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Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。
by akai1127ohi
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「最強の拠り所/最後の抵抗線」としての「辞書」

早稲田あかねで知り合った1994年生まれの20代青年と政治の話になり、私が、「『左翼』っていったら誰を思い浮かぶ?」と聞いたら、しばし逡巡して、若者は、「菅直人、小沢一郎、それから田母神サン?」と答えてくれた。

菅直人、小沢一郎、田母神俊雄は、それぞれ自分が「左翼」といわれれば否定するだろう。「左翼」には、それなりに「辞書的定義」がある。

しかし、この青年が上記の三者を「左翼」と答えたのは、なぜか肌感覚のリアル感があった。現代の日本のとりわけネット上の言論の磁場が、そうなっているからだ(田母神はご愛嬌)。すなわち、「辞書的定義」以上に、言葉の自由市場における「流通的定義」がそうなっているからだ。


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イデオロギー闘争とは、いわば「言葉の使い方をめぐる闘争」といえる。それはすなわち、言葉の定義をいかに「自分に有利なように」変形させて流通させるかをめぐる闘争といえよう。

自分に有利なように言葉を「恣意的」に変容させ、そしてそれをいか「普遍的」なものとして流通させるか。それが「イデオロギー闘争」の要諦と思える。

そして「左翼」は、今そのような形で、言葉の自由市場のなかで変容させられている。言葉の「辞書的定義」から逸脱して、とかく「安倍政権にとって気に食わぬもの」一般を漠然と名指す言葉として、既成事実的に流通している。


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リンカーンの言葉に、「犬の尾を足と呼んでも、犬の足を5本にすることはできない(How many legs does a dog have If you call his tail a leg? Four. Saying that a tail is a leg doesn't make it a leg)」というのがある。

このリンカーンの言葉を知った時、リンカーンもまた激しい「イデオロギー闘争」のなかを生きていたのだと感じた。「尾」を決して「足」とは呼ばせない、「足」の定義にこだわる姿勢がある。


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たとえば、「立憲主義」という言葉は、「国家の権力制限」というのが辞書の意味だ。しかし、いつのまにか、「国柄」、「古来からの国の形」「国の伝統的価値観」といったような意味に変容されつつある。

リベラルや左派は、「それは辞書的な意味とは違う」、「ばかなネトウヨ/産経三流文化人のされごと」、「いちいち反論するに値せず」として見過ごしてきたかもしれない。

しかし、言葉の市場のなかでそれが「多数派」になれば、いずれ辞書までも、「立憲主義=古来からの国柄」と掲載されてしまうだろう。


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イデロオギー闘争の「最強の拠り所」は、辞書だ。
だから安倍政権も辞書に最低限のリップサービスを払わざるをえない。

そして、イデオロギー闘争の「最後の抵抗線」もまた、辞書だ。
既成事実的な言葉の「恣意的流通」の前に、辞書の定義さえもが変えられないために。


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# by akai1127ohi | 2017-05-13 00:57 | Comments(0)

三つの「20世紀論」

思想とは、思想以外の条件(歴史、人種、ジェンダー、年齢など)のなかで形成される。そのなかで、歴史は最も基底的条件の一つであろう。したがって、思想史研究にとって歴史はいわば「前提条件」となるだろう。


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S和女子大で担当する「教養の社会思想史」。

主として20世紀の社会思想を扱うこの授業で、毎回、学期の前半に「20世紀論」をするのだが、これまで①「短い20世紀」(ホブズボーム)、②「長い20世紀」(木畑洋一)の二項対比で行ってきたところを、今年からバージョンアップしてみた。

すなわち、①「長い20世紀」(アリギ)、②「短い20世紀」(ホブズボーム)、③「褐色の20世紀」(プラシャド)。

結論からいってしまえば甚だ図式的だが、イメージとしては以下。
①「長い20世紀」=1910sから現在=資本主義蓄積サイクル=アメリカ中心
②「短い20世紀」=1914から1991=共産主義体制基軸=ソ連からの視座
③「褐色の20世紀」=1870sから1990s=脱植民地主義=アジア・アフリカ視点


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①「長い20世紀」:アリギ『長い20世紀』(作品社2009)、副読本:三宅芳夫編『近代世界システムと新自由主義グローバリズム』(作品社2014)。

歴史学において、「構造」への関心というのは希薄化しているのかもしれない。(その背景には対象領域・対象時代の断片化、学問の専門分化があるのかもしれない)。

社会運動理論家の武藤一羊氏は、欧米とアジア・アフリカとを統一的に捉える視点の喪失、20世紀を総体的に捉える視点の喪失へのいらだちを表明しているが、従属論など、その理論的な欠陥を含め「構造への関心の復権」が必要なのかもしれない。

ウォーラステインにはまとまった20世紀論はなく、それはアリギが代替している。20世紀を「構造的に」捉えたアリギの本は巨視的かつ巨史的であり、この浩瀚な著作から自分も多くを学んだ。

アリギ的視点を日本で、独自のツイストを加えながら紹介しているのが三宅芳夫氏だろう。歴史マニアであり、そのヴィヴィッドな歴史叙述がアリギに彩りを与えている。

ちなみにウォーラステインは20世紀システムに対抗したプロジェクトとして、社会主義と民族主義を挙げている。以下の二つの20世紀論は、それと重なるものとなるだろう。


②「短い20世紀」:ホブズボーム『20世紀の歴史:極端な時代(上下)』(三省堂1996年)、補強本:塩川伸明『《20世紀史》を考える』(勁草書房2004年)等。

ホブズボームが捉える20世紀は1914-1991で、すなわち第一次大戦・ロシア革命からソ連崩壊までだが、その実、ホブズボームの視点は人口、経済成長、都市化、殺戮兵器の近代化など幅広い。

正直にいえば、ホブズボームの筆致は個人的には苦手で、多様な逸話や具体例から歴史をあぶり出す手法は見事ながら、「論旨を集約した一文」というのがないので、端的にいって「引用しずらい」。塩川伸明『《20世紀史》を考える』などでソ連史および「ソ連がどう受け止められたか史」について補強。


③「褐色の20世紀」:プラシャド『褐色の世界史』(水声社2013年)、副読本:木畑洋一『20世紀の歴史』(岩波新書2014年)

プラシャドの本は20世紀を貫く第三世界運動を描き切るもので、あれこれたくさんの地名が出てくるため、世界地図を傍らにおいておかなければ読めない。原題Darker Nationsは、darker and darkder=より暗くなるという趣旨も込められているそうであり、すなわち独立後に独裁や腐敗に陥った第三世界の行程を示すものでもある。したがってその読後感は、大田昌国氏の憂いに満ちた声のように、どこかペシミスティックである。

他方、木畑洋一『20世紀の歴史』は、同様の視点から20世紀を捉えながら、1990年代におけるアパルトヘイト終焉、香港返還など1990年代の脱植民地化の完了をもって筆致を閉じるもので、どちらかといえばオプティミスティックな印象で終えられている。


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ちなみに、今回、『近代世界システムと新自由主義グローバリズム』(作品社2014)で、三宅氏と水野和夫氏の対談を読み返し、三宅氏の以下のような発言が目に留まった。

