外交軍事では当然、軍事力を行使する局面は出てくるだろう。その是非についてはその対象や状況に応じて判断するしかないだろう。しかし大事なのは、「だからヒラリーも米帝主義者だ」と性格づけて「失望」しないこと、それで肯定的部分も捨て去ってしまわないこと、のように思える。

               ***

仮にヒラリーが2016年大統領選に当選しても、年齢的な条件(就任時69歳)もあり、一期だけかもしれない。しかし、その一期4年の「業績」がどうであれ、女性がアメリカの大統領になったという事実は「前例」として、アメリカ政治を方向付ける規定力を持つだろう。

「初めての黒人大統領」が「二人目の黒人大統領」の誕生をいとも容易にするであろうように、「初めの女性大統領」は、たとえ一期であろうとも、アメリカ有権者に「女性大統領」という idea に慣馴化させ、次に続く「二人目の女性大統領」の出現を、はるかに容易にするだろう。

               ***
 
人は時々、誤まった時局的判断によって、後世の歴史家の笑いものになる。

だが、現在無言の歴史家よりは、あえて同時代的判断を表明して、「歴史家の審判」なるものを受ける特権を行使したいとも思う。

来たるべき大統領選では、米国51番目の州(属州?)「ニホン州」の有権者として、私はヒラリーに投票したい(くらいの気持ちです)。その態度表明によって、ささやかながら「歴史の審判」を受けてみたいと思う。
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by akai1127ohi | 2015-02-27 01:30 | 政治時評 | Comments(1)

政治家と野次―オバマの移民対策演説の一幕

「清く正しい大人」の方から注意されるかもしれないが、私は、「英米の権力政治家が公衆の面前で野次られるハプニング映像」を見るのが好きである。

政治家がストリートや野外集会で有権者のなかに入って行って対話集会を持つことは、親しみやすさを演出する権力政治家のパフォーマンスの一つだが、同時に、突如野次られたりして面子を失う危険性も「込み」である。

突然の妨害に対する政治家の対応の仕方も様々で、我を忘れて反論する人(ビル・クリントン)、巧妙にいなす人(キャメロン)、まじめに反論する人(ヒラリー)、「アメリカは言論自由の国だ」と自分だけ「マイクロフォン」を通して宣言する人(ブッシュJr)など。

野次というのは筋書きのない突発行為だから、予定調和を乱された珍事にいかに「適切」かつ「臨機応変」に対応できるかに、政治家の本質や真骨頂が試される。対応如何によって政治家の顔がつぶれもするし、株を上げもする。

          ***

その点、やはりオバマは「さすが」と思う。

2013年、カリフォルニア州での演説の最終、突如、移民の国外追放を批判する若者たちの野次に囲まれての一幕。



オバマの背後の若者は、大意、「あなたの行政権限を使って、すべての(不法移民の)国外追放を止めさせてください。あなたは国外追放を止めさせる権力を持っているんだ!」と叫んでいる。それに呼応するかのように、会場からの「国外追放をやめろ(Stop deportation!)」の合唱に囲まれて……。

          ***

(オバマの発言:0.46~)
ありがとう、わかった、よし、……私がしたいのは……いやいや大丈夫、心配ない(支持者に向って)……。よしわかった、とりあえず最後まで言わせてくれ(野次者に向って)。……わかった。ん?いやいや、そうしないで。彼らはそこにいていい(野次者を排除しようとする支持者か警備員に向って?)……。

私は君たち若者の情熱を尊敬する。彼らは家族のことに強い関心を寄せている。今、私がこの場所に来て話しているにあたって、君たちが知るべきことは……もし私が、議会で法案を通過させること「なし」にこれらの問題をすべて解決できるなら、それなら私は喜んでそうするだろう。

しかし私たちは法の支配の国で、そしてそれは私たちの伝統の一部でもある。それゆえ、なんというか…、簡単な方法(easy way out)は、法律を無視して、ここで叫んで、「私はこうこうできる!」という「ふり」をすることだろう。しかし、私が提案しているのは、もっと困難な途で、すなわち、我々の民主的なプロセスを、私と君たちが共有する目的に向って用いることであり、それはただ叫ぶだけというよりもっと困難なことです。それは働きかけを必要とし、また本当にそれを実現することを必要とします。

これを本当に実現するためにコミットする人たち、私は一緒に歩きます。一緒に戦います。私たちが、一生懸命働く移民の人たちの受け入れを実現し、その実現を確実なものにするための、一歩一歩を。我々がアメリカを見るのと同じ様にアメリカを見る人。どこから来たか、誰であるか、どのように見えるかに関わりなく、挑戦すれば成功できる場所として。

もしあなた(叫んだ若者たち)が、これを実現するために「真面目」なら、一緒に働くつもりです(if you are serious about making this happen, I’m ready to work with you)。そして、それは努力を必要とします。法を無視することではなく、またそれは我々の伝統ではありません。この国の伝統ですばらしいのは、時に騒々しく百家争鳴で、ときに困難なデモクラシーの伝統です。しかし必然的に、正義と真実は勝利する。それがこれまでこの国の事実であり、また今日もそうであり続けている。

          ***

言葉の孕むニュアンスをうまく訳せず隔靴掻痒だが、しかし不規則発言を契機に生じたこの光景は、これ以上ない「政治教育」や「市民教育」の実践の場、と思う。また、現実政治をめぐるアメリカの言葉の豊かさを感じる。

来年の参院選挙から日本でも18歳選挙権が実現する様相である。それはそれでめでたいことだが、英語の話せない(そのための恥をかけない)教師が英語を話せる学生を育てられないように、生活のなかで「政治的なこと」を話せない大人が、生活のなかで政治を判断する18歳を育てられるだろうか、という思いもする。
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by akai1127ohi | 2015-02-08 12:07 | 政治時評 | Comments(0)
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