「『思想』的な次元でだけ見た場合は、『自由』を『平等』とともに、『社会主義』のなかの中心的な課題として構想し続けることにこだわった『アナーキズム』は、――少なくとも僕にとっては――もっとも評価し得る、ということになります。……政治的影響力という点では……完全にマイナーなものにとどまったのもまた事実です」(p44)。

議論の本筋とは関係ないながら、このような表明をさらっと一札入れるあたりに、三宅氏の特色があろう。三宅氏はド左翼だが、しかし、あくまで(「平等」と同時に/むしろ以上に)「自由」を突き抜けた左翼だという一段階がある。


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# by akai1127ohi | 2017-05-13 00:52 | Comments(0)

【詩】 伝言

届くかどうか

わからぬまま放たれた伝言


届くかどうかわからぬまま

わからぬがゆえ

ただ信じることだけを頼りに

残された伝言


人為の届かぬ無現の未来にむかって

ただ信じることに一切をゆだね

あなたに伝えようとしたメッセージ


もはや時の流れに消されながら

信じる意志だけが存在している


消えた文字の空白に

何かを必死に伝えようとした

たしかな意志だけが存在している


祈りだけを込められたまま

今なお彷徨ういくつかの言葉

ただ信じることだけを駆動力にして

今なおあなたに向かい続ける伝言


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写真はいずれも広島市立袋町小学校平和資料館



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# by akai1127ohi | 2017-02-22 01:15 | | Comments(0)

『ピープルズ・プラン』「特集・オバマからトランプへ―変化するアメリカを掴む」

私も編集委員を務めます雑誌『ピープルズ・プラン』(第75号)で、拙責任編集で組んだ「特集:オバマからトランプへ―変化するアメリカを掴む」が刊行されました。


編集会議で企画発案したのは一年前、昨年の2月に遡る。2016年大統領選にあわせてアメリカ政治に精通しておきたいという思いから、企画立案に手をあげて、ちょうど一年。その後、幾度の編集会議、昨年9月の私の渡米、依頼原稿のとりまとめをへて、本日(2月7日)発送作業となった。


雑誌の特集を編集したのは私にとって初めての経験でしたが、今日、ピープルズプランの事務所で、刷り上がった雑誌の巨大な山塊から一冊取出し、ページをくって感慨深いものがありました。

          ***

本特集は、オバマ時代(2009-2017)のアメリカを対象としながら、オバマ政権の総括、2016大統領選のダイナミズム、社会運動、そしてトランプ政権下でのアメリカに幅広く目を配りながら、変容するアメリカの今を掴もうとするものです。


大井赤亥「オバマ政権を視る」は社会価値観、経済、外交の三点からオバマ政治を肯定的に捉えるもの、森原康仁「オバマ政権の理念と現実」はオバマの経済政策に焦点をあてながら政治のリーダーシップと市民社会の民意の重要性を指摘している。


れらとは対照的に、P・カズニック「バラク・オバマの悲劇」はオバマ外交の「失敗」と問題点を列挙するいわば「労作」であり、「オバマ時代」をノスタルジックに回顧するアメリカのリベラル系メディアに対するいわば「解毒剤」といえよう。


現代アメリカの社会運動の磁場を伝える論考としては、マニュエル・ヤン「不動産詐欺師とニューディーラーの亡霊」、高祖岩三郎「アメリカにおける社会運動の地平」。高祖さんは、昨年(2016年)、アナキスト人類学者D・グレーバーの大著『負債論 貨幣と暴力の5000(Debt)』を共訳で以文社から刊行されており、あわせて参照されたい。


トランプ政権下での展望については木村朗「トランプ新大統領と世界秩序の大転換」が、オリバーストンやカズニックなど米国の批判的知識人のトランプ評を反映しています。


もちろん、オバマ政権に対する評価には、本特集執筆者のあいだにも差異があるが、執筆者間の差異や多様性は、もとより本号を企画した狙いの一つでもあり、現実を捉える複数の解釈を提供する本特集の利点であると考えている。


井隆志さん、平井玄さんなどの連載、天野恵一さんによる道場親信追悼、白川真澄さんによる塩川喜信追悼など、もちろんその他の論考も充実しています。

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『戦後思想の再審判』の際も感じたが、一人で論文書くなら、なんでも自分の好きなようにできる。しかし、多人数で作り上げる論文集や雑誌は、なんでも自分の好きなようにはできない代わり、一人ではできない大きな仕事ができる。それを実感した雑誌作りであり、その共同作業のなかで、自分も確実に成長できたと思います。


白川編集長、昨年9月渡米の際に現地の人脈をご紹介いただいた武藤一羊さん、PP研事務局の横山さん、無給での寄稿呼びかけに応えていただいた執筆者の方々、企画の段階でアドヴァイスをいただいた多くの方々に感謝します。


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# by akai1127ohi | 2017-02-08 00:17 | Comments(0)

「改革の政治」と「公正なグローバリズムの政治」

『現代思想』(青土社二月号)の「研究手帖」欄に、「『改革の政治』と『公正なグローバリズムの政治』」という小文を寄せました。


冷戦崩壊から30年近くがたち、そろそろ「冷戦後」の歴史に、ミネルヴァの梟を飛ばしてもよい黄昏が来ている。1990年代以降、日本政治は「左右対立」という図式をほぼ全的に放棄し、それに代わる政治対立軸のナラティヴを見出せないまま、現在にいたるまで漂流を続けている。拙小論は、左右対立に代わる政治対立軸として、「改革の政治」と「公正なグローバリズムの政治」を提示するもので、博論後に短期集中的に取り組みたいテーマです。


もとより、政治対立軸は学者が頭で考えて現実に押しつけるものではない。それは、現実のなかから「必然的に」浮び上る。と同時に、現実のなかに潜在する新たな対立軸を掬い出し、言葉を与えて表現し、それを促進していく作業も重要だろう。それは、「必然性」を主体的に可視化させるような「理性」であり、そこに自由や規範が保たれる「すきま」も生じて来よう。


冷戦後の歴史は、いわば誰もがそれぞれ経験してきた当事者。大きな形に仕上げるにつれ、折にふれ諸賢の意見・批判を請うていきたいテーマです。

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   「改革の政治」と「公正なグローバリズムの政治」


冷戦崩壊以降、五五年体制の溶解をへて、日本政治は「左右対立」を完全に喪失してきた。そしてその政治対立軸の空隙を埋めたのが、「改革」に対する態度で政治を論じるナラティヴ、すなわち「改革の政治」であった。


「改革の政治」とは、「誰が最も効率的に改革を実行できるか」を競いあう政治といえる。政治改革、行政改革、そして小泉構造改革など冷戦後の日本政治のトレンドは圧倒的に「改革の政治」であった。九〇年代後半には野党第一党も社会党から新進党へと代わり、二〇〇〇年代は与野党が「改革」を競いあう構図となった。小泉構造改革の「痛み」が顕在化し、民主党が疑似社民化して政権交代を果たすと、「改革の政治」はいびつな形で関西に移り、大阪の橋下維新に流れていく。


「改革の政治」が定めた敵役筆頭は官僚であり、リーダーシップ強化やポピュリズムと共振しながら、行政機構の効率化を進めてきた。「改革の政治」は、「ポスト左右対立」の政治を描き出す最も説得的なナラティヴであり、結果的にそれは日本の政治経済構造を新自由主義グローバリズムに適合的な形に再編成してきたといえる。

他方、「改革の政治」に対抗する勢力もまた、現在、社会運動の圧力を受けて統合のきざしを見せている。「改革の政治」からはじき出された「古い保守」、デモに引き寄せられる民進党、野党共闘に転換した共産党、旧来型の社民主義、三・一一以後の新しい民衆運動、そして脱成長を志向する緑の政治などである。


こうした諸勢力を糾合し、「改革の政治」に対峙するための結集軸として、筆者は「公正なグローバリズムの政治」に着目している。その内実となるのは、人権、立憲主義といったリベラルな政治価値の擁護、格差是正と持続可能な経済政策、そして新自由主義グローバリズムとは異なる公正なグローバル秩序の構築であろう。変動する時代のなかで自己刷新を怠るものは消え去る。しかし、運動と理論の双方で「公正なグローバリズムの政治」を作り上げていく作業に、確かな希望が眠っている。


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# by akai1127ohi | 2017-02-08 00:14 | Comments(0)

肯定と希望の政治

米国ワシントン連邦議会には、歴代大統領の就任演説集がおみやげとして売られている。就任演説は新大統領の目玉、いずれも米国史をふんだんに織り込んだ修辞溢れる名文で、たしかに金出して買う価値ありと感じた。歴代日本首相の所信表明演説集を永田町で売ったところでどれだけ買い手がいるだろうか、とも。


オバマはかつて、誰もホワイトハウスを「持ち家」にすることはできず、自分は時限契約の「借家人」だと言ったことがある。果たして、1月20日、白亜館の家主が入れ替わった。


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トランプ大統領就任を目にして、オバマ時代をノスタルジックに回顧する論調が出てくるだろう。私もその一人です。この8年間、オバマの演説は第一級のシティズンシップ教育の教材であった。また、英語教師として3年間、視聴覚教材としてオバマの演説には本当にお世話になった。


オバマの魅力は、①権利行使の重要性の絶えざる想起、②デモクラシーの伝道、③「アメリカ合衆国」をめぐる卓越した鋳直し、であろう。

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第一に権利行使の絶えざる想起。

オバマほど「独立宣言」を自分有利に引用した政治家はいない。権利は神が天から与えたが、大事なのは我々自身がそれをこの地上で実現すること。宣言されてるから安心するな、実行しろ、と。日本の政治家は義務を強調するが、米国はその真逆であり、オバマは大統領自らがアメリカ国民に日々権利を行使せよ、という。「権利の上に眠るな」という丸山真男の言葉を米国では大統領が実践している。


第二に、デモクラシーの伝道者。

オバマの演説が一番光るのが、アメリカにおけるデモクラシーを論じた時で、オバマの得意分野といえる。

オバマの功績は、デモクラシーの偉大さを説く点では決してない。デモクラシーのジグサグさ、つまらなさ、手間、妥協に費やす労力、喧しい不和や対立など、いわばデモクラシーの非効率を説くことであり、それでなお/だからこそデモクラシーをあえて選び取るべき理念を米国民に周知喚起した点にある。


それはトランプ当選に失望する若者たちへのメッセージにも現れている。いわく、民主政治は一直線では進まない。常にジグザグ、一歩前進二歩後退を繰り返す。デモクラシーは騒々しく時に罵り合う。そして、「それでいいんだ(that’s OK!)」、いや、そうある「べき」である。だから若者よ、一時の失敗で挫かれるな、常に勇気づけられていろ、冷笑屋になるな、と。


第三に、「アメリカ合衆国」をめぐる鋳直し。

米国政治のダイナミズムは、「アメリカ合衆国」という言葉で何を表すか、その定義をめぐる激しい角逐と競合によって生じる。米国政治に参入する誰もが、「アメリカ合衆国」を相手から奪還し、自分の理想とする形に鋳りあげ、自分の好む色に塗り替え、自分の理想を実現するプロジェクトにしようとする。


オバマは「アメリカ合衆国」の定義をめぐる闘争の稀代の名手だった。例えば有名なセルマ演説。1965年のセルマのデモ行進者を梃子に、思いもつかぬほど強力に「アメリカ合衆国」の意味を反転させる。「人種差別に起ち上がる市井の行動者以上に、アメリカ合衆国の真髄そのもの示す人々がいるか?」と。


もちろん、「アメリカ合衆国の真髄」など誰も決められない。KKKがアメリカの真髄だということも可能だろう。オバマはそれを知っていながら、それであってなお、セルマの行進者を力強く「アメリカの真髄」だと定義し切っているのである。


「アメリカ合衆国」はあなた次第でどうにでもなる、どんな形にも、どんな色にも。「アメリカ合衆国」の意味を、相手に勝手に定義づけられるのではなく、時の流れのまま惰性で漂流するでなく、自ら望む形に鋳り直し、練り上げていく手腕に感服したこと多々であった。


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総じて、オバマの政治は「肯定と希望の政治」だったといえよう。

アメリカの民衆を褒め、勇気づけ、元気づけ、力を漲らせ、失敗した時は「打たれ強さ(resilience)」を思い起こさせ、そうやってシニシズムを克服した。


それはいわば、「褒めて育てる」政治だった。米国民は変えられる。なぜなら先人は変革してきたから。進取の精神で国を変えよう。あなたは、我々はそれができるという肯定と希望のメッセージを送り続けた。Yes we canからYes we didへ。


私も大いに勇気づけられた。

ありがとう、さようなら、オバマ。


President Obama Full Speech on Donald Trump Win



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# by akai1127ohi | 2017-01-22 10:18 | 政治時評 | Comments(0)

「絶望の文化左翼」と希望を語れる文化

昨年(2016年)読んで一番面白かった本は、R・ローティ『アメリカ未完のプロジェクト(Achieving Our Country)』(1998)でした。9月の米国NY訪問に携行した本だが、現在の広義の「左翼」の状況を的確に活写した本で、幾度となく膝を叩いて読んだ。

サイード『知識人とは何か』に影響を受けた20代の私は、それゆえ直情径行的な批判的知性を憧憬(しそれなりに実践も)するものだった。

ローティを面白く感じる30代の私は、やや皮肉交じりにリベラルな立場を逸脱しない、そんな立場でこれから40代に向けて人生の中堅に足を踏み入れるのではないか、という予想もした。

ローティの哲学方面には明るくないが、その政治センスで秀逸なのはやはり、文化左翼に対する(相手をよく知った)批判と、皮肉屋ながらその精神の芯のところで改良主義左翼の足場をしっかり守り、読者を sober にさせるまじめさです。

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驚くほどリアリティを持った描写として膝を打つのは、たとえばローティによる「文化左翼批判」。

「わたしがこの講義の初めに述べたのは、多くのアメリカ人の学生と教師の中に、自分たちの国を完成することを夢見ている<左翼>よりも、むしろ自分たちの国を傍観者のように嫌悪感を抱いて嘲笑している<左翼>がいるということだった。これが私たちの国の唯一の左翼ではないが、もっとも顕著に声高に主張している<左翼>である。……この<左翼>のメンバーたちは、自分たちの国から一歩退き、自分たちの国を『理論化(theorize)』する。……つまりこの<左翼>のメンバーたちは、現実の政治よりも文化の政治を優先させ、社会的正義にかなうように民主主義の制度が創り直されるかもしれないという、まさにそのような考え方をばかにする。そうして彼らは希望よりも知識を優先させる」(pp. 38‐9)。

ことほど左様に、米国でも恐らく日本でも、「絶望は<左翼>の側で流行」になってしまった。

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かつて改良主義左派は、共産主義者との関係で、その態度が「改良に留まる」ことを批判されたが、今や改良主義左派は、文化左翼との関係で、社会を「改良=良くしよう」とすること自体を批判されている。

かつて改良主義左派は、その態度が微温的な改良に「留まる」ことを批判されたが、今や改良主義左派は、改良に「足を踏み出そう」とすることを批判されているのである。

安易な希望を持つな、現状認識はなるだけ悲観的でいろ、民衆に希望を与えるものを疑え、現状のわずかな肯定的変化よりもそれによって「見えなくなるもの(なにそれ?)」に目を向けろ――と。

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絶望していることが「文化左翼」の知性に仲間入りするためのパスポートである。
少しでも希望を持つと、対象を「肯定的に」語ると、政治に賛意を示すと、「悲観主義が足りない」として批判される。「希望を持つこと」は文化左翼からの離反であり、転向声明になりうるから。だからこそ、少しでも希望を求める内心の発露に対しては「知性の悲観主義」が浴びせられる。「希望の発露」に対して、誰かが「悲観のタガ」をはめ直す。

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とはいえ、文化左翼のなかにも、「恥ずかしがりやの希望主義者」はいる。絶望のスパイラルゲームにいい加減閉口すると、フェイスブックの「嘆息の共同体」のなかから出て来ようともする。それゆえ、文化左翼の変容は、希望を持った時に始まる。

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何に対しても「自動的に」批判的態度をとることと、批判主義的精神は違う。政治を何もかも批判することとPCとはまったく似て非なるものである。

現状に対する批判的視点を提供する点で、文化左翼は必要だろう。

とはいえ、文化左翼の絶望が、左翼の内側から生じる希望と期待、何かを肯定的に論じ、何かに望みを賭けてみる姿勢を「摘み取る」機能に特化する時、おそらく文化左翼の自己閉塞が始まる。

2017年は、つとめて内側からの希望を逞しく語れる文化を作りたいものです。
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# by akai1127ohi | 2017-01-01 10:03 | 散文 | Comments(0)

シンポジウム「『分断』から連帯の社会へ」(10月10日文京区民センター)

20世紀後半を規定した政治対立軸の一つが冷戦構造だとすると、「ポスト冷戦」、すなわち1990年代以降から現代までの時代はポスト東西対立、換言すれば左右対立の相対化の時代、とひとまずはいえよう。

とはいえ、ヨーロッパでは冷戦崩壊後も「保守/社民」で政治対立を区分するナラティブは根強く、1990年代はむしろブレア政権やシュレーダー政権など欧州社民中興の時代でもあった。

他方、日本はどうか。1990年代以降の日本は、東西対立由来の「左右対立」をほぼ全面的に捨て去ってきた。しかし、それでも政治はある種の「対立軸」を前提とし、それを捻出しないと回っていかない。「対立軸」がなければ政治は論じられないし、認識できない。そこで、「左右対立」が消滅した後に日本の政治対立軸を(なかば疑似的に)演出、席巻してきたのが、「改革」をめぐる政治であろう。

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1994年、社会党に代わる野党第一党として新生党が誕生した時、党首の海部俊樹は新聞記者に「新党の理念は『革新』ですか?」と問われ、「いえ、我が党は『革新』ではなく『改革』です」と答えている。これは90年代(以降)の日本政治を一語でまとめる極めて象徴的な言葉だが、これを英語に訳したところで(We are the party of, not Progress, but Reform)、その言葉の負荷は非日本語話者にはちんぷんかんぷんだろう。その意味で、90年代以降の日本政治における「改革」なる理念や政策の跋扈は、著しく「日本的」、日本に特徴的な現象といえよう。

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90年代以降、この「改革の政治」は、左右対立に代わる政治対立軸として政治言説上に支配的な位置を占めてきた。政治改革(細川)、行政改革(橋本)、構造改革(小泉)などが続き、そしてその極端な形が橋下旋風、橋下による地方分権と統治構造改革だったといえよう。

「改革の政治」はその都度、敵対者や「抵抗勢力」を創り上げ、それを再編したり縮小したりすることで政治的加点としてきた。「改革の政治」が対峙する敵役は、労働組合や族議員、教育委員会などその都度流動的ながら、敵役の筆頭は常に官僚であった。

この点では2000年代まで民主党も自民党と同罪で、松下政経塾的な若手政治家がことごとく「尊敬する政治家」に幕末の志士や明治維新の政治家を挙げることは、明治維新がその実「巨大な行政改革」であった、換言すれば左右イデオロギーと無関係であったがゆえだろう。

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「改革の政治」は、その手法において「政治主導」、「リーダーシップ」、ないしは「ポピュリズム」と親和的で、それを政治的資源として有効に活用してきた。「リーダーシップ」や「ポピュリズム」は、それ自体、政治目的を達成するための手法であり、本来左右をとなわい(というかニューディールにせよ南米社会主義政権にせよ左もそれを使ってきた)。しかし、90年代以降の日本政治では、「リーダーシップ」や「ポピュリズム」は、専一的に「改革の政治」が独占してきたといえよう。

加えて、「改革の政治」は「本音の政治」でもあったろう。『本音で生きる』という時代の寵児としての堀江貴文、左派リベラルの建前や偽善を痛罵する橋下徹など。
          
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しかし、「改革の政治」は、①ある意味でやはり冷戦後の日本における「必然性」があったし、②そのなかには「民主的」な理念が孕まれていた、というよりむしろ、結局はその「民主的」な理念が換骨奪胎される形で、疎外される形で吸収された、という側面があろう。

第一に、「改革の政治」は、やはり一定の「時代的必然性」があったのだあろう。たとえば行政の肥大化や非効率化の是正など。青木雄二の『ナニワ金融道』で最も嫌らしく描かれるのは、役人である。それには、おそらく市井の人々からみた役所や役人の姿が投影されていたものと思える。青木雄二は共産党支持者だったが、その漫画で描かれたような反役人感情は、橋下政治に回収されたように推測する。

また第二に、「改革の政治」には、その原初には、「民主的」な方向へ展開される萌芽もあった。官僚批判は、転じて、政治を「市民」に取り戻すという大義によって正当化され、これ自体は理念としては批判すべきものでもない。中央集権の是正と地方分権もまた、理念としては、「民主的」な方向に即したものだろう。天下り批判や金権腐敗に対する批判も、その原初においては、「納税者意識」の始点であり、主権者意識の形成にも展開されうるものであろう。問題は、このような「民主的」な契機の萌芽が、小泉から橋下までの「改革の政治」の展開なかで、どこか「疎外」されていったことだろう。
          
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上部構造における「改革の政治」は、市民社会においてその基礎をも持っていたと思える。たとえば、行政制度や役所のあり方、企業の政治社員や労働組合のあり方など、55年体制下での様々な社会制度が、長期にわたりおそらく確かに肥大化、非効率化していたのは事実なのだろう。

また、55年体制下で安定的な政党支持と結びついていた労働組合が衰退し、非正規雇用などが蔓延するにつれ、伝統的な職業と政党支持との連関と、それに依拠した政党クリーヴィッジが流動化する。

言論メディアでは、90年代以降、「右でもない左でもない」言説が跋扈し、おそらく現在の20代から40代はそのような言論に触れながら政治志向を形成してきた。タブーに挑戦する『宝島30』、左右の偽善を暴く呉智英や宮崎哲哉、ポストモダン東浩紀など。古市くんがツイッターの自己紹介欄に「誰の味方でもありません」と書いているが、これは「右でも左でもなく」言論の行きつく先であろう。このような言論を受容する若年層が、左右対立なる古い図式を超克しながらも、「既得権」や「規制勢力」に抗って改革する政治に、ある種の公共性や現状変革のやり場を見つけだしていったのではいだろうか。

総じて、「改革/非改革の政治対立軸」は、「ポスト左右対立」の政治を描き出す、最も説得的で効果的なナラティブだったといえよう。

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このような市民社会の変化に対して、古典的な「戦後民主主義」や左派(社民党や共産党)は、若年有権者に対して魅力的かつ説得的なナラティブを示すことができず、基本的(いや決定的にか)守勢にまわってきた。
護憲や平和、格差是正など古いやり方を反復するしかなく、どうもそれが有権者に響いていないというのは相次ぐ選挙結果からうすうす自覚しながらも、他に方法がないので、現在もそれを追求するしかない状況にある。(付言すれば、護憲も平和も格差是正も大変重要で、「古いやり方」は重要だし、私も確実にその側にいると自己認識している)。
   
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しかし、何かのきっかけがあれば、流れは変わるだろう。

「改革の政治」を支持する有権者、極端にいえば、橋下旋風を支持した若年層は、おそらく、「反動的だから」そうしたわけではない。何か社会に関わりたく、現在の日本が抱える問題を解決したく、ある種の公共的目的に連なりたく、その発露が都構想なり「既得権打破」なりであったのだろう。左派的リベラル的な環境、文化、ヴォキャブラリーが衰退した条件で、それでもなお社会変革に連なりたい、貢献したいと思った時、人は「改革の政治」に自己同一化するのではないか。

人類学者のD. Greaver が「利他主義者の軍隊:疎外された善行権(Army of altruist: Alienated right to do good)」という小論で、アメリカでは、軍隊に行く若者は、教育の機会が奪われているからそうなるというよりむしろ、社会的に有意義で公共的な行為(たとえば反戦運動など)を行う機会が教育資本的に奪われているから、しかしそれでも他人や社会の役に立ちたいと思う(ないし自己納得させる)から、軍隊に入るのだ、と指摘している。だから、軍隊に入る若者は、逆説的にも、反戦運動をする条件がないから軍隊に入るのだ、と。それが「疎外された善行権」であり、東部エスタブリッシュメントのエリートは、この入隊する若者のこの気持ちを理解していない、と。

おそらく、橋下維新を応援した若年有権者も、官僚叩きや行政機構の不効率是正といった目的に、ある種の「善行」、すなわち社会的公共性を持つ目的を見出しているのではないか。その回路を、少し切り替えれば、「善行」の方向をこちら側に向ければ、端的にいえば、それを「疎外」されたものから、より長期的に熟議を伴って日本の制度を変革していく方向に切り替える回路さえ見つかれば、善行の発露は、われわれの方向に戻ってくるだろう。
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90年代以降の「改革の政治」を総点検し、それを内在的に理解しながら、それに対するオルタナティブとして、私としては「公正なグローバリズムの政治」という方向性に希望があると考えている。

前日の宣伝で恐縮ですが、明日10月10日13時30分より、文京区民センター2階Aにて、宇都宮健児さんと「分断から連帯の社会へ」というシンポを行ないます。私なりの「改革の政治」への分析と、それに対するオルタナティブとしての「公正なグローバリズムの政治」のイメージを提示して見たいと思います。

シンポジウム「『分断』から連帯の社会へ」(10月10日13時30分より・文京市民センター2A)



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# by akai1127ohi | 2016-10-09 14:06 | 政治時評 | Comments(0)

相模原事件と心の闇

相模原の事件を受けた、野田聖子氏のブログに、共感するところが多く、また考えさせられる。

かつて福祉事務所の夜勤警備員のアルバイトをしていた自分にとって、相模原の事件は、何とも言えない闇をもたらし続けている。殺された人たちはもちろんのこと、警備員のこと、職員のこと、福祉の現場に関わる同世代の人たちのこと・・・。

生半可な「性善説」など一瞬で吹っ飛ぶような福祉施設の現場。それは、私が関わった福祉施設でさえそうだったのだから、「行動援護」を必要とするいわゆる障害者施設ではなおさらにそうかもしれない。

他方で、熱意というより営利や食い扶持を求めて、様々にブラック企業なども参入していると聞く福祉の現場。やくざ的気質や率直にいってルンペンプロレタリア的な性向の人間、思い込みの激しい人間が入り込んでいて、不思議はないだろう。その背後には、慢性的に人出不足で待遇の悪い福祉や介護の現場の構造的問題があるのかもしれない。

相模原の犯人の福祉施設での月給があと5万円高ければ、事件は起こらなかったか?多分、そういう問題ではないだろう。でも、もはやかつてのような「経済成長」は見込めない現在、共生のための分野に資源を振り分ける判断が必要に思う。

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野田聖子氏のブログに共感し、「厚化粧の年増女」発言を拒否するととともに、都知事にはやはり鳥越氏を応援したいと思う。

「厚化粧の年増女」なる発言をする人間がいる政党から、小池百合子候補が出てくるところに、「向こう側のダイナミズム」がある。

鳥越さんはむしろ、自民党の野田さんのこの意見をとりあげて、演説で共感と連帯を示すくらいのダイナミズムが欲しい。

大事なことは敵味方関係なく、率直に大事だと公言し、それを力にするダイナミズムがほしい。
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# by akai1127ohi | 2016-07-29 00:23 | 政治時評 | Comments(0)

「群集(multitudo)」が変る小さなきっかけ

スピノザは『神学・政治論』(1670)では、「自然権」や「契約」など当時の学問のスタンダードである社会契約論の形式に準じて自身の思想を展開しているが、スピノザの思考の内実と「社会契約」の形式とは、やはりずれが生じているような予感を持つ。

他方、『国家論(政治論)』(1675)では、社会契約の形式からとりいそぎ解放され、それに捉われずに自身の思想を展開しているようである。

『神学・政治論』から『国家論(政治論)』へのスピノザのこの変化は、まるでロールズの『正義論』から『政治的リベラリズム』への軌跡を重なるようで興味深い。この軌跡を、井上達夫大先生のロールズ解釈にならって、「社会契約からの逃避」と見るか、それとも、「社会契約からの解放」による、より十全たるスピノザ思想の展開とみるか……。

そんなところに「あたり」をつけながら、スピノザ読書を進めていきたい。

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スピノザは人びとの集合体である「民衆」を表す語彙に豊富で、それらは秩序形成能力に応じて、「公民cives」、「臣民subditos」、「群衆multitudo」、「民衆vulgus」、「俗衆plebs」、「暴徒turba」などに分けられる。そこにおいて、「群衆(マルティチュード)」は「これから先どのようにでもなる可変的な存在」としての民衆像。

マルティチュードが「暴徒」に転化するか、「公民」へと転化するか、おそらくそれは小さな「きっかけ」なのではなかろうか。たまたま出会った人、見つけた本、聞いた話、通りかかった光景、触れた情報など。
たとえば、よくテレビなどでよく耳にするところの「曖昧模糊とした無党派層」。社会閉塞に直面し、政治に対してそれなりに健全でそして漠然とした不満を持つ人々。

そういう人たちは、トランプのデマゴーグに持っていかれもするだろうし、オバマの呼びかけの前に少し立ち止まって、問題の相対的に本質的な原因を見つめ、異なる人々との持続的な関係性を探り、自分たちの社会を建設的に作り変えていく方向に引き留められることもあるだろう。

そういう人たちは、橋下政治の掛け声に自らの思いを託したり、メディアが喧伝する桝添批判に雪崩を打って乗じて行ったりするだろうし、おそらく何か小さな「きっかけ」で、日本の社会のモデルを、もう少し長期的で、なんというか民主的なドライブを発揮させる形で打開していこうともするだろう。

そういう小さな「きっかけ」をどれだけ作れるか、どれだけそういう経路を生活のなかで豊富にしておけるか、それが勝負だろう。
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# by akai1127ohi | 2016-06-20 03:47 | 政治時評 | Comments(0)

スピノザの「自然権」

先週からある研究会で修士院生のイニシアティブの下にスピノザを読み始めたのだが、これが面白い。古典の言葉が、自分の今の問題意識にぴったりとはまる。17世紀オランダの文脈が、明確に2016年日本の眼前の状況にフィットする。今、自分にとって「スピノザと出会う時」だったのだろうと思う。

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スピノザは「自然権」という言葉を「自然法則」のような意味で使っていると解釈され、たとえば魚の自然権は「水の中を泳ぐこと」だとしている。ゆえに、魚に陸をあがれと言うことは、自然権に反する。その要求は、正しいとか間違いである以前に、魚にとって不可能であり、「魚の自然権に反する」。

人間にもできることとできないことがあるが、人間の「自然権」は、魚よりも幅が広く、揺らぎがあり、可変性がある。したがって、人間の自然権を探求するとは、人間の力の及ぶ範囲、変わることのできる範囲を認識すること。だから、スピノザの自然権は、「人間がこう生きるべき」という規範ではななく、水中が魚の生きる条件であるように、人間が生きる条件を認識する行為であろう。

しかし、だからといってスピノザの自然権が「規範」と無関係なのではない。人間とそのまとまりである民衆の「自然権」を探求することは、人間の「できるないこと/できること」を見つけることであり、どういう条件が揃えば人々は「できること」を発揮するかを内在的に理解することでもある。そこから、「認識」が規範に繋がりうる。

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「魚に陸にあがれ」と要求することが「魚の自然権」に反するように、ただ知識人が上から「民衆に政治的であれ」と要求することは、おそらく「人間の自然権」に反するだろう。だから、そのような要求はおそらく実現することはないだろう。

しかし、今、確かに民衆は政治的であり、それが野党共闘をもたらしている。それは、魚が水中に生きながらなお自らを変化させるように、人間も、人間の自然権に規定されながら、その制約のなかで、内側から自らを変えていく光景のようにも映る。「人間の自然権」に内在した民衆の動きが、人間の「できること」の幅の広がりを実証し、その幅が一体どこまで広がりうるのかを、確認しようとしているように見える。

スピノザを読みながら、そんなことを想起している。


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# by akai1127ohi | 2016-06-20 03:44 | 政治時評 | Comments(0)

オバマ広島演説と「一歩後退・二歩前進」

金曜日、S和女子大での4限の授業を終え、夕暮れの三軒茶屋を少しそわそわしながら、テレビのある洋食屋へ。少し早めの夕食をとりつつ、店のテレビで、夕暮れの広島平和公園の様子を眺める。店内もどこか凛として静かになり、オバマの声明が始まった。

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オバマの広島演説は、これまで数々のオバマ演説を比較的熱心に触れてきた私としては、やや曖昧模糊とした抽象論という印象だったが、現職大統領の来広として、その歴史的意義はやはり大きいと感じる。

オバマ演説の主旋律に、ふと、広島の高校生平ゼミで聞いた言葉を思い出した。「広島への原爆投下を仕方なかったと考える立場も、許せないと考える立場も、未来に原爆が使われてはいけないという点で一致できる」。

オバマの演説は、細部にいたれば注文も多く、もちろん批判もある。とはいえそれは、過去の不問を目的とした「未来志向」ではなく、過去の不一致を踏まえながら未来に向けて力を合わせるための「未来志向」だろう。そのようなものとして、私は肯定的に受けとめたいと思う。

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歴史はいつも、少しずつしか前進しない。2歩前進、1歩後退。
平和公園を歩くオバマに同伴する安倍首相の姿に、そんな、歴史に必然的に付随する「1歩後退」を如実に感じる。

毎夏8・6、去年と同じコピペ演説で広島を愚弄し、被爆者との面会を不誠実に回避してきた安倍首相。積年の不実がたたり、被爆者からの冷たいまなざしにも拘らず、オバマ同伴の手柄と親密さを演出するためか、着席する被爆者に嘘くさく歩み寄っては望まれもしない握手をする。

自分がさんざん邪険に扱ってきた広島を、オバマ同伴による「外交的手柄」として参院選を睨むならば、いくら寛容で少々の不正は水に流す日本人でさえ、そんな欺瞞は許されるべきものではないだろう。オバマ来広による確実な「2歩前進」で、この「1歩後退」が許されてはいけない。

そしてまた、この「1歩後退」によって「2歩前進」の成果すべてが「嘘くさいもの」と片づけられてもまた、いけないはず。

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オバマは平和公園を訪れる数時間前、岩国基地を訪れ、米兵、福田岩国市長、黄川田外務副大臣などを前に、8分間の短い演説をしている。内容は、強固な日米関係を讃え、熊本震災で展開したオスプレイ操縦士の救命活動を紹介するというもの。

平和公園で語るオバマは、そのまま、「軍服(men and women in uniform)」の前で語るオバマである。だからといって平和公園のオバマが嘘であるというわけでもなく、まただからといって、岩国基地で語るオバマから目をそむけてよいわけでもない。これはオバマの矛盾というより、現在のアメリカの持つ矛盾であり、二面性であろう。

               ***

ここ数日間、オバマ来広の昂揚感あふれるニュースに頻繁に触れながら、どこか、沖縄の草むらで一カ月間、誰にも見つけらずに雨風にさらされて死んでいた女性の存在が、なんともなしに思い返されたりした。

この問題を「封じた」(後藤謙次)上で、オバマの広島演説があっても、そしてそれは間違いなく大きな一歩だが、それはしかし、本当は最もプライオリティの高い政治課題から目をそむけたままになってしまうのではないか、という思いもちらちら頭に浮かんだ。

この問題は、70年前の広島以上に、オバマ大統領にとって最も直視するのが困難な課題であり、それゆえ直視すべき課題であり、オバマと、それに批判的期待をかけながら今一歩の前進を望む人々の、本当の試金石でもあるようにも感じる。
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# by akai1127ohi | 2016-05-30 03:19 | 政治時評 | Comments(6)

オバマと「民主的な文化」を作り出す力

オバマ大統領来広。

現職大統領の広島訪問の意義を大に感じつつも、やはり政治家としてのオバマの卓越さが如実に表れるのは、アメリカの歴史を想起させながら、人々の政治性と主権者意識を喚起し、アメリカなるプロジェクトを自らの思い描く形に引き寄せる、アメリカ国民への演説と感じる。
          
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四学期制の駒場での英語授業の最終回に、オバマのラトガー大学卒業式での演説を教材として利用する。



大学卒業式の演説ゆえ、主として学問論の建前をとりながらも、「壁の発想」(トランプ)に対する明確な批判、そして何よりその背後にある「反知性主義(anti-intellectualism)」に対する驚くほどまっすぐな批判を展開している。以下、印象的だった部分を訳出してみます。

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「(20:18~)壁を作ることは問題を解決しません。壁は経済を活性化することもないし、われわれの安全を高めることにもなりません。イスラム教徒を孤立化させ軽蔑すること、入国に際して彼らを他の人々と差別して扱うこと、それは、われわれ合衆国の価値への裏切りだけでなく、われわれのアイデンティティ(who we are)への裏切りだけでなく、暴力的な原理主義に対するわれわれの闘いに際しての、われわれの最も重要なパートナーとまさにそのコミュニティを追いやることなのです」

「国境の南端に終わりなき壁を作ること、移民の試練を論難すること、それは、「人種のるつぼ」としてのこの国の歴史に反するだけでなく、われわれが、世界中の果てから人々を引きつける魅力によってその成長、イノベーション、ダイナミズムを喚起してきた事実に反するのです。それがわれわれがアメリカを形作ってきたやり方です。なぜ今それを放棄する理由がありますか?」

「三番目に、事実、証拠、理性、論理、科学への理解。これらは重要なことです。……われわれは伝統的にこれらの価値を重んじてきたはずです。しかし、みなさんがこんにちの政治討論に触れるならば、きっと思うでしょう。この反知性主義(anti-intellectualism)の波はどこから来たのか?と。だから、2016年度卒業生の皆さん、これだけは明確にさせてください。政治でも生活でも、無知は美徳ではありません。自分が何を話しているかに無知なことは、ダサいことです。……」

「この国の建国者たちは啓蒙の子(born of the Enligtenment)でした。彼らは迷信、偏狭な仲間意識、部族主義、人種的偏見を克服しようとしてきました。彼らは合理的な思考と実験主義、よく物事を理解した市民が自分たちの生活をよくしようとする能力を信じてきました。……」

「そして今日、皆さんのポケットにはすべてスマートフォンがあります(聴衆笑)。ワンタッチで巨大な量の情報にアクセスできます。しかし皮肉なことに、情報の洪水は必ずしも私たちの真理を見極める力を高めていません。それはむしろ、われわれがより一層無知に居直ること(more confident in our ignorance)を可能にしています。ウェブ上にあることは何でも真理であると考え、われわれの先入観を補強するようなサイトを探します。独断が事実として虚飾され、もっとも粗野な類の陰謀説が絶対的真理のように流通します」

「事実の否定、理性と科学の否定、それは衰退への道です。私はカール・セイガンの言葉を思い出します。すなわち、『われわれは私たちの進歩を、探究する勇気とそれに対する応答の深さによって、「何が耳に聞こえがいいか」ではなく「何が真実であるか」を深く受け止める進取の精神によって判断する』」

               ***

あらためて舌を巻くのは、「文化」を創り出すオバマの卓越した手腕で、これは圧巻というしかない。政治不信、社会閉塞、格差や奨学金負債など、おそらく多くの問題が山積するアメリカで、言葉が若者の心を捉え、力強い言葉で自分の側に引きつけている。

自分の側に引きつけるという意味は、アメリカの若者を、知性や共感、異なる他者への寛容、デモクラシーへの信頼、そうした価値に引き留め、繋ぎ止めようとする、という意味です。そういう「側」に引き寄せ、そういう「文化」を創り出す力です。

換言すれば、そのような若者の心が、反知性主義、後ろ向きの解決、社会閉塞ゆえの差別など、そのような方向に流れていくのを、「阻止する力」でもある。

               ***

おそらく、日本でも、橋下維新などを支持する若者層も、どこか、現在の社会に対するある種当然な不満と、その現状を打破したいという、ポジティブな意識があるはず。

「政治家は何も仕事していない/変えられない」という、日本でもおなじみの政治不信は、一方で橋下維新的なものに回収されると同時に、何かきっかけがあれば、回路があれば、より知性的で、他者との共同性に開かれ、より持続的にこの社会の問題を見つめ、それを解決していこうとする、そういう方向性への「繋ぎとめられる」はずだろう。

そのための「文化」を創り出すこと。
オバマに学ぶことは多いはずだろう。
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# by akai1127ohi | 2016-05-30 03:11 | 政治時評 | Comments(0)

「わかりやすい政治/変える政治」を求める圧力の先にあるもの

NHKスペシャル「18歳からの質問状」(5月4日夜10時)を見た。

民進党山尾、共産党吉良、公明党ながら比較的リベラルと聞く佐々木さやかなどが出演し期待感があったが、議論の進み具合に、およそ30分で違和感を感じはじめる。この違和を言葉化する必要を感じ、荒い記録までに書き留めます。

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この番組の構成は、自民党から共産党まで多様な政党をまとめて「政治家チーム」として一括りにし、18・19歳の新有権者と対峙させる構図で、政治家には、「政治家どうし」の議論にならないように、個別具体的な政策には触れてはいけないという決まりがある。その上で「政治家vs新有権者」という擬似的対立軸の上で議論をしたらどうなるか。

案の定、18・19歳による政治家への批判は、政治に関する理念や価値観とは直接の関係のない、いわば没イデオロギー的な論点に収斂していく。たとえば、①政治家は「わかりやすく」話すべき、②政治家の歳費は高すぎる/政治家はそれに見合った働きをしていない、など。

これらはいずれも、より本質的な政治的論点、すなわちTPPや消費税や安保法制といった現下の政治課題や、その背後の「あるべき社会」をめぐる価値観をすべて括弧に入れた話であり、この番組は、そのような価値観対立やイデオロギー対立を「避けた」政治の語りがどのような帰結へ行きつくかを、萌芽的に示していたように思える。

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たとえば「政治家は難しい言葉で話しすぎ/もっとわかりやすく若者に響くように話せ」という批判も、その「難しさ」の定義は曖昧で、共産党の理詰めの質問が難しいというレベルとも、安倍の答弁が「はぐらかし」で難しいと言うレベルとも判然しないとまま、とにかく「政治家はわかりやすく話せ!」という批判がスタジオ共通了解となっていく。

「政治家の歳費が高すぎる/なんでそんなにお金もらってるのか」という批判も、これ自体は一定の妥当性はあり、適正な歳費へと縮減されるべきは当然だが、とはいえ、現下の所得の不均衡の全体像から見て、本来、公平の観点から最も批判されるべきは、企業のCEOや銀行頭取らや株主らや金融資本であり、それらの富がけた外れであろう。むしろ、政治家の「高給」叩きは、それを相対的に不可視化させる「ショー」のようにも感じた。

全体的に、政治家を「一まとまり」にして、それに18歳有権者を対峙させて批判させる同番組には、いわばここ10年の「公務員叩き」の延長上にある、ある種の「つるしあげ」的な瞬間を感じないでもなかった。

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「政治家は高い歳費を貰ってるんだから働いて成果を出せ」と言う批判も、そもそも何が政治家の「成果」なのかを論じることが本質的であり、それをめぐって本来は価値観が多様に乱立しているはずであろう。しかし、「結果」とは何かという内実を議論することは括弧にいれたまま、とにかく「目に見える結果を出せ」となる。

新有権者の一人がいみじくも、「こちらはお金を払ってるんだから政治家はそれに見合った働きをするべき」と言っていたが、確実な「消費者意識」だけはあるのである。

だって金(税金)を払ってるんだから。
自分たちは税金払ってるんだから、そして政治家はそれで歳費をまかなってるんだから、ちゃんとやれ、となる。

基本的に、料理を作る作業にまったく関与しない/できないまま、料理の代金は払ってるので、早く迅速に美味い料理をしっかり運んでこい、という式の「批判」になる。

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元来、「政治のプロ」と有権者を隔絶させ、政治家と若者に線を引いて対立構図を作ってみること自体が、擬似的でまやかしの対立図式であると思える。政治に対する当事者性を実感しえず、その帰趨を左右する権利もないのだから、必然的に批判は「無責任」でしかありえない。有権者が「政治のプロ」を無責任に批判し、「政治のプロ」がその特権の裏返しとしておもねって聞く、といういびつな構図を作り出すことが、主権者教育であるはずがないだろう。
              ***

本来は、憲法、TPP、消費税、安保法制といった「本当の、本質的な政治課題」をめぐり、国会議員も18歳も関係なく、賛成反対留保を明らかにしたうえで討論することこそ、政治的な番組というものだろう。

価値や利害の多様に対立する課題をあつかい、それに対する態度決定をめぐり真剣に議論すれば、「わかりにくい」主張は議論のなかで自然に淘汰されるし、どうすれば「わかりやすく」主張を展開できるかが自然に体得される、はずであろう。

(その意味ではこのようなNHKの「安全な」啓蒙番組より、もっと生々しくて野卑で正直な「朝まで生テレビ」などの方が、政治討論の質としていかに二流三流であれ、より本質的な主権者教育の実践とも感じる)。

              ***

番組に登場した18・19歳の政治批判のあり方は、おそらく90年代以降の日本のメディアによる「政治批判」の論調のなかで政治報道に触れ、それによって政治観ないし政治家観を作ってきた世代の、或る意味で必然的にパターン化されたものと感じた。

1990年代以降、冷戦構造の終焉とともに、左右対立の時代遅れ、イデオロギーの喪失が「常識化」され、政治における価値感の対立が喪失された。左右対立に基づいた政治対立軸、その「ナラティブ」に従った政策論争を「終わった」ものとして不可視化する言論構造が、ここ20年以上続いている。

その結果としてか、90年代以降の日本政治をめぐる対立軸らしきものの一つは、政治をめぐる価値観とはあまり無関係な、非イデオロギー的な課題をめぐっての、「改革か否か」の競合、あるいは「誰がもっとも効果的に改革できるか」というものである。

対象は何かを明示しないままの「はっきりイエス、はっきりノー」の賞賛、目的語不在のままの「改革」、言ってる中身不在のままの「わかりやすい話し方」の称揚なども、それに伴う象徴的な政治スローガンといえよう。

そして、行政区画の改変(大阪都構想など)、公務員制度の改革、国会議員の削減といった課題で実行力と効率性を競い合う政治は、このような、非イデオロギー的な課題をめぐっての「改革か否か」をめぐる政治に最も適合的な政治競合であり、それゆえ、ここ10年以上の日本政治の「対立軸」を表層的に規定してきたように思える。

              ***

「政治家は庶民にわかりやすく政治をしろ」という圧力、そして「変える政治/改革する政治」を賞賛する圧力とが帰結させるものとは、一体どんな政治だろうか。

それはすなわち、過度にわかりやすく単純化された擬似「対立」構図を作り出し、比較的容易に変えることのできる対象を狙い撃ちして「改革の成果」を作り出す政治に帰結するのではないか。

「わかりやすさ」とは、たとえば小泉郵政劇場であったり橋下の友敵政治であったりするだろう。「変える政治」とは、55年体制下で一定程度の社会的機能を果たしながら、現在はいわば脆弱化するとともに「既得権化」した中間団体(たとえば労組など)を攻撃、改編して「達成」とする政治だったりするだろう。

すなわち、「わかりやすさ」と「変えること」を目的化して政治に要求する言論圧力は、わかりやすい擬似対立図式を煽るポピュリズムと、非本質的で「変えやすい対象」を狙い撃ちしてその解体を「成果」として目に見える形で出すいびつな改革主義を招くのではなかろうか/招いてきたのではないだろうか。

「わかりやすく」かつ「結果を出す」ことを基準にすれば、それはポピュリズム的な改革政党を要求する圧力になっていくだろう。端的にいって、あの番組に出た18歳のおそらく半分くらいは、おおさか維新に入れると私は思う。

              ***

番組では、奨学金を背負う大学生も紹介されており、母子家庭出身の国立大学生が、月15万、4年間750万の奨学金(奨学ローン)を借りることになり、今から倹約してごはんに納豆とマヨネーズをかけて食べる状況も紹介されていた。

これは実質的に本質的な政治課題であろう。
そして、これを番組も政治家も無視してはいない。

しかし、こういう本質的な政治課題が、「改革の政治学」の語彙だと、どうもうまく翻訳されないのである。「改革の政治学」の言葉には、これを掬い取り、アジェンダ化する言葉がない。だからどうしてもどこかずれがある。

求めるべきマクロな社会像をめぐる「価値対立の政治学」、政治の目的をどこに定めるかという「理念の政治学」に、これらの課題を置きなおす作業が必要と思える。

https://youtu.be/86HNCFVi-yg


https://www.youtube.com/watch?v=86HNCFVi-yg
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# by akai1127ohi | 2016-05-08 00:56 | 政治時評 | Comments(0)

【詩】 民衆の声

聞こえないか
民衆の声が

支持とも批判ともつかぬ眉間のまま
宣伝カーを通り過ぎる人々の群れ

混迷のなかで
路上に佇む生活者の表情

革命を求める声ではない
本性は保守的で
小さな変化が巨大なエネルギーに
転化するのを怖れている

反動を諦め受け入れる声ではない
現状ではだめだと感じながら
小さな一歩を求めてもいる

変化を求めながら混乱を怖れ
新しい一歩を踏み出そうにも逡巡をくりかえし
バツの悪い顔でそっと隣を様子見する
そんな民衆の表情

そんな人々の退嬰的で小市民的な
民衆の声
そんなたしかで健全な
民衆の声

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そんな声が
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# by akai1127ohi | 2016-04-18 12:12 | | Comments(0)
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